Contents

第1話「誕生」

方谷は油紙に包まれた一通の遺書を見つけた、その遺書は方谷の曾祖父山田宗左衛門が記した物だった。

宗左衛門は藩内である事件を起こし、山田家は故郷中井から追放となってしまうそれから数十年、方谷の父の代になった。

父の名は五郎吉、母は梶といった。二人はとにかく働いた、「なんとしても山田家を復興しなければならない」
そして、その思いは山田家の長男として生まれた方谷にむけられていく。この当時、下級階層の人間が武士となり
お家を再興するためには剣と学問しかなかった。

五郎吉は幼い方谷にも容赦なく厳しい教育をおこなう、そして母、梶は優しく方谷を見守るのだった。
【備考】

1805年(文化2年)

第2話「丸川松隠」

4才にして字を書くまでに成長した方谷にさらに学問を積ますために両親は幼い方谷を一人新見の儒学者-丸川松隠の元にやる。方谷はそこで神童ぶりを発揮しついには新見藩主にお目通りとなる。

そんな折、丸川塾で学習をしていた方谷に悲報が飛び込む、妹美知が病死したという。
方谷9歳のとき、丸川塾に松陰をたずねてきた客が、神童の噂の高い方谷が、木陰の下で熱心に本を読んでいるのを見つけてからかうつもりで聞いた。

「アリン君、君は何故学問をする?」「治国平天下」方谷少年はにこりとほほえんで答えた。

盆と正月、半年に一度方谷は実家に帰った。門にもたれて、我が子の帰りを待ちわびる母がいた。
わずか数日実家で過ごし、丸川塾に帰る方谷に母はとても短い手紙を渡した。
「学問にはげみなさい、体には十分きをつけて」

【備考】

1808年

第3話「母の死」

人生の不幸は不意にまいこむ。
14才の方谷の元に届いた知らせは「母危篤」という物だった。いても立ってもいられない方谷はすぐに親元に向かう、しかし、やっとあえた母の口から出た言葉は

「私のことは心配しなくていい、おまえには学問の道がある。ぐずぐずしないで、すぐに丸川先生の元に返りなさい。」

その10日後、再び方谷の元に届いた母危篤の知らせ、息も絶え絶えにようやくたどり着いた方谷を待っていたのは行灯に照らされたものいわぬ変わり果てた母の亡骸だった。

母の死後、方谷に家業を継がそうとする父に対し師丸川松隠は何とか方谷にこのまま学問をと懇願、そして不運不幸は度々起こる。働きづめの父が母をおうように死んだ。

【備考】

1818年

第4話「結婚」

両親の死により17才にして一家の大黒柱となってしまった方谷は、丸川松隠の元を去り家業の製油業で身を立てることにした。しかしどうしても学問の道を捨てきれない。そんな方谷を陰で支えてくれたのが新見藩藩士の娘「進」だった。

「私が安五郎さんをたすけてあげる。」

方谷17歳、進16歳のとき、二人は結婚した。
そして方谷は昼は鬼のようには働き、夜は更けるまで学問に取り組んだ。
若い二人の生活は貧しいながらも幸せなものだった。

第5話「二人扶持」

昼は仕事、夜は学問と日々忙しい方谷に朗報が飛び込む。

村長を通じて藩庁に呼び出された方谷は、図らずも一通の沙汰書が与えられる。

「農商の身ながら文学の心が目が良いと効いた、二人扶持とし、藩校有終館に入学すること。」

信じられない出来事だった。松山藩主板倉勝職が方谷の噂を聞きつけ、給料を与え藩校への入学を許可した。
これは松山藩への登用が約束されたものだった。方谷21歳の時である。
そんなころ、進が身ごもる。

【備考】

1825年

第6話「京都遊学」

すでに学力の高い方谷にとって藩校有終館での学問はとても物足りない物だった。

23歳になった方谷は、妻と生生まれたばかりの子を残し、家業を弟に托して京都に遊学にでた。
「京都に遊学してみては」という師匠丸川松陰からの提案だった。

この当時、長期の度は命がけである、家業も子供も妻も残し京都遊学をすることを方谷は悩みに悩む。
旅立ちの日、丸川松陰は方谷に宿題を出した。

「儒学には根源がある。それを探り求めて帰ってくる日を待っている。」

【備考】

1827年

第7話「藩校有終館会頭」

京都から帰った方谷に思いがけない朗報が届いた。

藩主板倉勝職は方谷に名字帯刀を許す沙汰書を与えた。さらに、藩校有終館の教頭に抜擢された。
山田家の懇願であった再興が果たされたのである。

文久3年正月、26歳になった方谷は武士としての真円を颯爽と向かえる、家族、そして師匠の丸川松陰は方谷を心から祝福してくれた。

【備考】

1829年

第8話「おかげまいり」

家にいるのが何となくつらい方谷に恩師丸川松隠から「御伊勢参りに行こう」という誘いが、方谷はほいほいと師について伊勢へ、道中、当時皆がやっていたように恩師と弟子はいろいろな仮装をして伊勢を目指す。

第9話「謹慎」

方谷は3度目の京都通学を予定し、忙しい日々を送っていた。12月には有終館会頭を辞職し、母の13回忌をすませ、年を越し、雪解けを待って春に京都に出かける予定だった。

そんなおり、山田邸が出火、廻りも巻きもむ大災害が起こった。

火は風にあおられ藩校有終館をも巻き込み瞬く間に燃え広がった、呆然自失である。家具も書籍もすべてが灰になった。藩校までも焼く火事の責任を取って、方谷は藩外の「松連寺」の一室で蟄居謹慎を命ぜられた。
この年、方谷は有頂天になっていた、そしてものの見事に足下をさらわれた。

「宜しく亢竜の戒を思うべし」

師匠からの手紙は方谷の胸に突き刺さった。

【備考】

1831年

第10話「陽明学」

蟄居謹慎がとけ、方谷は再び京都に遊学に出かけることとなった。遊学先の師は寺島白鹿である。
方谷はひとり柱にもたれて瞑想する癖があった。

「儒学の根源とは・・・」

国学である朱子学に疑問を抱く日々を過ごしていた。
そして方谷は「伝習録」という一冊の本と出会う。

方谷は密かに洛谷に閑居しむさぼり読んだ。「心即理」「知行合一」「致良知」という思想との出会いはそれまで忘れかけていた9歳の時の思想「治国平天下」を思い出させた。
これだ!
それまで頭のどこかにかかっていた薄霧がはれた気がした。

第11話「佐藤一齋」

天保5年、方谷は家業を弟に預け江戸の佐藤一齋の塾へ入門する事にした。

佐藤一斎塾入塾後、しばらく立って佐久間象山という人物が入塾する。佐藤塾で塾頭となった方谷に対しても象山は毎晩のごとく論戦を挑んでくる。塾生は毎晩うるさくて眠れないと佐藤に訴えるが等の佐藤は二人の論戦を楽しんでいた。

妻の進は方谷留守中、女手一つで娘の瑳奇を育てていた。瑳奇を方谷自身と思い懸命に育てた。
進にとっては瑳奇は生き甲斐だった 、瑳奇が幼くして病気で先立った。10歳の可愛い盛りであった。
方谷は遊学中の江戸で娘の悲報を知った。厠に飛び込み大声で泣いた。周囲には誰とは解らぬ嗚咽が響いていた。

【備考】

1834年

第12話「理財論」

この年、方谷は佐藤塾の塾長を務めていた。
佐藤塾で自分の信ずる学問「陽明学」を深く研究し、一つの結論にいきたった。方谷はそれを「理財論」という論文にまとめる。

忙しい日々を過ごしていた方谷だが、ある日突然高熱で倒れてしまう、天然痘だった。
「布団が重い、このままでは、藩主の恩にも報いることが出来ない・・・死にたくない、死にたくない」
高熱が続き、方谷は生死をさまよう。

【備考】

1835年

第13話「牛麓舎開校」

江戸から帰藩した方谷に待っていたのは「藩校有終館の学頭を命ずる」という藩主からの辞令だった。

方谷は百姓だった自分をここまで引き上げてくれた藩主板倉勝職に改めて忠誠を誓う。その翌年、「大塩平八郎の乱」が起こる。同じ陽明学を志す方谷の耳にもこのニュースは飛び込んでくる。世が混乱してきたことを肌で感じる方谷、そんな中方谷は藩の許しを経て「私塾牛麓舎」を開校する。

この牛麓社に入学してきた弟子(三島中洲、大石隼男、進昌一郎、林富太郎、矢吹久次郎など)たちが、後の藩政改革、そして幕末の備中松山藩の危機に大いに活躍することとなる。

【備考】

1838年
【事件・出来事】
• 1837年大塩平八郎の乱
• 1838年モリソン号事件
• 1839年蛮社の獄
• 天保の改革

第14話「勝静参上」

牛麓舎開校が開校し、様々な入門者が方谷の元に集ってくる。方谷はいよいよ自分の念願だった私塾での授業を始められると意気込む。そんな折、世継ぎのいない藩主勝職の元に養子がやって来ることとなった、方谷は勝職から直々に養子勝静の教育係を任命される。

板倉勝静22歳、松平定信の孫にあたる。その凜々しさは藩民が皆目を引くものだった。
方谷の教育を受ける勝静はメキメキと頭角を現してゆく。
ある方谷は勝静にたずねた、「君主はいかにあるべきか」、そして勝静が書き終えた論文を見ていった。

「若君は確かに立派な君主論を書かれた。しかし、後日君主になった若君の言動が一致するか、その証拠にこの論文をもらい受けたい。」

勝静は笑ってうなずいた。

【備考】

1842年

第15話「勝職の死」

方谷が教育係をしていた勝静公が江戸にて藩主に就任、勝職は隠居した。また京都で医者の勉強をしていた方谷の弟平人が帰藩し城下で開業した。

ようやく近い身内をえた方谷はかねてから折り合いの悪かった妻進と悩んだ末に離婚することにした。それからの方谷はまさに仕事の鬼となる。隠居間もない自分ではあるが、少しでも藩主への恩義を返そうと松山藩の軍備の近代化や戦術の研究などに邁進する。

そんなとき、病で床に伏せていた前藩主勝職の様態が急変、方谷は平人を怒鳴りつけ発破をかけるが死の病はすでに勝職を覆っていた。平人らの努力もむなしく勝職はこの世を去り、方谷は深い悲しみに満ち50日の喪に服す。

【備考】

1849年

第16話「元締役」

江戸の勝静より方谷に呼び出しがあった。すでに隠居を迎える年となっていた方谷は、この機会に隠居の許しを請おうと江戸にいる藩主勝静の元に向かう。江戸藩邸で深々と頭を下げ隠居を願い出た方谷だったが、勝静から発せられた言葉は方谷にとってあまりにも意外な物だった。

「安五郎、そちに元締役及び吟味役への就任を命ずる」

この青天の霹靂ともいえる沙汰を受けた方谷はひたすら辞退する、しかし勝静も一歩も引かない。実はこのとき方谷にはもう一つ気がかりなことがあった。方谷が江戸に赴く前から弟平人の体調が思わしくない、診断結果は肺病だった。方谷は混乱しながらも江戸でよく聞くと言われている薬を買い弟にことづける。その後、方谷は元締め役を引き受けるという決断をし、急いで松山に帰る。しかし方谷が松山に着いたとき、16才の弟はすでにこの世を去ったあとだった。

【備考】

1849年

第17話「松山藩の実態」

方谷の元締め役兼吟味役就任の報は瞬く間に藩内の知れるとこととなった。この異例の抜擢は、当然のごとく多くの既存藩士の怒りをかった。方谷が江戸から帰藩した後も噂は噂を呼び、藩内には方谷を揶揄する狂歌が飛び交い、やがては方谷暗殺の噂までもが飛び交うようになる。

その間、方谷は弟の死の悲しみに浸るまもなく藩の実質の財政調査を行っていた。調査は連日昼夜まで及び、様々な数字が浮かび上がってきた。それまで公称5万石といわれた松山藩の石高が実質は1万9千石ほどしかないという。

調査はさらに続く、方谷は当時の大福帳では資産と負債の項目がはっきりしないことを悟り、製油商の経験から「藩財家計引合収支大計」という独自の藩財政の収支の試算表を作った。そしてその結果、恐ろしい事実が浮かび上がった。

藩の現在の借金は10万両を超える、松山藩はその事実をひた隠しに隠し借金のための借金を重ねた。実質の藩財政は破綻していたのだった。

「できるか—」驚くべき結果をはじき出した瞬間、方谷の背中は凍り付いた。
「しかし、やるしかあるまい–」方谷は帳簿を閉じると、しばらく目をつむり、そして立ち上がった。

【備考】

1850年
【勝静動向】
• 1851年 板倉勝静、奏者番に任命

第18話「藩政改革の大号令」

1850年3月藩主勝静は江戸から帰るや、家老達に召集令をかけた。御根小屋の大広間に集められた松山藩家老らのまえで方谷は自らがまとめた「申上候覚え」を読み上げた。
この「申上候覚え」とは現在の松山藩の具体的な状態が一切包み隠さずつづられていた。

「—以上」

方谷が「申上候覚え」を読み終えたとたん家老達はあらためて聞かされた「10万両–」の言葉に息をのんだ。

家老達が口々に言葉にならない言葉を発しているとき。藩主勝静はすくりと立つとこういった。
「今後は余がまず率先して倹約に取り組むこととする。おまえ達家老も全員本日より倹約にはいること、そして、今後方谷に関するいかなる悪口も一切許さない、方谷の言葉は余の言葉と思うように、また今後の改革に反対する物は厳罰に処す。」

藩政改革の大号令である。方谷はすぐに倹約令を発布し、改革が始まったことを藩民に伝えた。そしてまず一番はじめに方谷が行ったのは”自らの俸禄を大幅に削減する”ことだった。そしてその後倹約の対象を”中級以上の武士と豪農-豪商が中心”とした。

【備考】

1850年
• 吉田松陰、佐久間象山塾に入塾

第19話「方谷、大坂へ」

ある夜、方谷は自分の作った表簿とにらめっこしながらなにやらぶつぶつといっている。
よく朝、方谷は藩の筆頭家老ら数名を自らの部屋に呼ぶと神妙な面持ちで語り始めた。

「現在松山藩には一〇万両の借金がございます。しかし石高は二万両ほど、この中から藩士らへの俸禄と江戸-大坂の屋敷の管理費、必要経費などを引くと一両も残りませぬ、この中から利子や元本を返済するのは現時点では無理でございます。」
家老らはざわつき出す。
「しかし、道はございます。」方谷は続ける。
「私自身が大坂に出向き、現在の松山藩の現状を包み隠すことなく説明して参ります。そしてその上で借金の棚上げをお願いするのです。」

「馬鹿な!そんな恥さらしなことができるか!」家老の一人が大声を上げた、その怒鳴り声に方谷は静かに淡々と答えた。
「借りた物は返す、此は当たり前のことでございます。武士として最も恥ずべきことは実のない偽りで塗り固めたことを言い続け、結果返済不能となることでございます。今までのような小信を守り少しばかりの利子をだましだまし払っていることこそ恥、銀主に借金の一時棚上げをお願いするのは大いなる信義を守るためでございます。

数日後方谷は大阪に向かう。大坂の屋敷に集められた銀主達は、これから何かが起こりそうなただならぬ予感を感じていた。

第20話「大阪蔵屋敷を廃止」

銀主達の説得に成功した方谷は早速銀主達との約束である大坂蔵屋敷の廃止の行動に入った。この蔵屋敷、今までは大坂の役人と商人達に任せっきりにしていたためこれ以上ないほどの利権と賄賂の温床となって売る場所だった。蔵屋敷担当は徹底的に方谷にくってかかる。

「この蔵屋敷は松山藩のカナメ、ここが無くなってしまっては松山藩も滅ぶ!」

それに対し方谷の回答は明快な物だった。

「米は藩内で保管し相場の高いときに売る」

どうしても納得いかない蔵屋敷担当であるが「方谷の言葉は勝静の言葉と思え」の台詞は藩士すべてに浸透していた。
「判った、山田先生、あなたに任せる。松山藩のため、板倉様のため、よろしく頼む」

この蔵屋敷の廃止は結果約千両の節約につながる。
数日後、すでに方谷は松山藩内にいた、方谷は藩内の地域40カ所の有力庄屋に「郷倉」の設置を命じた。この蔵に米を収納し、相場を見ながら売買する、そして飢饉が起きた場合植えた民百姓に緊急の米を配給する役目を果たした。

第21話「藩札回収」

方谷には懸案があった。それはこの方谷改革の最大の難所でもあり、どうしても避けては通れない「藩札改革」である。
松山藩の藩札はそれまでの通貨失政と度重なる偽札の出現で全く価値を失っていた。
「藩札を立て直せなければ改革成功はあり得ない」
その夜、方谷は新見上市天領の庄屋であり門下生である矢吹久次郎の宅を隠密に訪ねた。
「矢吹君、実は折り入って頼みがある、君にとっても悪くない話だ—」

数日後、藩士、民百姓すべてが腰を抜かすほど驚いた発表が方谷から出された。
「これから2年間の期間に限り、藩発行の5匁札すべてを正価と引き替える」
今まで紙切れ同然で捨てても惜しげもなかった藩札を正価と交換するというのだ!当然藩民達はあわてふためいた。

第22話「撫育方設置」

松山藩は「撫育方」という役所を新設する手続きを進めていた。撫育方とは藩内の鉄鋼や農業、特産品の製造や販売を藩の専売制とし、生産の管理から物流販売までを手がけるという役所だった。

方谷はそれまで藩内で物流や販売を手がけていた商人を役人に抜擢すると、能力ごとにそれぞれの役に割り振っていった。

さらには松山川の対岸の近似村に大規模なたたらば(鉄工所)を建設し備中各地から有能なたたら職人をスカウトした。

第23話「里正隊」

松山藩の有力庄屋の息子達が御根小屋に集められた。

「これから君たちに剣術と砲術を指南します。」
方谷は関ヶ原の合戦以来ほとんど進化していない古来の剣術では近代武装を進めている他藩には勝てないと感じていた。しかし、経済改革では何とか言うことを聞く武士達も、戦いに関しては元々百姓の方谷の言うことを聞こうとしない。
そこで方谷が始めたのが、「西洋戦術で武装した百姓達で国を守る」というアイデアだった。

ある日方谷は弟子の三島を引きつれ藩である津山藩から西洋砲術を習うため津山藩士植原六郎左右衛門を招き、玉島の海上で艦上砲撃の軍事演習を行った。あまり自分の考えをあからさまにしない方谷の口から驚くべきセリフが発せられたのは、津山藩士植原以下4名を慰労する酒の席でのことだった。

「幕府を衣にたとえると、家康が材料を調え秀忠が裁縫をし、家光が初服した。以後、代々襲用したので、吉宗がひとたび洗濯し、松平忠信が再び洗濯した。しかし、以後は汚染と綻びがはなはだしく、新調しなければ用に耐えない。」と方谷

「三度洗濯してはどうか」と津山藩士

「布質はすでに破れ、もはや針線に耐えない」と方谷

あまりにも確信的な幕府崩壊の予言である。このときはまだ幕末の志士たちも台頭しておらず、わずかに尊皇思想が芽生え始めた頃、倒幕の声が聞こえてくるのはこの十数年後のことである、ましてや松山藩藩主は松平定信の孫の勝静である、突然飛び出した方谷のこのせりふには誰もが驚愕し息をのんだ。

第24話「永銭発行」

近似の河原に藩民達の人だかりができている。なんと、これからいままで集めた5匁札すべてを焼却するというのだ。

このイベント開催にあたり、方谷は大々的な宣伝を実施、当日は何万人という人手となった。

「はじめ!」の号令とともにうずたかく積まれた札束の山に次々と火が放たれてゆく。
人々はこの一種異様な後継に時がたつのを忘れ見とれた。
そして数ヶ月後、方谷は満を持して新通貨「永銭」を発行した。

第25話「教諭所設置」

方谷改革は順調に進み、人々の暮らしは目に見えて楽になってきた。田畑は実り、道は整備された。
「やっと、ここまできかた–次は–教育だな」
方谷にとっての改革とは文武両道、武も文も両方が足りていなければ改革成功とはいえない。
方谷は藩内の各地に「学問所」や「教諭所」を設置、武士であっても百姓であっても学問を学びたい物は身分を超えて勉強ができる環境を作った。

第26話「ペリー来航」

「浦賀に黒船が来航」の知らせは方谷の耳にもすぐに飛び込んできた。
「ついに来たか」方谷はすぐさま三島中洲を密使に横浜に送った。

この年、干害のため藩は大飢饉となった。近隣の藩では餓死者が続出、松山藩も大不作の緊急事態となった、方谷は迷わず郷倉の米の緊急配布を指示、餓死者がでるのを防いだ。

ある日、長州藩・吉田寅次郎(吉田松陰)が方谷をたずねてきた。旧友佐久間象山の弟子である。
吉田は自分が見た黒船のについて方谷の意見を求めにやってきたのだった・・・

【備考】

1853年
【事件・出来事】
• 黒船来航
• 坂本龍馬、佐久間象山塾に入塾

第27話「小雪誕生」

方谷はついに藩の参政(総理大臣)に就任、百姓上がりの学者だった方谷はついに藩の最高位まで上り詰めた。しかし、方谷にとって「参政」の地位はあまり心地のいい物ではなかった。

それよりも何よりも方谷が喜んだのが娘-小雪の誕生だった。

50才にしてできた娘はかわいくてかわいくてしょうがない、明けてもくれても小雪のことが頭を離れない方谷、しかし、家庭の方は全くうまく行かず、結局この年、小雪の母(荒木主計の姉)と離婚してしまう。

【備考】

1854年
【事件・出来事】
• 日米和親条約
• 安政東海地震

第28話「再婚-みどり」

改革には成功する方谷だが、家庭の方はいつも失敗つづき、2度の離婚にすっかりしょげている方谷のって唯一の救いは愛娘小雪の存在だった。しかし、方谷の廻りには常に暗殺の蔭がつきまとう、娘を危険にさらす訳にはいかない、方谷は小雪を矢吹久次郎の元に預けることにした。
またしても孤独の独り身となってしまった方谷を優しく救ったのが庄屋出身の女みどりだった。

控え身で優しいみどりを妻に持ったことで方谷は初めて家庭で安らぐことができた。

【備考】

1856年

第29話「幕府寺社奉行」

幕府で奏者番の役目を務めていた勝静が幕府より寺社奉行を命じられた。通常寺社奉行になるためには幕府に多額の賄賂を支払わなくてはならないはずが、賄賂なしの就任である。

此にはさすがの方谷も驚きを隠せなかった。

松平家の血を引く勝静にとって幕府の政治に関わることは至上命題といってもよい。寺社奉行への大抜擢を喜ぶ勝静だったが、方谷はうかない顔を浮かべた。

【備考】

1857年
【事件・出来事】
• 松下村塾開講

【勝静動向】
• 板倉勝静、寺社奉行を兼任

第30話「安政の大獄」

勝静が寺社奉行に就任してまもなく、時の老中阿部正弘が39才の若さでなくなった。
阿部の後をとった掘田では開国か鎖国か、家茂か慶喜かに揺れる幕臣達を押さえることはできず、幕政は敏腕で知られる井伊直弼が仕切ることとなった。
幕府の復権を焦る井伊の政治は、尊皇攘夷の志士たちを次々と逮捕しては厳罰に処すという独裁者的な物で、

井伊の行った政治は、尊皇攘夷の志士たちを次々と逮捕しては厳罰に処す、幕臣であっても口出しは許さないという独裁者的な物で吉田松陰や橋本左内など多くの志士達がとらわれ処分された。
このとき勝静は幕政に参加できる寺社奉行という立場で井伊直弼にこう意見した。
「大老殿、今回のような弾圧ではかえって人心は幕府から離れてしまいます。
どうか、処分は大物数人にとどめ、他多数には寛容な措置を」

しかし、この意見と聞いた井伊は烈火のごとく怒りだし、その場で勝静をなじりとばし寺社奉行を罷免した。

おなじころ、備中松山では方谷が組織した農兵の軍隊「理正隊」の訓練を桔梗川原で視察している若者がいた。方谷の案内で理正隊の視察に来た長州藩の久坂元瑞である。1400名の兵士が整然と整列し、隊長の号令にしたがい次々と新型の西洋銃で目標を射止めてゆく。久坂はあまりの事にあっけにとられた。こんな山奥の小藩にこんなにも恐ろしい軍隊があるとは。
久坂はこのときの驚きを手紙にこう綴っている。
「我が長州藩軍は備中松山に遠く及ばず–」

【備考】

1858年
【事件・出来事】
• 日米修好通商条約

【勝静動向】
• 1859年 寺社奉行・奏者番の両職を御役御免

第31話「長瀬」

方谷は頭を抱えていた。「金が足りない–」
方谷はかねて進めていた兵士の屯田制を自らにも課すべく、城下から遙かに離れた川沿いの地「長瀬」に住居を構えることにした。
そして、いざ母屋を建てるさい、今後やってくるかもしてない塾生らのため、必要以上の大きな屋敷をたててしまった。

しかし、困ったことに住宅の普請費が足りなくなって建設が途中で滞ってしまった。
「参った—」
そんなことで頭を痛めている途中、今度は台風が方谷一家に襲いかかる。
大雨と大風は三日三晩荒れ狂い、ついには長瀬宅の食料もつきてしまった、良くできた妻のはずのみどりもついには「松山に帰りたい–」と漏らす始末。
八方ふさがりの方谷に救いの手をさしのべたのは—

【備考】

1859年

第32話「継之助来藩」

公私にわたり忙しい方谷の元にある若者が訪ねてきた。このころの方谷の名は藩政改革の成功者として日本中に知れ渡っていた。このため方谷の元には連日入門希望者が殺到していたが、超多忙の方谷は全国からやってきた彼らの入門願いを次々と断っていた。

塩谷桐蔭の紹介状を持つその若者は書生と言うには少々老けた顔立ちの青年でぎらぎらした目をしている。「いま、弟子はとっていない」と門前払いしようとする方谷に、若者はこういった。
「私は先生に学問を教えていただこうとは思っていません。先生の日々の生き様を見せていただくことで、生きたナマの改革を体感学習死体のです。」
おもしろい、方谷は内心そう思ったが、すぐには入門許可を出さなかった。
この男、どんな奴か見極めてやろう—

【備考】

1859年

第33話「二人の改革者」

江戸の勝静から方谷に江戸に来るよう招集の連絡が来た。
勝静が焦って方谷を江戸に呼んだのは、混迷を続ける幕府と自分自身の身の振り方を方谷に相談するためだった。幕府では家茂派と慶喜派の対立が激化し、さらには外国からの開国圧力も日々強まる。日本はまさに混沌の中にあった。

江戸に出発する間、方谷は継之助をあちこちに連れて行き藩の改革の進展状況を説明した。方谷は継之助の中に自分と同じなにかを見つけたのか、二人は短期間で非常に親密になっていった。
ある日方谷は自分が江戸に行っている留守中長瀬の家の留守番を継之助に頼んだ、継之助は二つ返事で此を了承、継之助が故郷に送った手紙で「山中で読書三昧する計画です。」と書いた。
しかし、この計画は方谷の妻みどりの大反対によりお流れとなってしまった。
そして数日後、継之助は当初の予定通り九州へ、方谷は江戸に向かった。

【備考】

1860年
【事件・出来事】
• 桜田門外の変


第34話「見返りの榎」

九州遊学を終えて備中松山に継之助が帰ってきた。どうやら方谷はまだ帰っていない。
継之助は方谷の帰りをひたすら待った。
そして方谷帰藩、しばらくして継之助は長瀬の自宅での学習が許可された。

それから約半年、継之助が長岡に帰るときが来た。
継之助は方谷の愛蔵の「王陽明全集」を譲ってもらいたいと交渉、4両にて譲り受けた。
方谷は全集の巻末に継之助に送る文章を書き、薬と一緒に継之助に渡した。
継之助は長瀬の自宅から川を渡り対岸の榎木の元まで行き振り返る、そこにはまだ継之助を見送る方谷の姿があった。
継之助はその場に土下座し、大声で叫んだ。
「先生、ありがとうございました。お体に気をつけて–」

第35話「桜田門外の変」

松山の方谷の元に衝撃的なニュースが伝わった。
老中井伊直弼が江戸城桜田門にて長州藩士に襲われ絶命したというのだ。

求心力を失った幕府は今までの強権政治から態度を一転、孝明天皇の妹和宮を14代将軍徳川家茂の奥方として迎え公武合体の政策を打ち出した。しかしこの政略結婚は尊皇攘夷倒幕を目指す一派は此に大反対の運動を起こす。幕府の混迷はますます深まっていった。

そんな折、またしても方谷の元にニュースが届いた。
藩侯勝静が井伊直弼に意見したことが評価され、再び奏番者兼寺社奉行に返り咲いたのだった。

この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島襄らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていた。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入、川田は快風丸の処女航海にあたり、教え子であり、軍艦教授所へ通っている新島に初航海航海の協力を求めた。

【備考】

1860年
【事件・出来事】
• 桜田門外の変
【勝静動向】
• 1861年 寺社奉行・奏者番を再役。

第36話「老中勝静」

復職した勝静はすぐさま方谷を江戸に呼びつけた。
「どうじゃ、安五郎、天下の江戸城は?」

「大きな船のような物でございます。」
方谷の一言で、それまで上機嫌だった勝静の目つきが変わった。それでも方谷は続ける。
「下には千尋の波浪が渦巻いております。」
激高でみるみる真っ赤になって行く勝静に対し、方谷は全く表情を変えない。
「もうよい。」
いかにも方谷が言いそうなセリフをあらためて聞いた勝静は怒鳴り散らしたい感情をぐっと抑えその場を立ち去った。

方谷が江戸愛宕山で血を吐いて倒れたのはその月の3月のことである。
超人的な精神力を持つ方谷であってもこれから起こりうる幕府の運命と藩侯勝静の事お思い胃潰瘍になってしまった。
4月になって少し回復した方谷は勝静の許しを得て松山に帰る、途中、湊川の楠木正成の碑を通った方谷は楠木公に語りかけた。

「私は、藩侯を、藩民を守りきれるだろうか–」

【備考】

1862年
【事件・出来事】
• 寺田屋事件
• 生麦事件
• 松山藩・アメリカ帆船快風丸を購入、航海士に新島襄を迎え玉島に(玉島紀行)

【勝静動向】
• 1861年 老中になる
• 3月15日、老中に異動。
• 3月26日、従四位下に昇叙。周防守如元。
• 4月11日、外国御用取扱を兼帯。
• 5月15日、外国御用取扱の兼帯を止め、勝手掛を兼帯。
• 6月1日、侍従を兼任
• 9月11日、将軍・徳川家茂上洛に伴い、御供。

第37話「幕府の政治顧問」

方谷の病がやっと関した頃、またしても胃を患わすことが起きた。
藩侯板倉勝静が京都所司代などの地位をすっ飛ばして突然幕府老中に大抜擢されたというのだ!
こんな時ではあるが、幕府老中になるということは松平定信の血を引く勝静にとっては夢にまで見た大出世である。勝静はすぐさま方谷を江戸に呼んだ。
その後、幕政に対して方谷は事あるごと勝静に意見していった、しかし、藩政ではすべて方谷の言うとおり行動していた勝静だったが、幕政に関してはその態度は変貌し方谷の助言は全く通らない。
その間も幕府の弱体化はどんどん進行してゆく。
幕府復権の最後の手段は「攘夷」意外にないとふんだ方谷は11月には勝静を通して徳川家茂に攘夷実行を直接進言、しかし幕府は動かない。
「もう先は短い」方谷は確信した、その後の方谷の採るべき行動はただ一つ、藩侯勝静をこの沈没しようとしている巨船から救出し藩侯と藩民の生命財産を守ることのみ。
「なにとぞ、なにとぞ老中職の辞職を–」
方谷は勝静に老中職を辞して松山に帰るよう勝静に何度も願い出た。
幕府と藩の狭間に揺れる勝静にとってこの問題をすぐに決めることはできない、ましてや自分は松平家の血を引く武士である、ここで幕府を捨てて逃げることは考えられない。
勝静にとっては「近いうちに辞職して帰る」と方谷に言うのがやっとだった。

【備考】

1862年
【事件・出来事】
• 浪士組(新選組)結成

第38話「京都へ」

文久3年3月、すでに重要用件の決定は幕府単独で決めることはできず、何でも朝廷にお伺いを立てなければならないまでに幕府は弱体化していた。
江戸に居たのではなにも始まらない。将軍家茂は老中勝静ら3千名をお供にきょうと二条城に入城した。

勝静は江戸から帰藩して2ヶ月もたっていない方谷を再び顧問として召命した。
幕府のとるべき策を方谷に訪ねる勝静に対し、方谷が言うべき方策はもはや一つしかなかった。
「いま、幕府がやるべき事は攘夷以外にはありません。それも幕府が先頭を切って今すぐにでも発起するのです。幕府が主導権を回復し、挙国一致の体制を作るには敵を外に起き内で固まる、そのリーダーシップを幕府がとる以外にはありません。」

しかし、実際に攘夷に踏み切ったのは数ある藩の中でも長州藩ただ一藩のみだった。

京都の治安は悪化の一歩をたどり、勝静の名により新選組が組織された。
備中松山藩藩士谷3兄弟も新選組入隊、しかし不穏な空気はどこまでも広がってゆく。

この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩の後ろ盾により奈良で決起を予定していた天誅組も後ろ盾を失い討伐を受けて壊滅した。松山藩士で、江戸で親戚藩の藩士新島襄と親睦を深めていた「原田亀太郎」は投獄され打ち首となる。

【備考】

1863年
【事件・出来事】
• 八一八の政変
• 天誅組の変(備中松山藩 原田亀太郎が参加)

【勝静動向】
文久3年(1863年)
• 2月13日、将軍・徳川家茂上洛に伴い供奉。
• 6月16日、江戸に帰府。
• 11月5日、将軍・徳川家茂上洛に伴い、江戸留守。

第39話「失望」

ふがいない!方谷は怒っていた。京都での幕府の度重なる失態を受け、方谷の怒りは頂点に達していた。
「もはや幕府には何の期待も持てません」
方谷は勝静に激しく老中辞職を願った。あまりの方谷の執念に勝静はついに辞職を決意、しかし将軍家茂に辞職を留意されるとすぐさま辞職を撤回してしまった。

完全にへそを曲げた方谷は怒って長瀬の自宅に帰ってしまう。もちろん切腹覚悟の上である。こうなったらテコでも動かない、一切の執務を放棄し御根小屋登庁すら拒んだ。

第40話「長州征伐出兵」

長瀬の自宅で籠城を続ける方谷に思いがけない朗報が飛び込んできた。藩侯板倉勝静が14代将軍家茂の怒りを買い罷免され松山に帰ってくるというのだ。
ふっと光がもっと多様な気がした。

勝静は長州征伐の先方部隊の長という命を受け帰ってきた。勝静が老中を罷免になる少し前、京の町では池田屋事件が発生、新選組により長州藩士が血祭りに上げられた。それを恨んだ長州側は京都を灰にした蛤御門の変(禁門の変)を起こした。
しかしこの長州のクーデターは失敗に終わり長州藩は朝廷に矢を放った賊軍として幕府が主導の長州征伐が行われることとなった。

松山藩ほか各藩の大軍が長州に迫る中、長州は戦わずしてあっさりと恭順の姿勢を示す。このとき長州藩は馬関戦争により徹底的にたたきのめされ戦争をする力は残っていなかった。
幕府軍は大勝利を収め幕府の権威が少しではあるが回復、そして最も方谷を驚かせたのは、この手柄により、あろう事か勝静が再び老中に返り咲いてしまったのだった。

【備考】

1864年
【事件・出来事】
• 水戸天狗党の乱
• 池田屋事件
• 禁門の変
• 第一次長州征伐
• 新島襄 快風丸に乗り横浜から函館に・その後アメリカに旅立つ

【勝静動向】
元治元年(1864年)
• 6月18日、老中を免ず。江戸城雁間詰。
• 8月13日、長州征伐山陽道先鋒となる。
• 月日不詳、阿波守に遷任。侍従如元。

第41話「再び幕府老中」

「徳川氏とともに倒れん」勝静の腹は決まった。しかしこのことは再び方谷を失意のどん底に落とした。
幕府はやっと見えた復権の兆しをもっと確固たる物にしようと、再びターゲットを長州藩に絞った。しかし時すでに遅し。坂本龍馬の仲介により長州藩はそれまで幕府側にいた薩摩藩と薩長同盟という秘密同盟を結束、倒幕姿勢を明確にしていた。
そうとは知らない幕府軍は長州に軍を派遣、しかし動くはずの薩摩藩は動かず幕府軍は大敗を期す。そんななか、あろう事か将軍家茂が病死してしまう。

勝静は三度方谷を京に呼んだ、このとき方谷は何かをあきらめたのかの様になにも言わずに従った。しかし、このときすでに方谷には幕府復興の情熱は消え失せていた。
質問に機械的に答える方谷を見た勝静は愛用の脇差しを方谷に与えると松山に帰るよう申し渡した。

しばらくして将軍に就任したのは家茂と将軍職を争った慶喜だった。
慶喜は幕府の復権のために様々な手を尽くすが時代もすでに幕府を見限っていた。
慶喜はついに奥の手ともいえる政策を打ち出す。

【備考】

1865年
【事件・出来事】
• 第二次長州征伐

【勝静動向】
慶応元年(1865年)
• 1月7日、長州征伐凱旋。
• 10月22日、老中に再任。勝手掛を兼帯。伊賀守に遷任。
慶応2年(1866年)
• 1月6日、軍事取扱を兼帯。
• 6月19日、老中首座となる。(水野忠精、老中御役御免に伴う)
• 12月28日、勝手掛の兼帯御役御免。

第42話「大政奉還」

慶喜の使った奥の手とは、政権を朝廷に返上するという物だった。政権を返上してしまうと徳川家も一藩にすぎなくなってしまう、しかし慶喜は朝廷には行政の執行能力はなく、徳川に泣きついてくるだろうと読んだ。

大政奉還の決定が慶喜から勝静に密かに伝えられた。勝静はすぐ様にそれを方谷に連絡、大政奉還の原文の制作を命じる。

【備考】

1867年
【勝静動向】
慶応3年(1867年)
• 9月23日、老中次座となる。(松平定昭の老中首座に伴う)
• 10月19日、老中首座に再度なる。(松平定昭の老中首座辞職に伴う)
• 12月30日、老中次座に再度なる。(酒井忠惇の老中首座に伴う)

第43話「小雪の結婚」

徳川慶喜の大政奉還を受けた岩倉具視は「王政復古の大号令」を発した。
政権をもてあまし徳川に泣きついてくるだろうという慶喜の思惑は見事にはずれ、これにより徳川幕府は名実ともに滅んだ。

一方方谷の廻りでも動きはあわただしくなった。
「討幕派が実権を握った以上、この備中松山もただではすむまい。」
方谷は一年先に予定していた娘小雪と新見上市の南井村矢吹家の息子発三郎との結婚を即刻あげることにした。
一年先には、儂はこの世にはおらんだろう—すまんな、小雪

年も押し迫った師走、突然の結婚式、誰もがこれから起こる何かを忘れようとするかの如く、明るく飲み更けた。

【備考】

1867年
• 坂本龍馬、船中八策を策定
• 薩長同盟成立
• 近江屋事件(坂本龍馬暗殺)
• 大政奉還
• 王政復古の大号令•

第44話「鳥羽伏見の戦い」

王政復古の大号令により政権の座に着いた薩長はさらに徳川の勢力を奪おうと戦を仕掛ける機会をうかがっていた。徳川慶喜は全幕臣に対しくれぐれも薩長の挑発に乗らぬよう通達を出していた。対して薩長は嫌がらせともいえる様々な手で幕府を挑発してくる。
そんな中京にいる慶喜の目の届かない江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が起こった。それまで不満を抑え込まれていた幕臣達もこれを契機に一気に堪忍袋の緒が切れ、薩長を相手に武力行使に出た。

「しまった」
慶喜の本音だった。これで薩長に攻め入る口実を与えてしまった。こうなった以上戦は避けられぬ。
それからの慶喜の行動は行動をともにしていた勝静にとっては耐え難い物となった。慶喜は勝静や松平容保ら数名の家臣をつれ、夜陰に乗じて秘密裏に大阪城を脱出、江戸の遁走してしまった。

数万の幕府軍がその事実を知ったのは、翌朝日も高く昇ってからだった。
司令塔を失った幕府軍は数で劣る薩長軍に大敗を期すという大惨事となった。

大阪城を脱出の際、勝静は自分の警護にあたっていた松山藩士150名に松山に帰るように命じた。このことが、後にもう一つの悲劇につながってゆく。

【備考】

1868年
【事件・出来事】
• 戊辰戦争
• 鳥羽伏見の戦い
• 新選組近藤勇投降

【勝静動向】
慶応4年(1868年)
• 1月10日、解官
• 1月23日、内国御用取扱を兼帯。
• 1月29日、老中御役御免。隠居。
• 2月19日、逼塞処分を受ける。
• 3月、下野国日光山に屏居。その後、奥州経由にて蝦夷箱館へ向かう。

第45話「備中松山城無血開城」

慶喜遁走のニュースは松山藩内にも電撃的な早さで伝わった。
「いよいよ、来るか」

藩主勝静が徳川と運命を共にし、備中松山藩は賊軍となった。鳥羽伏見の幕府軍大敗を受け、態度を明確にしていなかった諸藩はつぎつぎと新政府軍の旗を揚げ、松山藩は瞬く間に新政府軍に包囲された。

「戦か、恭順か、」藩士達の意見はまっぷたつに割れた。」

「我々は決してミカドに矢などはなっておらん、恭順するとは我々が自ら賊軍と認めるような物だ!」

「いや、藩侯が徳川様と江戸に逃げられた以上、もう言い逃れはできん、ここで戦をしては城下を火の海にするだけで何の意味もござらん」

方谷は座の中興に座ると、じっと黙って重臣達の意見を聞いていた、議論は堂々巡りを繰り返し、一同は方谷に答えを求めた。

「これより我が藩は謹慎に入る、藩士以下何人であってもこれを遵守するよう申し伝えろ。」藩の態度は決まった。
方谷はすぐに松山藩討伐隊の筆頭を務める岡山藩に謹慎の意を伝える使者を派遣した、しかしそこに待っていた物は「大逆無道」の4文字だった。

岡山藩は松山藩に謹慎に関する書状の提出を要求、文面はすでに用意されており、この文面の中にこの4文字はあった。

方谷は怒り狂った。「我が藩は断じて大逆無道などではない。」
方谷は岡山藩にこの四文字の変更を要求、それが聞き入れられない場合は切腹して藩に陳謝すると伝えた-

方谷は2通の遺書を書く。
一つは矢吹久次郎宛、「小雪のこと、たのむ」、もう一つは妻みどりへ「心配しなくていい、私亡き後は兄様や久次郎がめんどうを見てくれる、あの世へ、みどり殿まいる。」

【備考】

1868年
【事件・出来事】
• 明治維新

第46話「熊田の死」

「大逆無道」の四文字を改めよ!という方谷の命をかけた抗議は家老大石の岡山藩への涙の訴えなどもあり受け入れられることとなった。問題部分は「軽挙暴動」と改められ、松山藩は誰一人命を落とすことなく事態を収拾しえたように見えた。
しかし、それだけでは終われなかった。
松山藩が無血開城をした二日後、勝静から帰藩を命じられ鳥羽伏見大坂より帰還した松山藩士150名が突然玉島の港に現れた。
松山藩はすでに恭順を宣言しているとはいえ、岡山藩としてもこれら鳥羽伏見の逃走兵150名を何のとがめもなしに解放する訳にはいかない。

事態を知った方谷は密使を隊長熊田の元に送った。

「一五〇名の命に代えて死ね」

149名の藩士の命と玉島の町を守るためにはこれしかない。

熊田恰は一緒に帰藩していた目付役川田甕江にある願い事をした。
「どうやら一死を持って君恩に報いるときが著た。拙者は武人、世事に疎い、死は畏れぬが、死期を誤る恐れがある、貴殿、儂の死ぬ時を告げてくださらんか。」

自刃は備中玉島、柚木邸にて行われた。

「お覚悟のときでございます。」川田は低く声をかけた。

「よし」熊田は一言応じた。

介錯は熊田の甥、大輔である。

熊田は慣例にならい上半身をあらわにすると、静寂の中、ぶすりと左腹下に脇差しを突き立て、力強く一文字に原をかっさばいた。

「介錯を。」熊田の合図に大輔が太刀を振り下ろした。

「おてぎわ」
松山藩士神戸一郎は絞り出すように声を放った。

第47話「蝦夷地へ」

大坂から命からがら脱出してきた慶喜一行はボロボロになりつつも品川の港にたどり着いた。「江戸にはまだ大量の兵力が残っている、ここより体制を立て直し、薩長を迎え撃つ。」勝静は息巻いていた、しかし慶喜は違った。

「余はミカドに抵抗などしておらん、これより謹慎に入る。」

慶喜はそう宣言すると上野の寛永寺に引きこもってしまった。
その後、江戸城は山岡鉄舟や勝海舟の力により無血開城する。

このときすっかり取り残されてしまったのが時の筆頭老中だった板倉勝静その人だった。徳川と命を共にすると公言してきたその徳川が無くなってしまった。
慶喜に江戸を離れて謹慎するよう命じられていた勝静はいったん新政府軍に投降し宇都宮に護送された。ところが宇都宮を大鳥圭介率いる旧幕府軍が襲い、新選組を率いる土方歳三が勝静を奪回、勝静はそのまま会津軍に護衛されて会津に入った。

勢いに乗る旧幕府軍は奥羽越列藩同盟を結成し東軍として結束、勝静は奥羽越列藩同盟の議長に就任した。
しかし勢いもここまでだった。奥羽越列藩は西軍の前に次々と敗北4ヶ月間の戦争で東軍は敗北した。

その頃、松山藩では血眼になって勝静を探していた。朝敵となってしまった松山藩の復権のためには、代表者である板倉勝静の存在がどうしても必要である。しかし勝静の足取りは宇都宮を最後に途絶えてしまい、全くの行方不明となってしまった。

「なんとしても玉椿を見つけねばならん」
岡山藩占領下で指揮を採ったのは方谷の高弟三島中洲だった。玉椿とは勝静を指す隠語である。占領下、秘密会議では必ず隠語が用いられた。
川田、林、大石、井上といった面々が変装し、名を変え江戸~東北と勝静を捜し回った。

そんな折り、方谷の元に人夫請負業の松屋吉兵衛という男が訪ねてきた。伝言を預かっているという。そして吉兵衛は語った。
「長岡の家老、河井継之助様より伝言を預かって参りました。河井様は『河井は今日まで先生の教訓をもとに生きてまいりました』-」
吉兵衛の言葉を聞いたとたん、方谷の動きが止まり、ぴくりとも動かなくなった。
あまりの思い空気に耐えかねた吉兵衛は「私はこの辺で–」といそいそと退席した。
空気を察した妻みどりはすべての使用人を母屋から退出させた。
目を閉じてずっと座している方谷、しかし、瞳の奥からはとめどなく溢れ出てくる。
方谷は何時間も何時間もすすり泣いた。

【備考】

1868年

第48話「松山から高梁へ」

勝静は北海道にいた。榎本艦隊と行動を共にし、蝦夷共和国の設立をゆめみて北海道に渡ったのは12月のことだった。
そして数ヶ月、方谷門人による血のにじむような捜索活動により方谷らはついに勝静の所在を突き止めた。方谷は年寄役西郷熊三郎に決死の蝦夷地潜入の指名を与えた。煙草の葉の行商人に扮した西郷は何とか蝦夷地の侵入に成功、勝静と念願の再会を果たした。
そして我が目を疑った。長年の逃亡生活のせいか、勝静は見る影もなくやせ細り、黒ずんだ顔の奥で目だけがギラギラとしている、しかしながら、蝦夷共和国の組織にあって勝静はすでに過去の人、何の役職もなくお荷物のような扱いを受けていた。
しかし、勝静の口から出た言葉は予想通りの物だった。
「私はこの地で戦い、そして死ぬ、先生にはそう伝えてくれ。」

西郷がいかに懇願しても勝静はいっこうに耳を貸そうとしない、そして困り果てている西郷に方谷への手紙を託した。

「そうか、動いてはいただけぬか。」

西郷の報告は瞬く間に備中松山の方谷のもとまで届いた。

ならば、策を講じるしかあるまい—方谷は再び動いた。
「こう伝えてくれ、武器商人ウェーフに亡命資金を渡す、それで外国に亡命してください。と」
そしてウェーフは蝦夷地に現れた、勝静は方谷の伝言通り亡命のためウェーフの船に乗り込んだ、行き先が江戸とも知らずに。

「だまされた」

勝静は激高するも後の祭りである、軟禁された勝静は秘密裏に江戸の松山藩邸まで連れてこられた。そこで待っていたのは松山城を無血開城に導いた立役者「泣きの大石」である。
大石はひたすらひたすら伏してそれまでの無礼をわびた。もちろん切腹も覚悟の上である。
「上様にはどうしても自首していいただかねばならんのです。国の為、藩士のため、民百姓のため、板倉家復興のためには上様の自首は避けられないのでございます。」

大粒の涙をこぼしながら、大の男が何度も頭を畳にすりつけている。
しばらくして勝静はスクリと立ち上がった。
「わかった、もうなにも言うな。」
そう一言残し、勝静は大石らの居る部屋を出た。
翌日、勝静は新政府軍に自首、まもなくして備中松山藩は五万石から二万石に削石され、高梁藩として復興を果たした。

【備考】

1869年
【事件・出来事】
• 五稜郭の戦い

【勝静動向】
明治2年(1869年)
• 5月25日、帰京し、翌日自訴。
• 8月15日、上野国安中藩に永預処分となる。

第49話「国破れて山川あり」

明治維新、文明開化の波が押し寄せようとしていた頃、新政府の役人として東京で勤務している川田が長瀬の方谷宅を訪ねてきた。川田は大久保利通の命を受け、方谷に明治政府の大蔵大臣への就任の監促にきたのだった。
しかし、方谷は頑として首を縦には振らなかった。

「川田君、これからは君たちの時代だ、私はもう老いた、君たちが力を出し、日本国民と為、良い国を付くってくれんか。」

方谷は師丸川松蔭と同様、二君には使えぬという姿勢を貫いた。

それから数ヶ月、方谷は高梁の地を去った。
隠居しても方谷のもとには岡山内外から次々と入門希望者が長瀬の地を訪れる。
そんな入門希望者のため方谷は長瀬宅をどんどんと増築していたが、これを見かねた久次郎が方谷の母の出所小坂部に五四二坪の校舎を造り方谷に提供した。

しばらくは方谷にとって人生至福の時が続いた、病弱だった愛娘小雪は19才になった。小雪の嫁いだ矢吹家は小坂部からは目と鼻の先、方谷は事あるごと小雪をのぞきに行った。

久次郎は半ば本気で「先生、いっそ上市に住まわれてはどうですか。」といった。

だが、そんな些細な幸せも長くは続かなかった。

最愛の娘、小雪が病に倒れた、肺結核だった。

動く気力を失い久次郎やみどりにひたすら手紙で祈るような気持ちを伝えていた方谷に、禁固のみとなっていた勝静が釈放されたという知らせが舞い込む。

しばらくして、比較的安定していた小雪の様態が急変した、二十歳になったばかりだった小雪は方谷を残し、帰らぬ人となった。

病床に座っていた方谷は、突然立ち上がり、刀をかざした。

「せっ、先生がご乱心なさった!」

その場にいあわせた物は、目を疑った。方谷は絶叫を放ちながら空に向かって斬りつけた。

目の前にもやもや居た物が居る、これは小雪を迎えに来た死に神に違いない—

方谷は死に神を切ろうとした。そしてしばらくの絶叫の後、バタリとその場に倒れ込んだ。

「このことは他言無用、もし漏らした物がいれば儂がそのものを切る。」
久次郎は静かに言った。

第50話「友よ」

小雪の死を受け生気を失っていた方谷のもとに旧岡山藩士で方谷の門人である谷川達海が訪ねてきた。谷川は陽明学の大樹として岡山で教鞭をふるってほしいと方谷に要望した。
しかし、寄りつく島もなく谷川の申し入れは断られた。

ガックリと肩を落とし、あきらめようとした矢先、方谷の口から意外な言葉が漏れた。
「閑谷学校–閑谷学校を再興するのでしたら、お話考えなくもありません。」
方谷は熊沢蕃山の信奉者である。熊沢の作った閑谷学校の再興は方谷にとっても夢の一つだった。
それからは働いた、小雪を無くした悲しみを振り払い、半年は岡山、半年は小坂部と老体にむち打って精力的に教壇にたった。

そんな方谷にとってこの上もなくうれしい出来事があった。
明治5年4月、新政府から釈放されたもと藩侯板倉勝静が方谷のもとを尋ねてきた。勝静は、どうしても方谷にあって一言詫びがしたかった。久次郎はこの日のために長瀬の家を整備した。

方谷は久しぶりにあう勝静を前にして、深々と頭を下げた。
「これまで、数々のご無礼、お詫びの仕様もございません。」

「気にするな、私の方こそ詫びねばならん」
方谷と勝静は三日三晩を共に過ごした。
四日目の朝、平民の服を着た勝静は長瀬を去った。 静岡で小さな茶園を営んでいるという。

10月、盟友矢吹久次郎が急死した。46才の早すぎる死だった。

備前と小坂部を往復していた方谷だったが明治9年の秋、小坂部で病に倒れた。
門下の塾生達は、方谷倒れた後も誰一人塾を去ろうとはしなかった。
明治10年6月26日、山田方谷は多くの弟子達に看取られ、73年の人生に幕を閉じた。

【備考】

1871年 廃藩置県
1872年 閑谷精舎 開学
1873年 地租改正

1877年 方谷没す