山田方谷と炎の陽明学

危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学とも称される陽明学。 その神髄を身をもって実践した『リストラの天才』が、幕末の日本にいた。名を山田方谷(ほうこく)という。 十万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか八年で立て直し、逆に十 […]

方谷イズム ~陽明学とキリスト教~

新島襄と備中松山藩 高梁市内には県下でも最も古い教会があるように、維新後、高梁では全国でも有数のキリスト教文化が花開いた。高梁でキリスト教がここまで盛んになったのは偶然か、必然か、高梁のキリスト教信者らは、キリスト教の福 […]

板倉勝静と新選組

安政七年(1860) 3月3日、水戸浪士たちが老中井伊直弼を桜田門前で暗殺した。 世に言う桜田門外の変である。この事件を契機に歴史は一気に動き始めた。 このとき備中松山藩主・板倉勝静は「安政の大獄」において寛容な処分を井 […]

平成塵壺紀行

塵壺とは河井継之助が西国遊学の際に記した紀行日記である。 継之助はこの塵壺以外には著書はなく、継之助唯一の著書として有名であり、かつ 継之助の人となりを知る上でも貴重な資料である。 紀行日記とは言っても継之助自身、この塵 […]

河井継之介の生涯

|少年期~遊学時代 越後長岡藩七万四千余石は越後のほぼ中央に位置し、城下の近くを信濃川が流れている。長岡藩主牧野氏は三河牛久保出身で元和四年(一六一八)入封以来、幕末まで十二代にわたり連綿と藩を支配した。藩是は質撲剛健を […]

方谷の人間研究

  -山田方谷(やまだほうこく)とはいかなる男か- 徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れ […]

陽明学を志した日本人

中江藤樹 なかえ-とうじゅ 【中江藤樹】 (1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問 […]

山田方谷 名言集

方谷先生の残した名言集です。現在追加中 「名利ノ為ニスル私念ニ出ズレバ、縦令(たとえ)驚天動地ノ功業アルトモ、一己ノ私ヲ為スニ過ギズ」 明治維新後、備中松山藩も高梁藩と名を変えて再興に成功、すべてが終わり落ち着いたとき、 […]

空想大河ドラマ 雲中の飛龍

第1話「誕生」 方谷は油紙に包まれた一通の遺書を見つけた、その遺書は方谷の曾祖父山田宗左衛門が記した物だった。 宗左衛門は藩内である事件を起こし、山田家は故郷中井から追放となってしまうそれから数十年、方谷の父の代になった […]