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王陽明の名句とその解説

岡田武彦述
−目次−




四、人は必ず事上にあって磨錬すべし

竜場に来た翌年、陽明は罪を許され、江西省内の一県知事として赴任することになりました。そして間もなく、武宗皇帝を取り巻く側近の悪者八人は死刑に処せられます。しかし、なお側近には他の悪者がおりまして、彼らが色々な画策をするため陽明は大変苦労させられるのですが、その状況はまた後でご説明します。

そして陽明は、赴任の途中も任地に着いてからでも多くの、門人たちに色々なことを教えたのですが、その中で静坐の重要性も説いております。

しかし門人の中には、いたずらに静のみを求めるものがおりました。例えば、ある門人が「何事もしないで心が静かなときには道を求めることはできるように思いますが、さて何かしていると心が動いて、心を磨き01道を求めることができないようになります。これではいけないと思って、また退いて心を静かにして心を磨くようにしましたが、再び何か事に出会いますと心が動いて、うまく心を磨き道を求めることができなくなります。心には内と外の二つの心があるのでしょうか。いったい、どうしたらいいのでしょうか」というような質問をしました。

これに対して陽明は「心に内と外というような二つの心があるわけはない。心は一つだ。だから、むしろそういう場合には、事をなしているときに心を磨いて、そして道を求める修行をした方がよい。そういう努力をすれば、事がない静かなときにも自然に道が求められるようになるのだ」と答え、「事上磨錬」ということを説いたのであります。

このように陽明は、静かなときに道を求めるよりも、むしろ事をなしているときに道を求めることが大切であるという意味の教えを説いたわけでありますが、しかし決して陽明は静かなときの修行を否定したわけではありません。ただ、そういうときにだけ心を用いて他のときの修行を忘れたならば、静かなときに求めたと思ったものも、それは本物ではなかったということになってしまうのであります。

前にも申しましたように、かつて陽明は竜場で静坐して聖人の道を悟りました。しかし、陽明が悟るに至ったのは、それまで色々な苦難を経たからであります。そのように静坐して道を悟ったので、竜場から帰るとき門人たちに静坐して道を求めるようにといったところ、陽明のように色々な苦難を経ていない門人たちは、静坐して頭に何か想念のようなものが現われると、何か悟ったような気になってしまうものが多く出てきました。つまり、静坐の弊害を生じたわけであります。それで陽明は、これではいけないというので、それからは余り静坐のことを説かないようになりました。ですから、陽明は決して静坐を否定したわけではありません。むしろ、事上磨錬といったように、人間が活動する現実の中で道を求め心を磨くように努力せよと教えたのであります。これも、陽明の実践哲学の一つの表われであります。

こういうことは禅でも行なわれております。例えば、白隠和尚はそういうことをいいました。静かなところで坐禅して仏の道を求めるよりも、何か事があるとき、その中で仏の道を求めることが何層倍も難しいか分からない、そういうことをやってこそ本当の仏の道を悟ることができるのであると強調したのであります。そういう点は陽明も同じで、このように事上磨錬を説いたのであります。陽明学を修める人は、この事上磨錬という陽明の言葉をよく身に付けるよう努力してまいりました。




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