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王陽明の名句とその解説

岡田武彦述
−目次−





一、読書して聖賢を学ばんのみ

前に申しましたように、中圃では高級官僚の試験に合格すると立身出世が保証されることになりますので、天下の秀才は我も我もとそれに応募して試験を受けました。ですから非常に難しい試験であります。そして、そういう難しい試験に第一番の成績で合格したのが、実は王陽明の父親でありました。

小さいときの陽明は非常な腕白小僧であり、また餓鬼大将で戦争ごっこなどをして遊んでいましたが、あるとき人から勉強しなければいけないと言われたのに発奮して勉強を始めました。陽明は塾に入って勉強していたのですが、十二歳のとき塾の先生に「世の中で一番大事なことは何でしょうか」と尋ねますと、「お前は早く試験に受かる勉強をしてお父さんのように合格しなければならない」と先生が教えたのであります。5ところが陽明は「そうじゃありません。儒教の勉強は聖人になるためにするものであります」といったので、塾の先生はビックリ仰天しました。世の中の学問するもの、つまり学者は皆朱子学を勉強し、その経典をよく暗諦して試験に合格することが学問の目的と思っている中で、陽明が聖人になるために勉強するといったので、先生がビックリ仰天するのは当然のことでありましょう。

これも前に申しましたように、宋代の初めには儒教の勉強は聖人になるためのものであるといった人がおりましたが、そういうものはいつの間にか忘れられてしまって、明代になると、朱子学一辺倒のいわゆる知識だけの学問が横行していました。しかも、明の朝廷では、朱子学以外、の立場で儒教の学説を解釈する人はときには処刑するほどになりましたから、皆が皆、朱子学を勉強したのであります。それは、聖人になるためではなくて、いわゆる高級官僚になって立身出世、することを目的とするものであり、ただ朱子学による経典の解釈を詳しく広くすることが学問の目標となってしまいました。いうならば現在の日本の受験勉強のようなものであります。日本のあちこちで受験勉強のための教育をしていますが、それと似たものといってよいでしょう。

そういう勉強は間違いであって、儒教の学問を学ぶのは聖人になるためのものであるということを子供のころの陽明がいったのは、まことに素晴らしいことであります。塾の先生がビックリ仰天するのも当然のことでしょう。やがて、後に、そういう学問を聖人の学、すなわち聖学といって、知識一辺倒の朱子学が横行する中で、その聖学を復興するため陽明は努力するようになりますが、どうしても朱子学者から色々な批判を受けました。それにもめげず陽明は、新しいいわゆる陽明学といわれる学説を唱えて、朱子学の弊害を救うことに努力しました。

朱子学は、ご存じのように日本では江戸幕府が政治教育の根本理念としたものであります。しかし、実は陽明学のほうが日本人の思想に合ったところがありますので、後になると陽明学はだんだん盛んになって日本人に好まれるようになりました。山田方谷先生は、この陽明学を学ばれて藩政の改革に大きな功績を残された偉い儒者であります。

さて、陽明は聖学に志しましたが、よく考えてみますと、朱子も究極は聖人になる学問を目指したのであります。ただ朱子の考え方は、物の道理を一々こうしなければならない、また何故そうなければならないかということをしっかりと知りつくした上で、それを実行し一それを積み重ねていくと、結局、聖人のような境地に達するというのであります。しかも、物の道理といっても、単なる人間の社会生活の問題だけではなくて、自然界の物についてもいったのであります。ですから、朱子の学問は、やや西洋の自然科学に通ずるところがあります。

しかし、朱子の考え方を実行するとなると、いつまで経っても悟ることなどできません。陽明も朱子学を勉強しているとき、一時、竹の道理を窮めようとして病気になりました。それで、聖人になるのをあきらめたといいましたが、また思い返して二度も挑戦しましたけれども、それでも分からない。そこで、とうとう朱子学の勉強を放棄してしまい、自分は聖人になることはできないといって隠遁しようとしました。

仏教や道教の人たちはよく隠遁を望みます。陽明も隠遁して世間の俗念を一切忘れてしまおうと思ったのでありましたが、早く母を亡くしたため自分を愛してくれた祖母、それから父親の二人に対する思いはどうしても忘れることはできませんでした。それで、こんなことをしていてはいけない、これは人間の道ではない、人問は自分の属するものに対する思いやりとともに、その心を世の中に広めて世の人々のために尽くすことが筋道である、これを説くのが儒教であるということを悟り、それからは儒教を信奉するようになりました。

そして、また友人と一緒にいわゆる聖人の本当の学問を世の人々に理解してもらおうと運動しました。しかし、陽明自身が人の上に立つ役人にならなければ、人々が認めてくれはしません。そこで、やむなく高級官僚になるための試験を受けて役人になりました。




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