嘉永2年(1849年)山田方谷45才、藩校有終館学頭(今でいう校長)として働いていました。そんな年の冬、11月27日病弱で愛する弟 平人が病気で没しました。

苦楽をともにした唯一の身内の死は方谷をどれだけかなしませたのか、想像に耐えません。

 

そんな悲しみのどん底にいた方谷に突然藩から呼び出しがあります。

明らかに通常の物とは違う・・・

 

そんな、最悪の気分の中、新しき備中松山藩の藩主になった板倉勝静によりこう告げられました。

 

 

 

「備中松山藩の元締め役兼吟味役を命じる」

 

 

 

青天の霹靂、今でいう大学の学長が、突然財務大臣兼副総理に任命されたのです。

 

さらに、任された藩の財政状況は、今で言うと倒産寸前、末期的な代物だったのです。

 

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山田方谷は江戸時代幕末の少し前。文化2年(1805年)に生まれ、明治10年(1877年)に没しました。

その73年の人生は数奇に満ちた物といえるでしょう。

 

山田方谷の人生は大きく5期に分けることができます。

 

1期 生誕・幼少時代

2期 青年期・修業時代

3期 藩政改革時代

4期 幕末政治顧問時代

5期 引退・余生時代

 

そして、この5期全てで様々な出来事が起こります。

方谷の人生は現代に生きる私たちの大きな礎となり得る人物です。

 

今回は方谷の人生の中でも最も注目されている「第3期」藩政改革時代を中心にご紹介いたします。

 

まずは、さらっと藩政改革に至るまでの方谷の人生をなぞってみます。

 

Contents

■生い立ち(1期 生誕~幼少時代)

 

文化2年 1805年 212年前2月21日、備中松山藩西方村で生まれました(現在の岡山県高梁市中井町西方)

 

わずか4歳にして近藩の儒者 丸川松陰の塾に預けられます

「孟母三遷」ということわざがあります。(子供の教育にはよい環境が大切だということのたとえ。 「孟母三遷の教え」の略。 「孟母」は、中国戦国時代の思想家、孟子もうしの母親のこと。 「三」は、「しばしば」「たびたび」の意。)

 

方谷の両親は勉強における環境の重要さをよく理解していました。つまり、方谷の父「五郎吉」も母の「梶」も基礎的な素養は十分にあったのでしょう。

 

方谷は、その華々しい活躍とは裏腹に、自身の家庭環境には恵まれませんでした。

8歳の時に妹を亡くし、14歳で母を、15歳で父を亡くします。

 

15歳にして一家の主となった方谷は、新見の丸川塾を離れ、地元西方に戻り家業の製油業を営みます。そして17歳で結婚しました。

その後、家業を営みながらも、夜は学問に専念するという生活を続けます。

 

自身に置き換えてください。

なれない仕事が終わってくたくたにあった後、夜遅くまで勉強にいそしみます。

どれだけ大変な生活であったか。

 

父の五郎吉は「父五郎吉君家訓」という戒めを作っていました。

 

衣類は木綿に限ること。

三度の食事は一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯、もっとも母には三度とも米を勧め、夫婦の米は倹約する事。

酒のたしなみは無用の事。客の饗応は一汁一菜限り。

仕事が忙しい時は朝七つから夜九つまで(十二時辰)。履物は藁草履、引き下駄、藁緒に限ること。加羅油、月代は月に三度。

鬢付けは倹約すること。

高銀の櫛かんざしは無用。

遊芸は一切無用など12か条。

 

当時の方谷はこれを厳しく守っていたと思われます。

そして、転機は21歳の時訪れます。

 

■登用(2期 青年期・修業時代)

 

21歳のとき、「西方にすごい人物がいる」という噂を聞きつけた当時の備中松山藩藩主、板倉勝職(いたくらかつつね)により二人扶持(今で言う給料)を賜り、藩校有終館で学問することを許可されます。

 

当時各藩は、人材不足に悩まされており、優秀な人材を探していました。「士農工商」という身分制度はこのときにはすでに有名無実化しつつあったのでしょうか。

 

22歳のとき、長女 瑳奇(さき)がうまれます。

しかし、方谷は、決していい父親ではありませんでした。

当時、方谷は実家を妻の進や弟の平人に任せ、京都に2回、江戸の1回、数年にわたる遊学を繰り返しました。

 

弟・平人から、「山田家が疲弊している、帰ってきて家業をしてくれないか」という手紙に対し、「なんとかがんばってほしい、今は帰れない」という手紙を返しています。

 

このとき、方谷には「経世済民」そして「治国平天下」を学び、なんとか自分の物にするという「やむにやまれぬ信念」がありました。

 

この頃「理財論」という論文を書いています。

方谷32歳の時、佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文です。

後の方谷の改革の精神が色濃く記載されています。

 

(文章は「財政の巨人幕末の陽明学者・山田方谷」林田明大著より引用)

 

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「理財論」上

 

今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の棒給、供応の費用、祭礼の費用、接待交際費など、藩の出資は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことはこのようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。

 

なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。

だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。

 

というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。

 

そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとして、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。

 

人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。

 

そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。

ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、金銭の増減にのみこだわっています。

 

これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。

 

さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。

 

これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。これなどは、財の内に屈する者である、といえます。

 

ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人となんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。

 

ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を儒家は非難しています。

 

ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしているのです。

このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。

 

ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。

そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。

 

そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。

 

「理財論」下

 

ある人が、次のように言って反対します。

「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。

 

綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」

 

私は、この人に次のように答えます。

 

「義と利の区別をつけることが重要なことです。綱紀を整えて、政令を明らかにすることは義です。餓死を逃れようとすることは利なのです。君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです。餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。

 

その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。

 

侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。

 

貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。

 

しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。

 

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江戸遊学後、方谷は教育者として備中松山藩の藩校「有終館」、そして自らの私塾「牛麓舎」で教鞭を執ります。

 

「牛麓舎」で方谷から学んだ面々が、やがて方谷と共に備中松山藩の藩政改革を大成功に導いてゆきます。

 

 

■藩政改革(藩政改革時代)

 

嘉永2年(1849年)12月、冒頭に書いた衝撃の事件が方谷に起こりました。

備中松山藩の元締め役兼吟味役への就任要請です。

 

 

もうやるしかないのです。

 

「方谷の言葉は余の言葉である」

 

藩主板倉勝静はこう言って反対する臣下を黙らせました。

 

板倉勝静は文政6年(1823年)に奥羽白河で生まれました、方谷とは19歳差、26歳の若殿は方谷に全幅の信頼を寄せていました。

 

勝静が備中松山に養子に来たのは弘化元年(1844年)21才、それから5年勝静は方谷の元でみっちりと学問をまなび、深い絆で結ばれていました。

 

板倉勝静は「寛政の改革」を行った松平定信の孫に当たります。

勝静は「徳川家」とは切っても切れない関係性を持っていた。そして若き藩主は、なんとしても備中松山藩の藩財政を立て直し、幕閣に参加することを夢見ていました。

 

そうして、日本史上も例を見ない、改革はスタートしたのでした。

 

 

 

改革について

 

1,          上下節約

2,          負債整理

3,          藩札刷新

4,          産業振興

5,          民生刷新

6,          教育改革

7,          軍制改革

 

 

以上、方谷の行った藩政改革は大きく分けて7つあります。

このどれがかけても駄目なのです。全てが達成されて、はじめて方谷の思い描いていた備中松山藩が完成するのです。

 

しかし、その道は最初から限りなく困難な道でした。

 

 

嘉永2年(1849年)12月、江戸藩邸にて元締役兼吟味役に就任した方谷は、すぐさま藩の財政状況の調査に着手します。その結果、驚愕の事実が判明。

 

「松山藩は公称5万石の藩だが、実際は19,300石の石高しかない。」

 

最大の原因は播磨姫路藩主 本田忠邦が幕命により行った検地で2倍に評価されてしまったことが大きな原因とも言われています。

 

原因はさておき、とにかく完全な粉飾決算を何年にもわたり続け、藩はすでに破綻寸前であることが判明します。

 

方谷は「藩財 家系 引合収支体計」という藩の収支の集計表を独自で作成し、藩の財務状況の把握をおこないました。

 

藩の財政規模は約5万両、されど収入は年間約3万両、毎年2万両が足りないという状況です。

 

また、藩の借金は10万両に及び、利子の返済のみで年間一万3千両が必要。

 

 

 

「しかし、やるしかないのだ。」

 

 

 

嘉永3年(1850年)勝静が松山藩に帰ると共に改革の大号令がかかります。

 

改革に反対する者は厳重に処分し、方谷に対する悪口も一切許さない、

「方谷の意見は私の意見だ」と勝静はいいきり改革始まりました。

 

 

(1)上下節約

 

1850年松山藩は節約令を発布

 

衣類は綿を用い、絹を使用してはいけない、足袋は9月から4月まで髪結いは人の手を借りてはいけない  など

 

まず手始めは、どんな藩でもやっている「倹約令」です。

出血している血を止血しなければ、どんな名医でも次の処置に進めません、しかしここですでに方谷改革の片鱗が現れるのです。

 

倹約令は全藩民を対象にしたものでした、しかし下級武士や百姓はすでにこれ以下の生活を余儀なくされており、実質的な倹約令の対象者は「中級以上の武士や裕福な農民や町人」だったのです。

 

さらに倹約令には「奉行代官等に一切の贈り物を禁ず、巡回の役人に酒一滴も出すに及ばず」とありました。

 

当時、百姓たちは役人が見回りに来るたびに要求される賄賂に困っていました。

そんなこともなり、この倹約令は逆に庶民を喜ばせたのです。

 

 

(2)負債整理

 

 

「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑(いとま)なし」

 

方谷は大坂蔵屋敷に、松山藩が借金をしている大阪の銀主たちを一堂に集め言いました。

 

「すまん、・・・このままではあなたたちに借りた借金を返すことができなくなる」

 

方谷は松山藩の財政状況を債権者である大坂の銀主にさらけ出した上で、各銀主ごとにきめ細かい返済計画を作成、10年~50年に及ぶ返済計画を飲ませてしまいました。

 

当時の武士が、上人に頭を下げて、藩の窮状を訴え、借金を待ってもらう。

武士にとって「メンツ」が重要であった時代です。藩士たちの大反対も押し切り起こした方谷の行動に大坂の銀主たちは腰を抜かして驚いたことでしょう。

 

さらに驚いたのは、この莫大な借金を計画より遙かに前倒しし、7年間で完済してしまったこと。

 

藩政改革で有名な調所広郷ですが、彼の場合、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前。これに対して広郷は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、実質踏み倒した事とは全く異なる対応です。

 

これも全て、方谷聖人の基礎となる「誠意」に満ちた対応といえます。

 

また方谷は、年間で莫大なコストが掛かっていた大坂の蔵屋敷を廃止し、年貢米を藩内にストックし、米相場を見ながら自ら売買を行いました。

 

(3)藩札刷新

 

方谷は「お金」とはどういう物かを知っていました。

 

 

「お金とは信用である。」

 

 

当時、藩には藩札という独自通貨(正価との兌換紙幣)の発行が許可されていました。

 

松山藩も藩札を発行していましたが、その根拠となる準備金は使い込まれ、偽札まで出回り、信用は地に落ちていました。

 

 

「藩財政の運営にあたっては、過半の力を藩札の運用に用いた」

 

後年、方谷は藩政改革を振り返り、こう語っています。

方谷の藩政改革の肝の部分、この改革が実施され、方谷改革は成功しました。

そして、日本中で行われた藩政改革にあって、他に類を見ない大胆で美しい改革が「藩札刷新」といえるでしょう。

 

 

1852年、方谷は3年の期限を切って旧藩札約8千両を回収、未使用の3千8百両、併せて11800両をあつめ、河原で焼却するというパフォーマンスをおこないました。

 

藩財政が窮乏している中にあっても、出すべきところにはきちんと予算を付ける、それも信念を持ってです。

 

一般人から見ると、全く価値のない藩札をお金も無いのに買い取るなど、全く意味不明、この行為ができたこと自体が奇跡的です。

 

そして、藩札を焼くイベントを広く告知し、大民衆の前で景気よく藩札に火を付けました。

 

大量の藩札を焼くには朝から夕方までかかったと言います。

 

 

その後「永銭」という新藩札を発行、永銭は猛烈な信用を勝ち取り、松山藩を超えて他領にまで流通しました。

 

 

永銭の発行量が増えれば増えるほど、両替準備金である正貨の備蓄は増えていきます。

 

河井継之助は旅日記「塵壺」内で「信用できるのは松山藩の永銭が随一だ!」という話を聞いた。

 

(4)産業振興

 

節約して出を絞り、借金を待ってもらい、金を流通させて景気の回復を図る。

次に必要なのは「産業」であり「雇用」です。

 

そして、方谷の切り札は「鉄」でした。

備中地方には昔から良質の鉄がとれる地域で、古くは「備中松山藩水谷氏」も鉄で産業を興していました。

 

方谷は藩内に加治屋町という工業地帯を整備し、広く鉄職人をスカウトしては連れてきて備中松山藩を鉄の大産地に仕立て上げました。

 

そこから作ったのが有名な「備中鍬」さらに一番売れたのは「釘」と言います。

売る場所も工夫しました。西日本にある備中松山藩ならば、近隣の大消費地である大坂で売るのが順当ですが、方谷は違いました。

 

当時最も人口が集積していたのが江戸だったのです、

 

「江戸で売るぞ」

 

備中松山で作られた鉄は船をとおして江戸に運ばれ、飛ぶように売れました。

当時日本の人口の8割以上が農民です。農具は飛ぶように売れました。

 

さらに火事の多い江戸では「釘」が必需品です。安くて良質な備中松山のは釘はよく売れました。

 

さらに様々な仕掛けを準備しています。

 

 

「撫育方」の新設(米以外の藩内のすべての生産物を一元管理し、販売する今で言う農協や商社の様な存在)し、藩内の生産物を計画的に生産、まとめて江戸で販売します。

 

さらに販売する品には「備中」とか「松山」という名称を頭に付けてブランド化を図りました。「備中」ブランドは良質廉価(鉄製品など)、「松山」ブランドは高級品ブランド(煙草や檀紙)です。

 

吹屋で作られた「ベンガラ」は九州伊万里に伝わり、そこからベルサイユ宮殿にまで渡っています。

 

もちろん撫育方はから払われる報酬は「永銭」です。

この産業振興策により、松山藩の借金はみるみる減っていったと言います。

 

 

(5)民政刷新改革(士民撫育)

 

 

先の産業振興策で方谷が作った役所の名前は「撫育方」、撫育とはどういう意味かというと、日本国語大辞典によると「常に気を配り、大切にそだてること。愛し養うこと。」

 

方谷らしい命名です。藩民全員を撫育することが方谷の目的だからです。

しかし、ただ優しいのではありません。方谷は下のような政策を藩内でとりました。

 

           その1.賄賂の禁止とぜいたくの禁止(庄屋や豪商などが権力者に個人的に接見した賄賂を渡す週間を根絶)

           その2.盗賊を取り締まり、賭博を禁止 禁を破る物は厳罰化

           その3.領内に郷倉を新設

           その4.道路の整備、水路の整備、幹線道路の拡張

           その5.目安箱の設置など

 

新見の山田方谷記念館に、あるとき学生が尋ねてきたそうです、そのときの磯田館長がなにげに話を聞いていると、その学生はこう言ったそうです。

 

「方谷先生は、現在の刑務所の仕組みを先駆けて作った人で、どんな人か見てみたかった」というのです。

 

詳しく効いてみると、「方谷は刑務所の受刑者たちに仕事をさせて、その仕事に対して対価を払っていた」と山田方谷全集にててくると。

 

これにより出所後の再犯率が低下して藩内の犯罪率を抑えていた。

 

驚いた磯田館長が調べてみると、確かに書いてあると。

 

また、飢饉が起こったときも、周辺の藩では餓死者が出たとしても、備中松山藩では一人の餓死者もでていないのです。

 

これは、先に出てきた「大坂米屋敷の廃止」が効いているのです。

米屋敷を廃止し、藩内40カ所に「義倉」を建設し米を藩内で備蓄しました。

 

通常相場を見て自ら運用していましたが、いざ飢饉が起きると義倉を開放して、米を民に分けあたえ、餓死から命をすくったのです。

 

当時はいつ死んでもおかしくない時代、そんな時代に「命の保証」を行った方谷に対して、百姓らは方谷を「神のごとく仰いだ」と伝わっています。

 

 

(6)教育改革

 

武士であろうと百姓であろうと学ぶ意思のあるものには学ぶ場所をあたえる。

 

方谷は藩内に郷学3,私塾4,寺子屋20.藩校1全28校を創設しました。

5万石の備中松山藩ではキャパオーバーともいえる大量の教育施設です。

 

河合継之助、「この町には教諭所という学問所がある、町人がここで会読、輪講(数人から数十人のグループで論文または書籍の内容を互いに発表し合うこと)までしている、進鴻渓が教えている所では「八大家文」を読む12才の百姓の子がいる」と驚いています。

 

当時の備中松山藩の教育水準の高さがうかがえます。今も同じですが教育水準が高くなると、そのものの年収も上がります。

 

方谷は「教育こそが、国の基礎であり、国を伸ばす唯一の方法である」事を知っていました。

 

(7)軍制改革

 

1852年 理正隊を創設しました。

 

庄屋の家の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、帯刀を許可、猟師や青年を集めて銃器弾薬を支給し縦隊を編成。

 

フランス式の軍隊であったと伝わります。

 

この当時、百姓で軍事部隊を組織する事は拡販で行われていたようですが、方谷の作った理正隊はその中でもかなり先駆けでした。

 

有名な話として1858年松山藩を視察に訪れていた久坂玄瑞は「長州、松山に遠く及ばず」と手紙に記しました。

 

文久2年9月(1862年)に備中松山藩はアメリカの木造帆船を購入し「快風丸」と命名しました。

平時は産物の輸送用、有事は軍艦として使用するためでした。

 

ちなみに「快風丸」の廻航を頼まれたのが海軍伝習所に通っていた備中松山藩の親戚藩安中板倉藩の新島襄でした。新島の人生はこの航海により大きく変わりました。

 

また、方谷は下級藩士たちを城下から国と国の境である地域に次々を移転させました。

ここで農業をしながら、境界を守れというのです。

 

今で言うところの屯田兵、もちろん当初はこれまた強烈な反発がありました。しかし、1年が経ち2年が立ち、作物が収穫を迎えることで収入の足しになった下級藩士たちからは次第に反発の声は無くなって行きました。

 

 

 

 

以上が、山田方谷が行った藩政改革の概要です。

方谷は、これら全ての改革を、わずか7年で行いました。

 

10万両あった借金は、10万両の蓄財に変わったと言います。

 

 

方谷改革成功の大きなバックボーンとしては、板倉勝静の強力な後ろ盾があったことは間違いがありません。これにより反対因子の押さえ込みにある程度成功したからです。

 

さらに、方谷の膨大な知識が何をするべきかを自分自身に教えます。

 

藩札の刷新なども、中国の古典から学んだ知識の応用であったと言います。

 

そしてそれを支える行動力こそが「陽明学」でした。

 

「致良知」「格物」「知行合一」の3文字は有名です。

 

陽明学の祖、王陽明は「良知」とは「行動するかどうかは別として、「何かしたほうが良いと、自分の心は知っている」というもの」とし「致良知」とは人間は、生まれたときから心と体は一体であり、心があとから付け加わったものではない。 その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致する。

 

「格物」とは、「知を致すは物を格ただすに在り」と読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして、天理を悟ること、自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことであると解釈しています。

 

「知行合一」とは本当の知は実践を伴わなければならないということ。(言行一致とは異なります。)

 

方谷はこの陽明学により改革を成し遂げたのでした。

 

そして方谷の信じる良知とは、「松山藩の藩民たちが幸せに生きられること」であったのだと思います。

 

 

方谷は何のために改革を成し遂げたのか、それは板倉勝静のためでは無く、もちろん自分自身のためでも無く、「藩の人々のため、藩民の幸せのためだけ」を願って、藩政改革を成し遂げたのだと思います。

 

 

そして、それはその後の幕末の激動の中、備中松山藩の無血開城後、形となってあらわれました。

 

方谷は、名誉を捨てて、城を明け渡し、板倉勝静を逮捕させ、備中松山藩の藩民を守り切りました。ただ一軒の家も焼けること無く。

 

 

【参考文献】
『山田方谷全集』(山田準)
『山田方谷入門』(山田方谷に学ぶ会)
『山田方谷に学ぶ改革成功の鍵』(野島透)
『夢を駆けぬけた飛龍 山田方谷』(野島透)
『山田方谷伝』(宇田川敬介)