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安政七年(1860)

3月3日、水戸浪士たちが老中井伊直弼を桜田門前で暗殺した。
世に言う桜田門外の変である。この事件を契機に歴史は一気に動き始めた。

このとき備中松山藩主・板倉勝静は「安政の大獄」において寛容な処分を井伊大老に申し立てため、大老の逆鱗に触れ寺社奉行を罷免されていた。しかし桜田門外の変により大老に意見をした勝静の行動は大いに評価され、この期に再び寺社奉行に返り咲いた。さらに2年後の文久二年には、寺社奉行から異例の大抜擢を受けて、最高位の老中の位へと駆け上ったのだった。

しかし、勝静のこの「異例の大出世」は方谷にとっては全く願っていないの出来事であった。すでに幕府の瓦解を確信していた方谷にとって、親愛なる藩主・勝静をみすみす沈んで行く泥船の中に取り残すことはどうしても我慢の出来る問題ではなかったのだ。

文久二年(1862)

4月老中となった勝静は方谷を幕府の政治顧問として松山より江戸に呼び寄せた。このとき、方谷は事あるごとに勝静に老中辞職を進言した。11月、方谷は将軍家茂に接見し勝静を通して攘夷を進言する。方谷が将軍家茂に進言した内容は次のような物だった。

「将軍様、恐れながら申し上げます。欧米の列強はいずれ日本を清国と同様に植民地化しようとしてまいります。また、長州・薩摩の倒幕の動きも活発さを増しております。
しかしながら、このまま内戦に突入してしまうのはまさに欧米列強のおもいのつぼ、いま、日本で内戦を起こすことは結果として日本そのものの国力を奪うだけでございます。欧米の列強は日本人が自ら内戦により弱ったところを見計らって一気に進軍して参りましょう。
それに加え日本の民はいま、欧米との不平等条約によるインフレにより日々生活が苦しくなっております。幕府が再び指導力を取り戻すには幕府が錦の御旗の元に積極的に攘夷に打って出るのがもっとも得策でございます。」

「何度も言うな、もう分かった、近いうちに老中職を辞して松山に帰る。」
勝静は方谷とこんな約束をしたのは方谷上京2ヶ月後の事だった。どんなときであっても藩民のことを第一に考える方谷、かたや沈むと分かっている泥船であっても「徳川」にその身を捧げ運命を共にすると言い張る勝静、百姓出身の方谷にとって「松平定信の孫」という徳川の血を受けつぐ勝静に、生まれの違いを痛いほど痛感させられた方谷は顧問の辞職を願い出た。そして12月、方谷はやっとの事辞職を許され松山に帰ることとなった。

文久三年(1863)

この年は新選組にとって転機の年となった。
3月、勝静こと老中板倉伊賀守勝静は京都守護職松平肥後守容保と共に、後の新選組となる「京都残留浪士」に京の差配(差配:→持ち主の代わりに、貸し家や貸地を管理すること。)の命を下す。新選組の誕生である。

このときのメンバーは近藤ら京都残留浪士24名(芹沢鴨、新見錦、近藤勇、山南敬助、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、平山五郎、平間重助、野口健司、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎、殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、上城順之助、鈴木長蔵、清水五一、斎藤一、佐伯又三郎)
またこの年、元松山藩士 谷兄弟も新撰組に入隊する。後に近藤が谷昌武を養子に迎えたのも谷兄弟が幕府老中板倉勝静の出身藩である「備中松山」の浪士だったからに他ならないだろう。

時代は変わる、京都で急激に勢力を増していた長州は、その急進性の故か天皇からも嫌われ会津と薩摩の公武合体派による八一八政変において一気に朝敵に祭り上げられてしまう。
(この事件により元松山藩の原田亀太郎らの天誅組の悲劇が起こる)8月18日 蛤御門に出陣した近藤勇らは、新選組の隊名を拝命することとなった。この事件により尊皇急進派七卿と長州勢力が御所から閉め出される。京都の状況は一変し新選組による制圧が日常化してきた。

元治元年(1864)

6月5日、歴史に残る事件が起こる。新選組の近藤、土方、谷兄弟らが池田屋を襲った、世に知られる「池田屋事件」である。そして同じころ、勝静は老中職を罷免され備中松山に帰ってきた。方谷という羅針盤を失った勝静にとって幕末の幕府の老中という大役をつとめるには力量が足りなかったのか、将軍家茂の怒りをかってしまったのが原因となった。

追いつめられたのは長州藩である、八一八政変・池田屋事件で窮地に追いやられた長州藩はついに京都に討ち入る。長州は会津・薩摩と激突し京の町は八百町以上が火の海と化した。蛤御門の変とも禁門の変とも言われる。ここで勢いづいたのは幕府である、今や長州は朝敵となった、錦の御旗の元に目の上のたんこぶである長州を征伐することが出来る、幕府は色めき立った。

11月、勝静率いる備中松山軍は幕府の命を受け長州征伐の先鋒隊として出撃した。最新式の銃砲を備えた備中松山軍はまず広島に陣取り、翌朝には岩国、夕には徳山まで進軍し下関に迫った。すでに8月に馬関戦争で欧米連合艦隊にたたきのめされていた長州軍は戦わずして恭順の意志を示し、三人の家老が切腹することで事態の収拾を図った。

慶応元年(1865)

元治という年号は一年で改元され4月に14代将軍家茂は再び京に入った。その年の10月、方谷を驚愕させる事件が起こった。長州征伐の労と一橋慶喜への画策が評価され勝静は再び老中に返り咲いでしたったのだ、板倉勝静45才・日本史最後の主席老中伊賀守勝静の誕生である。

慶応二年(1866)

7月、総軍徳川家茂が死亡する、死亡に原因には病死説と毒殺説の二つが存在するが、どちらの説もいまだ決定的な証拠は出てきていない。真相はともかくこれを期に時代は一気に維新へと流れて行く。

300年続いてきた江戸幕府崩壊の大きな第一歩となったのが薩長同盟がこの年の1月、秘密裏に成立したことであろう、そうとは知らない幕府は第一次長州征伐で長州に快勝したことに自信をつけたのか長州にとどめを刺そうと6月に第2次長州征伐を決行する。しかし肝心の薩摩藩は出兵を拒否、結果的に幕府軍は長州相手に苦戦を強いられてしまう。

10月21日、このころになるとすでに様々な決定事項を江戸だけで判断することが不可能となり、幕府は老中板倉勝静を京都駐在にさせた。しかし更に事件はおこる。12月、親幕派であった孝明天皇が急死(毒殺?)この直前第十五代将軍となった徳川慶喜も最大の後ろ盾を失うこととなった。
元松山藩の新選組七番組長谷三十郎が何者かによって斬殺されたのも、この年の4月1日であった。

慶応三年 (1867)

3月20日、伊藤甲子太郎らが新選組を脱退、高台寺月真院で「禁裏御陵衛士」を結成した。

5月、慶喜はフランスの援助の元、軍政改革を推進するなど幕府の再建に奔走し、ある程度の成果を上げていた。ま24日にはた兵庫開港への勅許(勅許:勅命による許可。天皇の許可。)が下る。兵庫開港は、京都から近いだけに朝廷は難色を示していたのだが、慶喜は朝廷内で開催された会議を主導して、勅許獲得に成功。孝明天皇の死後も、京都政界における慶喜の地位は揺るがなかった。

6月10日、新選組全員が幕臣に取り立てられる。このとき新選組と勝静は非常に近い距離にいたと言っていい。
6月後半新選組の近藤らが、長州の処分を厳罰にという建白書を議奏の大納言柳原前光と幕府老中の板倉伊賀守勝静あてに提出している。

8月、京にて幕府の政治顧問をしていた方谷に帰国の許しが出た。
それまで方谷は何度となく勝静に老中職の辞職を願った、しかし勝静は一向に聞こうとはしない、幕府に殉ずるとする勝静の心はすでに動かす事は出来ない、方谷はすでに悟っていた。

「もはや、何も言うことはございません」と方谷
すでに二人の間に議論すべき事は枯れ果てていた。

一瞬の無言ののち
「労をねぎらう」
ぽつりと一言いうと勝静は自らの脇差し「備前介宗次」を方谷に与え方谷の前を去った。

8月8日、新選組を脱退した伊藤甲子太郎、斎藤一、藤堂、鈴木 4人の連名で議奏の大納言柳原前光と幕府老中の板倉伊賀守勝静あてに建白書が提出された。その内容もまた「長州への処分寛典を訴える」というものだった。

10月14日、徳川慶喜、大政を奉還。十五代将軍慶喜は、それまで幕府が保持していた政権を朝廷に返上することを天下に公表した。慶喜は大政奉還により公議政体論(幕末、諸侯・公卿・諸藩士の参加によって国政を議すべきことを主張した論。 )を実現させようとしていた。しかし薩長は同日朝廷より「倒幕の密勅」を入手、「討伐の対象はあくまで徳川慶喜である。幕府が体制を奉還したからと言って倒幕の密勅は失われていない」と徳川家打倒の姿勢を崩していない、松平肥後守容保は近藤勇に命じて板倉勝静と永井主水正の身辺警護の厳命を受け、勝静の警護に当たった。

11月、河原町通りの近江屋で、坂本竜馬・中岡慎太郎・藤吉の3人が暴漢に襲われ、坂本竜馬は即死、中岡慎太郎と藤吉は重傷を負うという事件が起こった。

12月9日、王政復古のクーデター勃発。薩摩藩を中核とする倒幕派は、天皇を軍事的な保護下に置くため、クーデターを決行。それまで御所の警備に当たっていた会津藩を追い出すことに成功。そのうえで、天皇政権が国政を担当する意志を表明した「王政復古の大号令」を発令。また、辞官納地、つまりは慶士暑の官位辞任と幕府直轄領の政権への返還を要求する。

12月25日、薩摩藩邸焼き打ち事件が勃発した。薩摩藩士・西郷隆盛は、交戦を避けようとする幕府との開戦のきっかけとするため、志士たちに江戸三田の薩摩藩邸を拠点にしてゲリラ活動を行なうように密命を下していた。徳川慶喜は、倒幕派との対立を政治的手法で解決することを目ざしていたのだが、対薩長強硬派の幕臣たちは、西郷による挑発行為に乗ぜられ、薩摩藩邸を焼き打ちにする。この事件により、薩摩藩と幕府の軍事的衝突は回避できない情勢となってしまう。

12月、同年に家督を継いだ長岡藩主・牧野忠訓は、河井継之助、三間、椰野他を率いて上洛。大坂城に登城し老中板倉勝静に会い徳川家への再度の政権差し戻しを建言していた。さらに河井継之助は京都の新政府軍に藩主に代り建言したといわれている。長岡藩はこの時、主家徳川家の恩顧に報い徳川家中心の政治を後押しするのが譜代の努めと頑なな思いだったとされる。しかし、再三の陳情に際しても全く沙汰がなく、仕方なく大坂に移動する。
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発、長岡藩兵は大坂にいたが、戦いは旧幕軍の敗戦となり、1月7日、長岡藩兵は伊勢から海路、同月23日江戸へ帰った。

慶応四年 明治元年(1868)

1月3日、鳥羽・伏見の戦い勃発。
王政復古のクーデター後、京都周辺では、旧幕府軍と薩長両藩兵とのにらみ合いがつづいた。慶喜は、天皇政権との交渉をつづけ、辞官納地の骨抜きに成功しつつあったのだが、薩摩藩邸焼き打ち事件の第一報が畿内にも伝えられると、軍事的な衝突は避けられなくなる。

そして大坂城、このとき慶喜は風邪を引いていた。
「殿、急報でございます。」板倉勝静がすさまじい形相で慶喜に駆け寄った。
「江戸の薩摩藩邸が焼き討ちされた様子でございます。討ち入ったのは幕府側藩士、もはやこれを口実に薩長が進軍してくるのは時間の問題でございます。」

慶喜はちょうど読んでいた中国の兵法書「孫子」をとじると勝静に
「敵を知り、己を知れば百戦あやうからず、という言葉は知っておるな」と尋ねた。

さらに

「勝静、この戦いに大儀はあるか。 もはや我ら幕府軍は朝敵となってしまった、ここでたとえ戦ったとして、それでどうする、こうなった上は徳川の復活はあり得ぬ、おまえもよく言っておるように、いま欧米列強が日本国内の動向をつぶさに監視している。そして国内争乱が起これば、ただちにこれに乗じて、日本を併合してしまおうと考えている、ここで日本人同士殺し合ってどうする、ほどよく両軍の戦力が減ったところで欧米列強が清国と同じよう植民地化されてしまうだろう。

余は決めた、江戸に帰る。」

「えっ」勝静は言葉を失った。
「いま、この状態で帰るのですか、それでは兵達は納得しません。」

「誰も全軍引くと入っておらん、儂とお前、容保、定敬らでこれから江戸に帰る。
すぐに船を用意せよ!
さて、これから大変だぞ、板倉。いいか、江戸に帰った後、会津・桑名の両藩にたとえ逆臣の嫌疑をかけられて殺されようとも、決して戦争をさせてはならん、余は江戸に戻り恭順謹慎の態度を貫く、おまえは松平容保、松平定敬と会津・桑名へ行って不戦を貫徹させよ」

「たとえ将軍様の命令であろうとも、そのような弱腰の命には我らはとうてい従うことは出来ませぬ。ここで戦わぬとあっては末代までの恥、武士の恥でございます。」

「うるさい、もう決めた事じゃ、よいか、全軍にこう伝えろ。
諸将一同はみな勇躍して持ち場でそなえろ。とな」

この上は上様について行しかない。勝静は肩を落とした。
時代の勢いは完全に慶喜の判断を狂わせたと言っていい。数の上では薩長軍を圧倒的に上回っていた幕府軍だったが、その頂点にいる慶喜は、将軍になって間もないこともあってか、幕府軍を制御仕切れていなかった。
このとき慶喜の頭の中は、賊となってしまった「徳川家」を守ることだけだった。
このとき慶喜は「幕府」をすてた。

方谷がこの鳥羽伏見の戦いの結果をどう見たのか資料は残っていない、しかし慶喜の考えていた「挙国一致しての攘夷」は以前方谷が熱心に前将軍や勝静に説いていた説だった、ただ残念なことに行動に移すのが遅すぎた、時代は方谷や慶喜が考えていたよりも、恐ろしく速い速度でうねりをあげて進んでいた。

そして18日、賊軍となった備中松山は備前岡山藩をメインとする倒幕軍に包囲されていた。「いま備中松山には上様はおらぬ、戦うか、恭順するか」
そして方谷がとった行動は備中松山城無血開城という物であった。
(このエピソードは別コーナーで詳しく描きます。)

河井継之助ら長岡藩もまた他藩と同様、恭順、主戦で揺れ動いた、3月3日、河井らは海路を途って長岡に帰還、この時河井は江戸藩邸の宝物類をすべて売却、当時日本には三門しかなかったというガトリング砲二門を含め多くの銃火器を購入した、3月23日新潟に上陸、翌24日長岡入りしている。

3月14日、五箇条の御誓文公布。天皇政権は、新政府の基本方針として「五箇条の御誓文」を発した。その内容自体は、撰夷を完全に放棄した以外、目新しい点は少ない。「広く会議を興し」という冒頭の一文は、越前藩や土佐藩などの公議政体派に配慮したもの。天皇政権には、公議政体の意志はなく、すでに薩長藩閥政府が萌芽しつつあった。

4月1日、近藤勇ら新選組メンバーを主力とする甲陽鎮撫隊は勝沼の闘いで新政府軍に敗れ、日野を通過して江戸に向かう。このときすでに新選組は実質上瓦解していた。

4月3日、近藤勇が大久保大和と名を変え投降。25日板橋で断首される。土方は流山を脱出、会津から箱館へ行き榎本武揚の幕下に参ずる。

4月11日、江戸開城。鳥羽・伏見の戦い以後も、徳川家は強大な軍事力を誇示していたものの、徳川慶喜は新政府への恭順の意志を示す。前月の十三日から二日間にわたり、西郷隆盛と勝海舟の談判が行なわれた結果、慶喜の恭順が認められ、江戸城は新政府軍に接収されることが決定。徳川家の恭順により、新政府の全国政権としての基礎が固められた。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津軍は江戸に引き揚げて帰藩した、松平容保は勝静の指示通り隠居して恭順を嘆願、しかし勝静や容保の「挙国一致しての攘夷」の訴えは新政府軍には全く理解されず、新政府軍は続々と部隊を会津藩境に投入してきた。会津藩追討令を新政府軍より受けた東北諸藩は、十四藩連署の会津藩赦免願を提出、しかしころを鎮撫総督・長州藩参謀・世良修蔵に拒否されてしまう。

4月20日、仙台藩士は世良修蔵を福島の宿舎に襲って、これを暗殺した。その上で会津藩に同情する米沢藩の呼びかけにこたえて、4月23日、藩領白石に奥羽二十五藩の重臣らを集めた。

5月2日、世にいう小千谷談判と伝えられる会談が新政府軍軍監、岩村精一郎と長岡藩主席家老河井継之助と間で行われた。河井は会津征伐の中止を訴えたが岩村精一郎はこのときまだ若干23才の若造であり、河井のいう「挙国一致の攘夷論」や「武装中立」といった内容はほとんど理解されなかった。
河井の「いま日本は国内において内戦をしている場合ではない」という訴えは岩村によって握りつぶされてしまう。

5月3日、奥羽越列藩同盟成立。奥羽諸藩は、朝敵に指名された会津藩を救うために結束。会津藩の謝罪が認められなかったことから、奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と軍事的に対立状態に入る。あまり知られていないがこの「奥羽越列藩同盟」にも方谷・勝静・慶喜の主張である「欧米列強への対抗」の精神が色濃く表れていた。なんと奥羽越列藩同盟は孝明天皇の御舎弟・輪王寺宮法親王を「東武皇帝」として擁立、「公儀所」(政府)を白石に、「軍事局」(大本営)を福島に設置し、欧米列強に対して「国家」として独立宣言をした。これは、「明治天皇」を擁す薩長の維新政府に対する、北陸以北諸藩による事実上の「北日本連邦」の成立を意味していた。このとき板倉勝静は同盟公議府の参謀として軍事作戦を取り仕切っていた。

5月15日、大村益次郎指揮の新政府軍が上野の彰義隊を壊滅させる。
5月19日、北陸道征討の新政府軍が長岡城を占拠。
7月4日、秋田藩が列藩同盟からの離脱を決め、仙台藩の使節11人を斬殺する。
7月24日、長岡藩家老の河井継之助が、新政府軍から長岡城を奪回、しかし29日に再度新政府軍が奪回する。

7月29日 、二本松城を占領した新政府軍は、東部の藩境母成峠・石莚口を攻撃。伝習隊、土方歳三の新選組、猪苗代城の会津兵が応戦したが守りきれず退却した。

8月16日、河井継之助、長岡藩との戦で負った傷が致命傷となり戦死

8月19日、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚「回天」など八隻を率いて奥州へ向かう。
8月20日、新政府軍参謀・板垣退助が白河口から会津進撃を開始。
8月22日、若松城を出撃した白虎隊が新政府軍に敗北、城下の進出を許す。のち23日、敗残の隊士は飯盛山で自刃、歴史にのこる悲劇となる。

8月23日、新政府軍、若松城を包囲。会津藩主・松平容保は篭城を決める。
9月4日、新政府軍・奥羽征討総督府、米沢藩主・上杉斉憲に投降を勧告。10日に米沢藩は降伏した。

9月8日、慶応から明治へ改元。改元の理由は、天皇政権の樹立を内外に誇示するためだった。15日仙台藩、福島藩、降伏。 22日には会津藩が新政府に降伏。23日には庄内藩も降伏。奥羽越列藩同盟は瓦解しており、新政府は戊辰戦争の勝者としての地位を確立させつつあった。

敗戦がほぼ決定的となった旧幕府軍は蝦夷地にわたり「蝦夷地共和国」を建設すべく行動を開始した。このころになっては旧幕府軍の行動は客観的に見るとすでに夢物語の中で躍る道化師のごとくになってしまっている。しかし、生き残った彼らは蝦夷地に最後の望みをつないだ。

旧幕府軍最後の戦力となったのが榎本艦隊だった、榎本はその戦力を徳川家の将来的な安全のための残そうとしていたため、戊辰戦争下でもほとんどの戦力を温存していた。しかし蝦夷地へ渡るための船は8隻、戦闘員が数多くほしい榎本は今となっては単なるお客様でしかない旧幕臣の板倉勝静や松平容保の随行人の数を大幅に制限し、各藩とも2~3人とした。

ここで選考に漏れた藩士らを救ったのが土方俊三であった、このときすでに新選組も隊員24名と戦力は激減していた、そこで桑名、備中松山、唐津の藩士らに新選組に加入すること進言し、一緒に蝦夷地に渡ることを薦めた。

9月20日、備中松山藩士11名が板倉勝静随行のため新選組に入隊する

蝦夷行を決意した勝静と一緒に榎本艦隊開陽艦への同乗を許された二人のうちのひとりに選ばれた辻七郎左衛門はのちに著書「艱難実録」のなかでこの当時の事を克明に書き残している。

この「艱難実録」、いろいろと注目すべき処があるが、なかでも冒頭部分、「我が君の事を世間にては高名に評すれども實は左程の事はこれなし正直固衷情に深き御性質にて御誠意余あつて機權果斷の足らざる御方なり・・・」頭から君主である勝静を「わが君主は世間では大変評価されているが実はたいしたことはない」と痛烈に批判している、何十年もお供をした辻七郎左衛門の本音であろう、恨み節が説説とつづられている、また「わが君主は他人のことばかりに従ってちっとも自分たち藩士の言うことを聞いてくれない」とも書いている、これも元老中の身分でありながら榎本らの艦への人数制限に文句も言わずに従っている勝静を嘆いているのだろう。

10月2日 大鳥圭介、土方歳三ら敗残の旧幕軍を収容した榎本脱走艦隊が、仙台の荻浜港から蝦夷に向かう。
10月3日、東京遷都。明治天皇の到着とともに、江戸は東京と改称された。以後、京都からの遷都の命令が出されないまま、東京は、なし崩し的に首都として機能する。

蝦夷地はこのときすでに冬、この後半間程度函館に渡った旧幕府軍、追討する新政府軍共に平穏な期間が過ぎる、そして春、新政府軍は雪が溶けるのを待って総攻撃を仕掛けた。

明治二年(1869)

4月15日、土方俊三は秘蔵っ子である市村鉄之助に自らの遺品を託し函館から脱出させる。

すでに4月中には板倉勝静・松平定敬らは箱館を去り、5月2日には旧幕府軍の後押しをしていたブリュネらのフランス軍人も自国船で脱出、戦いは最終局面に突入する。二股口と松前口より進攻を続ける新政府軍は、海陸両面から旧幕府軍を圧倒して箱館に追った。

そして5月11日を期して、箱館総攻撃が決行されることとなる。
土方歳三、箱館一本木関門で戦死。

5月18日:五稜郭開城。