山田方谷と炎の陽明学

危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学とも称される陽明学。 その神髄を身をもって実践した『リストラの天才』が、幕末の日本にいた。名を山田方谷(ほうこく)という。 十万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか八年で立て直し、逆に十 […]

賊軍のラストサムライ

藩主勝静江戸へ遁走 慶応4年(1868年)1月3日、第15代将軍・徳川慶喜のいる大坂城を薩長の4千5百の兵が取り囲んだ。幕府軍の軍勢は一万五千人、数の上では圧倒的に幕府軍有利という状態である、しかし時代の流れは既に幕府の […]

備中の天誅組

天誅組は、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らを中心に構成され、尊皇攘夷をもとめて決起した武装集団である。 備中松山藩の立場とは対局にいたこの天誅組に、松山藩士「原田亀太郎」がいた。 最終的に原田の夢は叶うことはなかったが、維新後 […]

方谷イズム ~陽明学とキリスト教~

新島襄と備中松山藩 高梁市内には県下でも最も古い教会があるように、維新後、高梁では全国でも有数のキリスト教文化が花開いた。高梁でキリスト教がここまで盛んになったのは偶然か、必然か、高梁のキリスト教信者らは、キリスト教の福 […]

板倉勝静と新選組

安政七年(1860) 3月3日、水戸浪士たちが老中井伊直弼を桜田門前で暗殺した。 世に言う桜田門外の変である。この事件を契機に歴史は一気に動き始めた。 このとき備中松山藩主・板倉勝静は「安政の大獄」において寛容な処分を井 […]

備中の新撰組

高梁市内に於いて新選組内に松山藩士がいたという事実は驚くほど知られていない。 これは当時の藩主、板倉勝静が幕府の筆頭老中という要職にいたため、新政府からずいぶん憎まれ「新選組」という言葉すら口にすることが出来なかったとい […]

平成塵壺紀行

塵壺とは河井継之助が西国遊学の際に記した紀行日記である。 継之助はこの塵壺以外には著書はなく、継之助唯一の著書として有名であり、かつ 継之助の人となりを知る上でも貴重な資料である。 紀行日記とは言っても継之助自身、この塵 […]

河井継之介の生涯

|少年期~遊学時代 越後長岡藩七万四千余石は越後のほぼ中央に位置し、城下の近くを信濃川が流れている。長岡藩主牧野氏は三河牛久保出身で元和四年(一六一八)入封以来、幕末まで十二代にわたり連綿と藩を支配した。藩是は質撲剛健を […]

激動の藩政改革

|松山藩財政、待ったなし 元締役を引き受け、初めてみた備中松山藩の財政の実態は方谷を愕然とさせるに充分な、彼の予想を遙かに上回る物だった。 藩の借入金は総額10万両を越える膨大な物であり、その利子により藩の借金は雪だるま […]

青年時代の方谷

神童誕生 今からざっと200年前の文化2年(1805年)阿燐少年は生まれた。 (リンという字の正確な部首は王であるが、コンピューター内に正確な文字のフォントがないため火偏の燐の字を使う) 備中松山藩西方村、現在の岡山県高 […]

方谷の人間研究

  -山田方谷(やまだほうこく)とはいかなる男か- 徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れ […]

1 / 3123