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王陽明の名句とその解説

岡田武彦述
−目次−




序

はじめに
王陽明という人は、中国で明代の中頃すなわち十五世紀の終わりから十六世紀の始めにかけて活躍した偉大な儒者であります。陽明は、聖人といわれた孔子の説く儒教の道徳は誰でも生まれつき持っているところの我が心の良知にあるといって良知の学を説いて儒教に新しい境地を開き、これを大きく深く発展させました。これを世に陽明学といいます。つまり、陽明は陽明学の開祖となった儒者であります。

実は、陽明は偉大な儒者であっただけではなく、明の朝廷が顛覆するのではないかと思われたような王族の叛乱を短期間の間に平定して、明の朝廷を安泰にするという大なる功績があります。ですから、陽明は文武両道を兼ね備えた偉大な儒者であったのです。こういう儒者は他にはおりません。陽明の学問思想をよく理解するには、そういう陽明の建てた軍事上の功績をも知っておかなければなりません。

日本において陽明学は江戸時代からようやく盛んになり、幕末となるにつれて栄えてまいりました。幕末の陽明学者の一人が山田方谷先生でーあります。方谷先生は陽明の良知の学を学び、それを身に付けて実践され、疲弊した藩政を立て直すために大きな貢献をされました。ですから、方谷先生の学問を知り、その教えとか実践されたことをよく理解するには、やはり陽明学とはどういうものであるかを知っておかなければ、その理解が深くなりません。

そこで、陽明学の真髄を表わしていて分かり易い陽明の名句十項目を挙げて、これを紹介し、それに誰でも分かるような解説を加えることにしました。

儒者とは

ところで、陽明は偉大な儒者でありますが、儒者とはどういう人かということを説明しておかなければ分かりにくいと思います。儒者とは、聖人といわれた孔子の説く儒教の道徳を遵奉し、孔子孟子が学んだ昔の聖人や、またその後の賢人たちの書いたものを勉強する人をいうのであります。それでは、孔子の説く儒教とはどういうものであったのかといいますと、それは人間として守らなければならない道徳は血を分けた肉親に対する思いが根本で、その思いをもって道を説き、それでもって家族および社会の人々の守るべきものだといったのであります。

もちろん、道徳を説くのは必ずしも孔子だけではありません。それは、他の人々もみな道徳を説きます。しかしながら、肉親に対する自然の思いやりの情を根本として道徳を説いたところに儒教の特色があります。それを人倫道徳といいます。他の宗教家や思想家は人倫道徳をあまり説いておりません。人倫道徳を根本とする教えを説いたところに儒教の特色があるわけです。

孔子は釈迦、ソクラテス、キリストとともに聖人といわれた人であります。その教えが中国で政教の根本であるとされたのは、漢の時代からであります。それ以後、儒教は中国の伝統思想となってまいりました。そして、その教えは韓国や日本だけではなく、広く東南アジアに及び、後には欧米にまでも拡がっていきました。

高級官僚の試験(漢・唐・宋の時代)

漢の時代には高級官僚をもって政治ないしは教育を担当させましたが、その高級官僚を採用する試験を何年かに一回、都で行ないました。その試験に及第すると、その人は立身出世が保証されますので、天下の秀才たちは皆それを受験しました。ですから、その試験に及第することは非常に困難であるとともに、また偉大なる光栄でもありました。試験のやり方は色々ありましたが、その一つの重要なものに、孔子やあるいは孟子など、の教えたことだけでなく、孔子や孟子が学んだ古の聖人の書物およびそれらの注釈書まで一字も問違いなく暗諦していることを試験し、それによって合格か否かを決めたのであります。

唐の時代になりますと、その注釈書もよく理解できなくなったので、注釈書にまた注釈を施して、それを教科書にしました。そして、儒教の経典ばかりではなく、その注釈書はもとより、注釈書の注釈までも一々暗諦しているかどうかを試験して高級官僚を採用し、それを政治家にしました。もちろん、それだけではありませんが、それが主な高級官僚の採用の仕方でありました。そうなりますと、孔子が説く道徳の精神は忘れられてしまいます。つまり、そういう教えの書物を一々間違わず暗諦しているかどうかで合否を決め、たので、孔子の精神つまり儒教の精神が失われてしまいました。

そのため、次の宋の時代になりますと、そういう試験のやり方は誤っている、我々が儒教の経典を学ぶのは聖人のような人間になって積極的に世の人々のために働くことである、だから、その経典や注釈書および注釈書の注釈を一字も間違いなく暗諦することで高級官僚になるというのは聖人の道を誤るといって、儒教は聖人のような人間になって世のため人のために働くのが目的であるという考えを述べる儒者が出てきました。そこで、儒教の経典の中から問題を出し、それに対する論文を書かせるというようなことが行なわれるようになりました。しかし、そういう考えも、いつの間にか忘れられてしまいました。

儒教の発展

また、宋の時代になりますと、儒教も大きな発展をとげました。というのは、孔子の説く教えを広大深遠なものにしたわけであります。何故そうなったかといいますと、それは中国に入ってきた仏教の哲学の刺激を受けて儒教にはそれに優るとも劣らない広大深遠な真理があるといって儒教を発展させたのであります。もちろん、それは孔子たちが未だ口ではあらわに述べていないが、もともと儒教が内に持っていたものを明らかにしただけであるというようなものでありました。

このような考え方を集大成して宋代儒教の代表者となったのが南宋の初めに出た朱子という偉い儒者であります。朱子は、そういう儒教の道徳は人間の本性の中に生まれつきあるものであって、人が守らなければならない理法であるといいました。そして、その理法は人間だけにあるものではなくて、宇宙万物おのおのに備わっているものであるから、人間の細々しい道徳だけではなくて、宇宙万物の持っている理法をも一々窮めていかなければ聖人にはなれないといいました。

もちろん、それは人倫道徳の学問が中心でありますけれども、その上で宇宙万物の理法を求めようとしたのであります。朱子はまた、この理法は宇宙生成の根本にもなっているといいました。それを天理といいます。すなわち天の理法、天から与えられた理法であります。そして、それは人間が生まれつき持っているところのものであるといって、人間を小宇宙というようにまで考えつきました。そして、このような考えを集大成して儒教を一層発展させたのであります。朱子は朱子学の開祖でもあります。

日本や韓国の状況

日本では江戸幕府が朱子学を政治の根本精神として取り入れたこと、また江戸時代になってから朱子学が非常に盛んになったことは、皆さんもご存じでしょう。もちろん、江戸時代には陽明学も取り入れられ、日本でも段々と広がり発達するようになりました。どちらかというと日本人の心情は陽明学に近いところがありますので、日本人は朱子学よりも陽明学を好む風潮がありました。

それと同時に、日本では中国のような高級官僚になるための試験科目として朱子学を採用するようなことをいたしませんでした。ところが、韓国では試験科目として朱子学を採用し、それ以外の学問を斥けました。ですから韓国では陽明学は興りませんで、朱子学だけであります。ここが韓国と日本の違うところであります。それは、両民族の気風が違っているからでもあります。日本は、そういう試験制度を採らなかったことが、また幸いでありました。

高級官僚の試験(元・明の時代)

さらに中国では、元の時代から朱子学がまた試験科目に取り入れられ、明の時代になりますと一層それが厳しくなりました。つまり、朱子学による儒教の経典の解釈をよく覚えておかなければ高級官僚の試験に及第しないというので、明代になりますと塾や学校は皆そのための受験勉強を教えるようになりました。朱子も儒教は聖人になるための学問であるといっておりましたが、そういう朱子の精神を忘れてしまって、ただ朱子学を知識として理解することばかりが、求められました。そこで色々な弊害を生じたのであります。また、そういう弊害が起こる原因も、多少は朱子の考え方の中にないでもありません。

そこで、明代の中ごろに王陽明が出て、先ほど申しました良知の学を説いてその誤りを正し、そして知識一辺倒になる朱子学の弊害を指摘してそれを排斥し、良知の学を掲げ世の中が私利私欲に明け暮れているのを見て、これを救うことに大いに努力したのであります。

陽明学の名言十項目を

さて、ここに掲げた十項目は陽明学の真髄をよく表わしていると思われるもので、しかも誰にでも容易に理解されるものにいたしました。そして、それに分かり易い解説を加えましたが、陽明の説く学問を理解するにはやはり陽明の生涯を知らなければ不十分であります。陽明の生涯は大苦難に満ちたものでありました。そういう生涯の中で陽明は悟りを開き、最後に良知の学に到達したのでありますから、ここに掲げた陽明学の真髄を表わす十項目の名言もそういうことを知っておかないと十分に理解できません。それで、そういう点にも触れながら、この十項目の名言をどなたにも分かり易いように解説してみました。




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