Oh!陽明学TOP山田方谷トップページ
王陽明の名句とその解説

岡田武彦述
−目次−




三、知は行ないの始め、行ないは知の成れるなり

竜場の竜岡書院での陽明の高い評判はだんだん広まって、貴州省の長官や学政官の耳にまで届きました。そこで、彼らは省の都にあった書院を修復して陽明を院主に招き、子弟を引き連れて講義を聴くことにしました。そのときに講義した陽明の話がいわゆる知行合一説であります。そこで陽明がいったのは、右に掲げているように「知は行ないの始めであって、行ないとは別のものではない。また、知が成し遂げられたものが行ないであって、行ないは知から離れたものではない。両者は一つにつながっているもので、離すことはできない」ということであります。これが陽明学で有名な「知行合一」という教えでありますが、この考え方は、世の中で主流となっていた朱子学の考え方とは正反対で、世問の人に対して衝撃的な説でした。といいますのは、朱子学では「先知後行説」という考えを唱えていたからです。

つまり、実践する前に先ず事物の理法を窮めておかないと、その実践はでたらめな行ないになると朱子は考えたのです。先ず知った後で行なうという考え方は常識的で分かりやすいものでありました。そこで、ある日、偉い門人の一人が陽明に「誰でも親に孝行しなければならないと知ってはいますが、現実に孝を尽くすことは中々できません。そうしますと、知と行ないとが別のものであるの、は明らかではないでしょうか」と尋ねたことがあります。これに対して陽明は「そのように知と行ないとが二つに見えるのは、その人の考えが私欲におおわれているためであって、知行の本来の姿ではない。知っておれば必ず行なうものだ。知っていて行なわないのは、要するに知らないのだ」といい、「だから、昔の人は真の知行は美しい色を好み、嫌な臭いをにくむようなものだと説いたのだ。

つまり、嫌な臭いを嗅ぐのは知に属し、嫌な臭いをにくむのは行に属するが、嫌な臭いを嗅いだ時は既にそれをにくんでいるのであって、それを嗅いでから後に別の心を働かせて嫌な臭いをにくむのではない。例えば、鼻づまりの人は嫌な臭いを出すものが目の前にあっても大してにくみはしないが、それは嫌な臭いを知らないからだ」と教えたのであります。

また陽明は知行合一について、「今の学者は知行を二つに分けるから、一念が発動した場合、それが不善のものであっても、まだ行に至っていないからと止めない」ともいっています。つまり陽明は、不善の念や私欲を徹底的になくすようにと教えたのであります。




 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所