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王陽明の名句とその解説

岡田武彦述

−目次−


二、志が立たねば、天下に成るべきのことなし

当時、明の朝廷にいたのは武宗という皇帝でありますが、その政治が良くないため、明のこの時代は全国に不穏な情勢が続いておりました。南方には乱賊が起こり、また王族の中には隙があれば武宗の帝位を奪ってやろうという野心を持つものが出てくる有様でした。そのように政治が悪くなったのは、幼い武宗を取り巻く八人の悪い側近がおり、そのため彼ら悪人たちは次第に政権をほしいままにして、国の政治を乱していったからであります。

このような状況を憂えた何人かの忠臣は、彼ら悪人たちを除かなければ政治は良くならないと考え、彼らの罪を述べてこれを排斥するよう武宗に上奏しました。ところが、それを知った彼らは忠臣を捕えて牢屋に入れました。当時三十五歳で軍事関係の役人をしていた陽明は義憤の情にかられ、忠臣を救済するよう武宗に上奏しました。そのため、陽明も彼らに捕えられて牢屋に入れられ、さらに囚人のように、中国の南西の果てにある貴州省の田舎の深い山中にある竜場というところの宿場の長として流されることになりました。そこに行く途中でも悪人が放った刺客の手で陽明は殺されかけましたが、それをうまく逃れ、一年くらいもかけて竜場に着いたのであります。

この竜場は蛮地の中の蛮地というような場所で毒虫や毒蛇がウヨウヨしている上、現地の人たちとは言葉も通じないような有様でした。住む家もありませんでしたので、陽明は従者たちと一緒にイバラを切り開き掘立小屋を作って住みました。そのうち陽明は、近くに鍾乳洞を見つけて移り住むことにしました。そして、食べ物を確保するのに土地の開墾までしなければなりませんでした。

しかし、そんな苦労よりもっと大きな心配事が起きたのです。といいますのは、陽明の父親が悪人の命令で職を辞めさせられたということを家からの便りで知った陽明は、悪人の魔手が自分の身辺に及ぶに違いないと考え、いやおうなく生と死の思いに心を動かされたのであります。そこで陽明は、そういう生と死の思いから解放されなければならない、もし聖人がこのような状況に陥った場合にはどのように対処したであろうかということを心に念じ、鍾乳洞の奥に作った石の囲いの中で昼夜を分かたず静坐し続けました。そして一夜、朱子のいうように万物の理法を心外の事物に求めてきたことは誤りであった、聖人の道はすべてわが心性の中に備わっている、つまり心即理である、と悟ったのであります。これを世に「竜場の大悟」といいます。

その一方、現地の人たちはだんだん陽明になついてきまして、陽明も開墾した土地からの収穫が余ったときには、それを近くの貧乏人に恵んだり、現地の人たちと宴会を開いたりしました。また、彼らは陽明が鍾乳洞の中に住むのは健康に悪いと心配したので、陽明は彼らの協力を得て木造家屋を新築して移り住みました。そのうち陽明を慕う学生が続々と集ってきて、新築の家屋を竜岡書院と名付け、陽明のもとで学問に励むようになりました。その多くは現地の人たちの子弟であったようですが、陽明は彼らが守らなければならない基本的な教訓を「竜場の諸生に示す教条」として与えたのであります。

この教条は学生たちの教育に関する陽明の基本方針を明らかにしたもので、立志(志を立てること)、勤学(学に勤めること、勉強すること)、改過(過ちを改めること)、責善(善を行なえと責めること)の四つを挙げ、それぞれについて具体的な内容で教えています。その中の「立志」の冒頭で陽明は、右に掲げているように「しっかりと志を立てるようにしなければ、天下のことは何一つとして成し遂げることができない」と教えたのであります。何に対して「志を立てる」のか、それは聖人になってやろうという志であります。そこで陽明は、続けて「しっかりと志を立てて聖人になろうと思えば聖人にもなれるし、賢人になろうと思えば賢人にもなれるのである。志がしっかりと立たなけれ、ば、舵のない舟や手綱のない馬があてもなく放浪するように、どのようなことをしでかすか分からなくなる」と説いたのであります。




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