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-山田方谷(やまだほうこく)とはいかなる男か-

徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れられた人間山田方谷。山田方谷の名前に記憶が無くとも、越後長岡藩の破天荒な英雄河井継之助が3度土下座を繰り返して生涯の師と仰いだ人物、と逸話を語ると案外思い出す人がいる。

越後長岡を武装中立国にしようとしてならす、十倍の官軍を震え上がらせて激戦の北陸戦争に散った継之助は、三十三歳の時、はるばる備中松山に遊学し、旅日記「塵壺」を残した。山田方谷を慕って備中松山を訪れ、継之助が半年以上も内弟子となってそこに滞在したのは、師の方谷が前人未踏の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている幕末の最も有名な陽明学者だったからである。

ことの外に立つ 方谷の説いた帝王学

理財論

「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文である。

「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文である。
こののち、方谷は劇的な藩政改革でこの理財論を実践してゆく。
本文は「陽明学」創刊号、山田方谷特集号参照でかかれた方谷の理財論の全文である
(文章は「財政の巨人幕末の陽明学者・山田方谷」林田明大著より引用)

「理財論」上

今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の棒給、供応の費用、祭礼の費用、接待交際費など、藩の出資は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことはこのようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。
なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。
だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。
というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。
そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとして、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。
人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。
そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。
ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、金銭の増減にのみこだわっています。
これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。
さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。
これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。これなどは、財の内に屈する者である、といえます。
ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人となんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。
ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を儒家は非難しています。
ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしているのです。
このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。
ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。
そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。
そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。

「理財論」下

ある人が、次のように言って反対します。
「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。
綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」
私は、この人に次のように答えます。
「義と利の区別をつけることが重要なことです。綱紀を整えて、政令を明らかにすることは義です。餓死を逃れようとすることは利なのです。君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです。餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。
その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。
侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。
貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。
しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。

擬対策

「対策」とは律令制下の中国の官吏登用試験で、出題に漢文で答える試験である。方谷はこの対策の前に「まねる」と言う意味の「擬」という文字をつけて「擬対策」とした。
本文は本来漢文の「擬対策」を現代語訳してわかりやすくしたものである。また文章は本来謙譲語だが、ここでは敬語表現はすべて省いてある。

「対策」とは律令制下の中国の官吏登用試験で、出題に漢文で答える試験である。方谷はこの対策の前に「まねる」と言う意味の「擬」という文字をつけて「擬対策」とした。
本文は本来漢文の「擬対策」を現代語訳してわかりやすくしたものである。また文章は本来謙譲語だが、ここでは敬語表現はすべて省いてある。

擬対策

昔は明確な意志の基、胸の締め付けられる想いをしてでも自分の意見をはっきりという「士」を求めることが懸命な君主の美徳であり、且つ世を繁栄させるための大切な努めであった。世を憂い、君主を愛する「士」であれば、どんな者でもその命(めい)に応えようとするだろう。
この文章を書いている私(山田方谷)は無作法で教養のない人間で、方や政治のことなど知るよしもないが、日頃より書物を読んでいると、国を治め世を繁栄させることについてよく考えてしまう。
以前、周易(→儒教4書の一つ)を読んだとき、「国難に遭遇しても、固く節を守って屈しなければ禍いを免れる。」とあり、又「城壁は崩れて堀に復る。」とあった、ここまで読んで、私は恐ろしくなり、また深く感動した事がある。
「天下ができてすでに長い時間が流れ、その間には様々な政治や戦が繰り返されてきた。これは【周易】によるところの【陰と陽とは循環し、消と長とは互いに推移してゆく】という事と同じで、このことは古今東西変わることのない定説であると。
【周易】は占いによって天下の吉凶を占うものだが、その中の泰平の「泰」は「上下志を同じくし、万物通いあう」という意味をもつ。しかし「泰」はいつまでも良い意味を持つわけではなく、あるところから「否」に変化する。これは「衰乱の兆候は必ず盛治の時に形成される」と言うことの暗示で、【周易】の言わんとすることは明白である。治乱盛衰の原理を明らかにし、後世を憂慮することほど重要な事はない、現在国は栄え世は平和で泰平であるが、こんな時こそ、【周易】の戒めを考えなければならない。
私は最近、主君のすばらしいお言葉を拝読する機会を得た。主君の識見と度量は遠大で、早くから上の事を考えて、まるで危乱の世にあるかの如く戦々恐々として、おそれ戒めておられることを知った。これを読んだ私は感激に堪えず、敢えて心の誠を全て申し上げたいと考えた次第である。
考えるに、徳川家康公が徳川幕府を開設し、幕府存続のために百代続く制度を定めそれを継承してきた。幕府は祖宗の制度に従い古い習慣を謝ることなく、国家の法は秩序正しく成り立ち、政令も明らかであったので四方の国々は喜んで服従し波風絶つことなく200年が経過した。
教育が国の隅々にまで行き渡ったとは言わないが、常に守るべき道徳が滅んだことはない
。恩恵が国の隅々にまで行き渡ったとは言わないが、村里の人々に嘆きの声は聞かれない。
刑罰が十分に整ったとは言えないが、盗賊が民衆を襲う行為は見られない。
外国の勢力が今や盛んになったとはいえ、その矛先が我が国に向けられたことはない。
今の日本は実に泰平無事の極みの状況であり、指摘すべき少しの問題も無い。現在よりも良い時代など未だかつて無いと言えるだろう。一般の人々がこれを見て、この太平の世に何の心配があるだろうかと思うのは至極当然のことである。
しかし、賢明な君主はこの事態こそを心配し、しばしばこの世を諫める言葉をはかれる。この戒めの言葉は、何に基づいて衰乱の兆候を今日に見られたのか私は考えてみた。
現在、世が乱れる兆候が見られるとすれば、それは「天下の【士】の風紀が衰えて廃れてきたこと」であろうか。かつて塞水先生司馬氏はこう言った。「風俗は天下の大事である。しかし凡庸な君主は之を蔑ろにする」また蘇子瞻はこう言った。「天下の患いで最も避けるべきは、表面は太平無事のようで、実体には不測の変事をもつことである」
私もまた現在の世を「風俗はまさに衰え、さけねばならない憂いが甚だしいのではないのだろうか?」と感じている。ではその理由を詳しく書く。
幕府の基本的な身分制度である「士農工商」、これら格身分のものはそれぞれに自らの仕事をこなし「利=利益」を生み出し、その利で生計を立てている。この士農工商の中で「士」だけは利を生むことは一切せず、人民の稼いだ利を取り上げて生活し、しかもピラミッドの頂点に立っている。
これら「士」が利を生み出すことが無くとも全体の上に立っている所以は「士」の行っている仕事が大きいからである。その大きい仕事とは何か?「士」のなすべき仕事とは「義」に他ならない。つまり士の努めるべきは「義」で民の努めるべきは「利」なのである。
行うべき仕事が義と利に分かれているからこそ、士はこの頂点にいるのである。
我が国は中国大陸の一番東、太平洋の表玄関に位置し、諸外国に勝る問いも劣らぬ場所にある。国民は東アジアでも最も優れたこの地域の「気」をうけて生まれている。そのため日本人の本性は非常に意志が強く、物事に動じない、そして決まり事に厳しい気質を持っている。「士」は気性が強く信念を曲げず「義」を尊ぶ気質がある、これらの気質は日本人が自然に与えられたものである。「大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ、危キヲ見テ命ヲ致ス」という孔子の門下の教えを日本の武士は教えられずとも知り、習わずとも行っている。
この日本人が持ち合わせているはずの気質が、本来風化してゆくものならば、それを尊び養い育ててゆかなければならない。200年前の幕府開設当初は家康公の「徳」により「士」は民衆の上に立った、そして武士達は武士道を尊び、民衆の先頭に立って「徳」を増やして行くことにより「士」を維持してきた。
本来の武士は偽ったり欺いたりせず、真実で正しい道を守ることを尊んで、財利について口にすることを恥とし、「事」が起きたとき、それを回避したり恐れたりするものは卑怯者と笑い、欲深く、人に媚びへつらう者は汚らしい人間として考えてきた。
公には上司に媚びへつらう者もなく、民百姓も「士」に私的な依頼をする者無く、「私欲がなく正直で意志がしっかりしていて物事にひるまない」という武士の士風が今よりも秀でていた。天がここに太平の象徴を開いたことは決して偶然ではなかった。
以来、太平の世は久しく続き、士風も気風も日々弱まり、今日に至ってはその弊害はまさに極まってしまった。今や「士」は軟弱で外見を飾ることや、人頼みやへつらうことが常態になってしまった、策を講じ縁故に頼って何につけても頼み込むことが仕官の方策となり、少しばかりの利害にあわてふためいたり、避けたりして全く抜け目がない。その上、それを自分では上手くやっていると思っている。たまたま剛毅で正直な「士」が出てきても馬鹿だとか古くさいとおとしめたり軽蔑したりする。ああ、今と昔がそんなにも隔たっているわけでもないのに・・・
士風がこんなにもひどく変化したのは他でもない、昔の「士」は「義」を尊んだが、今の「士」は「利」を好み、自分たちが本来努めるべきものが何かを見失っているからである。そもそも「義」と「利」は両立しない。利をむさぼる気持ちが心の中に蔓延すると、必ず義はその居場所を失う。自分の中の「義」が居場所を失うと自分を愛する心が日増しに強くなり、国を憂う心は日々薄れてゆく。
泰平で平和な日が続くと、上にへつらうことで地位を盗み、公明正大な公務を怠る「士」が増加する。そんな者が仮に一つ二つ良いことをしたとしても、それは自分の名声や富を得たいからという私心からなったことで、心から国を思ってのことではない。これら弊害はもはや我慢できるレベルと超えてしまった。このような常態で、万一国に何か事態が起こったとき果たして対応ができるだろうか?
本来、君主は「士」を雇う意味はなにも使いっ走りをさせるためではない。自分の手足として働き、腹心として用い、それによって国のために何かをしようと言う真心から雇っているのである。しかるに君主に使える「士」がこのような有様では、民百姓の心血を搾り取り役立たずを養っている事になる。そうではあるまいか。
悪ははびこりやすい、幕府開設よりわずか200年しかたっていないのにも関わらず、士風はこんなにも変わってしまった。今これをあらためなければ100年後にはどうなってしまうのか想像もつかない。土砂崩れのような災いが一度起こると、霜が積み重なってできる硬い氷のような災いが知らぬ間に積み重なってくる。そうなると、どんな賢者がいたとしてももうどうしようもない。また、風俗の変化やりをむさぼる心は、政治や教育が問題であるという議論もあるが、事を細かく見てゆくと、その大部分は財政が窮乏(きゅうぼう)したため、「士」達が貧乏を憂いている事に原因があるようだ。では、何故そうなってしまったのかを考えてみる。
今日の日本国内には百数十の藩が存在するが、その中で財政の収支が健全で、今後3年間程度の蓄財がある藩はほとんど無いと言ってもよい、反対に支出が収入の倍ほどもあって当座を借財で取り繕っている藩は7~8割にものぼる。しかも、このような問題のある藩に限って、そのような行為が財務の基本に反していると言うことすら知らず、その場しのぎの小手先の技を重んじて借財や厳しい税の取り立てなどの手段を講じている。卑しいどん欲さで「利」を上げることばかりが盛んで心を清く保ち「義」と尊ぶ気風は滅んでしまっている。さらに、このような風潮の中で小手先の達者な者が「有能」とされ、これに異議を唱える者は時事に疎い者として退ける。
人事考課もこのような考えを基に選考されるため、「利」ばかりを追求する濁った風潮が「士」の世界に蔓延し、出世をねらう者は我先にと利害を荒い奔走する。
士風が変化してしまった原因はこのあたりにあると思われる。
そこで私は考えた、素風の衰えを憂慮し「士」を本来の姿に戻すためには、財政の窮乏を救へば良いのではないか?
家康公が幕府を起こしてからは封建制度は盛んとなり、それが我が国の基本法となった。藩それぞれには大小があり、それぞれいろいろな特色があり同じではないが、各藩はそれぞれ分相応の制度を定め藩を運営したので藩の金庫が空になり公費が不足することなどあり得なかった。そもそも幕府創設初期には兵役や築城、戦など出費は今の比ではなかった。しかし、各藩ともに資金は足りており、今のように借財で財政を補う様な悪しき習慣があったなど聞いたこともない。
幕府創設より僅か200年、その間基本的な藩収入が昔より減ったわけでもなく、参勤交代などの行事が昔より増えたわけでもなく、家臣達への給与が昔より非常に多くなった訳でもない。関ヶ原の時のような戦争も一度もない。それなのにである昔は足りていた藩費が今は足りていないというのはどういう事であろうか!その原因はどこにあるのか!
結論から申し上げると、賄賂が公然と行われていることと役人の身分に過ぎた奢りが盛んになったことの2つ以外にない。この2つは泰平が続いた後に必ず残る弊害であり、平和のうちに醸成され、必ず国家を乱し衰退をもたらすものである。これらは今後に及ぼす影響も深刻である。またこれらは昔から何度も繰り返されてきた事実で、この2つの弊害を取り除かなければ財政を救うこともできないし、士風を喚起することもでず国家の衰えを止めることもできない。
では、いかにすればこれをあらためることができるのか?方策は一つしかない。賢明な君主と政治を預かる重臣とが心を一つにして、深刻に反省し事態を正確に把握した上で一つ一つ確実に改めて行く事である。そうすることで初めてたまりにたまった悪弊と汚れを一掃できるのである。
だいたいの要旨は以上であり、これ以上くどくどという必要もないが、大まかな要点を上げる。
賢明な君主が事の大綱を把握し、私利私欲を押さえることで初めて家臣らの度を過ぎた贅沢を押さえることができる。重臣は心が清く私欲がなく、正しい行いをする。自宅などの密室での密議は行わず、これで初めて天下に横行する賄賂を禁止することができる。
明主と重臣は天下善悪の根本であり、すべての人民は明主と重臣を見る事でそれに従う。上に言う2つの弊害が古くからあり、深まっていたとしても、明主と重臣の行いにより一朝にしてあらためることができるのである。
明主と重臣は身を潔白に保ち正しい行いをし、弊害に真心を持って取り組み、万民の上に立って努めれば繁栄を手にすることは歴史の上からも間違いない。今の現状は憂うことではない、今こそが天下万民が幸せになるスタート地点なのだ。
さて、私の様な財政を語る身分にない者が政治を論じ厳しい意見を言う結果となってしまった。本来ここまで言うつもりはなくそのような意図もなかったが、我が名君の「徳」に感動し、黙っていることができずについ書いてしまった。このようなズケズケとした直言は死罪にも値する事で、これがすべて取り上げられるとは思っておりませぬ。しかし、周易の「一治一乱、泰否相変」の原理は天地自然の常道であり、過去の聖人達の言葉である。
英知に優れ時事に通じておられる名君であれば今の事態をゆゆしきことと感じておられるはず、愚かな私も常に心に掛けており、現在の治乱盛衰の原理を語ってみた。
家臣のいさめの言葉を真摯に受け止め、進言の士を進んで徒用し、天下の知恵を取り入れて政治を行われるのであれば、耳の痛い言葉も日を追うごとに御前に並び、政治の掛けている部分、風習の悪所は日ごとに改められ補われる、そうなれば私の戯言などとるに足らぬものとなるでしょう。
これが実に今日の献言の本旨であります。
本文は滝澤敬司先生の読み下した「擬対策」を参考にさせて頂きました。
滝澤先生のホームページもあわせてこちらもご覧下さい

 

方谷の陽明学

 

方谷が江戸の佐藤一斎蟄で当時の俊英達と切礒琢磨していたころ、学友違が王陽明の学説に口を借りていたずらに雄弁をふるって人を圧倒するのが見られたが、しかし細かにその人物を観祭すると、高慢不遜で人間の道をわきまえた者が少ない。方谷はこれは陽明学の学び方が間違っているのであると言っている。

方谷は王陽明の学問は「誠意」を主とするという。その「誠意」の本体を知るには、「良知」を常に明らかにしておかなければならない。「良知」とは人間が生れながらにして固有しているところの是非善悪を判別する心を指す。

王陽明は人の心を明鏡にたとえることがよくあるが、明らかで曇りのない鏡面が万物を正しく写すように、人もこのような曇りのない鏡面を胸の内に特っているのであって、この心の鏡に曇りさえなければ、善いことは善いと判別し、悪いことは悪いと判別できる。このような心の状態に人の心を常に保たなけれぽならない、つまり「良知」を常に明らかにしておかなけれぱならない。

このような心の状態は、天理そのものと合致した心の境地である。人間は本来このように霊明ち心を固有している。問題はこの「良知」を会得する方法である。

王陽明はこのことについて、学問の肝要なことを述べ、学間の最も大切な点を明らかにして、それを示しているのであるが、世の陽明学を主唱する人は口で陽明学の学説を唱えをがら実践を忘れている。

方谷は「良知」によらなければ「誠意」の本体はわからず、一方「格物」によらなければ「誠意」の案践はできないとのべ、この「良知」と「格物」との二つが並び進んではじめて実際のものとなるとのべている。「格」とは「正しくする」という意味であり、「物」とは「物事」のことであって一つの事柄一つの行為が「物」である。それを正しくするのが「格物」ということである。

我々が仕事を行う上で心の鏡に曇りのないように実践し努力しなければならない。そのことを「格物」というのである。この「格物」という実践努力によって「誠意」が達成される。この「誠意」ということを学問の中心にすえるのが、方谷の主張するところであり、方谷の陽明学である。

参考資料
「山田方谷に学ぶ行政改革と人材育成」より引用

上杉鷹山との比較
上杉鷹山とは財政の破綻した米沢藩の大改革を成し遂げた人物として、現在でも高い知名度を誇る、ケネディ大統領が尊敬する日本人のひとりとして名前を挙げた事でも有名だ

 

上杉鷹山との比較

上杉鷹山とは財政の破綻した米沢藩の大改革を成し遂げた人物として、現在でも高い知名度を誇る、ケネディ大統領が尊敬する日本人のひとりとして名前を挙げた事でも有名だ。
藩政改革を成し遂げた人物としてたびたび方谷と比較されるが、ここでもお約束通り比較してみよう。

鷹山の藩政改革

当時(1700年代後半)米沢藩一五万石は約二〇万両の負債を抱えていた、そんな大借金藩に高鍋藩三万石から養子として迎えられたのが鷹山だった。

鷹山は藩士や百姓にまで藩の実状を広く伝え、改革の協力要請をもとめた。
激しい節約令を敷き、農商業の改革として新しい農産物の開発、米沢織の開発などに努めた。
しかし、遅々として進まない改革と厳しい倹約令は藩士藩民はもとより、鷹山自身の精神力をもすり減らしてゆく。
そんな中、歴史に残るクーデターである「七家騒動」が起きる。鷹山はこの騒動の主犯格である二人を切腹、五人を隠居閉門の上、禄高半減という厳しい処分を言い渡す。それまで婿養子と鷹山をなめていた藩士達もこの事件により戦慄を覚えることとなった。

しかしまた事件は起こる、鷹山の腹心中の腹心「竹俣当綱」が確信犯とも思えるらんちき騒ぎを起こし座敷牢入りとなる。
天明3年、世に言う「天明の大飢饉」が発生、改革中の米沢藩もまた例外なく6年にかけて大凶作が続いた、ひとりとして餓死者を出すまいとする上杉鷹山は親戚関係にある尾張藩から3千俵の米を借用するなどの対策をほどこすが、それでも藩全体で約2%の餓死や離散者がでたという。(全国平均の餓死者&離散者は平均で藩の5%前後だったというから上杉鷹山の努力が現れている。)

鷹山は身も心もぼろぼろに疲れ果てたのだろう、天明5年(1785年)、鷹山35歳の時、改革半ばにして彼は後身の上杉治広に藩主の座を譲り隠居の身となる。
新藩主治広もまた、米沢藩の藩政改革に邁進するが改革はいっこうにすすまない、半紙の少ない給料はさらに減らされ、債権者は借金を踏み倒される、「もうどうにもならない」という絶望的な人々の思いはもはや改革派も保守派もなく、鷹山の再登板への望みとなっていった。

天明8年、鷹山は藩主治広の後見人として藩政の舞台に帰ってきた、再び改革の旗手となるや竹俣当綱の直系である莅戸九郎兵衛を実務面のリーダーに据え早速債権者との交渉が始まった。

莅戸九郎兵衛は債権者に対し、「無利息50年月賦にて返済する、借りたものは必ず返す、信じてくれなければここで腹を切る」と迫った、何とか返してもらいたい豪商達も渋々この提案をのんだという。

何とか借金の月賦返済を豪商谷に認めさせた莅戸九郎兵衛は藩の借金をすべて返済し、蓄財をするための16年計画を発足、厳しい倹約と竹俣当綱が体を張って作った先行投資である新規産業が芽を出してくる。

その後、天保の大飢饉が米沢藩を襲うが、このときは正真正銘ひとりの餓死者も出すことなく、この飢饉を乗り切った。
文政5年(1822年)鷹山は72歳にして死去、藩政改革半ばでの老死だった。この時点では米沢藩の借金はまだまだ残っていた。米沢藩がすべての借金を返済し終え、5千両の蓄財を果たしたのは1867年、大政奉還の年だった。

 

方谷と佐久間象山

佐久間象山は松代藩の朱子学者で方谷が江戸遊学中、佐藤一斎塾でともに学んだ。学友である。

方谷は天保四年、幕府の学会の巨頭である佐藤一斎の塾「佐藤一斎塾」に入門する。佐藤一斎塾には全国から蒼々たる面々が入門しているが、方谷入門の二ヶ月前に入門したのが松代藩の佐久間象山だった。

松代藩では神童の名を欲しいままにしてきた象山だが、後から入門した方谷が瞬く間に斉藤一斎塾の塾長に上り詰めたことがおもしろくなかったらしく、塾生時代、連日のように方谷に論戦を挑んだという。

『炎の陽明学-山田方谷伝-』によると、「議論を仕掛けたのは象山であり、受けて立つのが方谷だった。しかし、方谷の反撃の凄味は象山の予想を遙かに超えていた。いつの間にか攻守が逆転しており、かつて退くことを知らなかった象山は何度ものけぞって、必至にふみこたえる野が精一杯となる」と、どうやら方谷の方が一歩上手を行っていたようだ。

 

山田家の家訓

方谷の父五郎吉は「山田家再興」という至上命題のため、非常に厳しい家訓を掲げ、家族に従わせた。この家訓には幼い方谷の人格形成にも非常に大きな影響を与えたと思われる。

その内容は、一見すると「ケチ」そのものともいえるが、よく読んでみると、自分に厳しく周りには優しくという慈愛に満ちたものであることが分かる。

 

方谷の父は五郎吉、母は梶といった。山田家の家系は元々は武士であったが今は落ちぶれて百姓となっていた、そのため方谷に徹底的に厳しい教育をしお家の再興を掛けた。
母梶もまた超のつく教育ママで4才の方谷に書を教えた。
山田家の家訓は非常に厳しいものだったが、その内容をよく見ると自分には厳しく、他人には優しくと言う情愛に満ちたものであり、後の方谷の考えの基礎になったと思われる。

一.献上米二合を毎日なすべきこと。
一.ご神仏お初穂はこれまでどおりなすべきこと。
一.衣類は木綿に限るべきこと。
一.三度の食事は、一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯。もっとも母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約すること。
一.酒のたしなみは無用のこと。
一.客の饗応は一汁一菜かぎり。
一.労働は朝七つ(午前四時)より、夜は九つ(+二時)まで。召使いの人は世間なみ。
一.履物は、わらぞうり、引下駄、わら緒にかぎること。
一.からゆ、さかやきは月に三度。びんつけは倹約に致すべし。高銀の櫛、算は無用。
一.もろもろの勝負ごとはかたく無用。
一.芝居その他の見物ごとはかたく無用。
一.遊芸はいっさい無用。

 

江戸時代の代表的な財政改革の比較

江戸時代の代表的な藩政改革成功事例の比較をしています。

信州松代藩 恩田木工(おんだもく)

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恩田民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) – 宝暦12年1月6日(1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老。通称・恩田木工(おんだ もく、杢とも記される)として知られる。

経歴

松代藩家老として1千石を知行する恩田民清の長男として、松代(現・長野県長野市松代町)に生まれる。幼名は佐吉。
享保20年(1735年)家督を相続。延享3年(1746年)家老となる。

松代藩の財政は3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続した頃にはかなりの財政難に陥っていた。寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害に見舞われ、復旧のため幕府より1万両の借財を受けた。そこで、5代藩主真田信安は小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し藩政改革に当たらせた。原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。

宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。

原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領するなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したのだが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。

宝暦2年(1752年)信安の死により藩主となった真田幸弘により、宝暦7年(1757年)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任された。藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたに過ぎない。しかし、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。また、宝暦8年(1758年)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励した。政策自体は平凡なものであり、逼迫した藩財政自体は到底改善しなかった。しかし、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。
宝暦12年(1762年)正月、病を得て死去。享年46。彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部左衛門により受け継がれた。

後世の松代藩士馬場正方により書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止したなどと民親の仁政を讃えた著書である。しかし、半知借上は民親の時代はもちろん後世まで続いており、この著書の内容には事実もあろうが脚色も多い。だが、この様な著書が出版されたこと自体、民親が少なからず善政を行った証と言えよう。

参考文献
日暮硯(岩波文庫)
真田騒動-恩田木工(池波正太郎:著 新潮文庫)
誠心の指導者 恩田木工(川村真二:著 PHP研究所)
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E7%94%B0%E6%B0%91%E8%A6%AA” より作成

藩政改革に要した期間
1757~1762(5年間)
改革の内容
借金22万7500両。豪商八田嘉助分借金12万6800両他の踏み倒し

米沢藩 上杉鷹山(うえすぎようざん)

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、 宝暦元年7月20日(1751年9月9日) – 文政5年3月11日(1822年4月2日))は江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。位階は従四位下、官職は弾正大弼・侍従。

領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)であるが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名である。

経歴

日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。 母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であったことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する。1768年(明和4年)に米沢藩を継ぐ。

民政家で、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

1785年(天明5年)に家督を前藩主・重定の実子である治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。1822年に死去、享年71。法名:元徳院殿聖翁文心大居士  墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。

官職位階履歴
1766年(明和3) 従四位下弾正大弼
1767年(明和4) 家督相続。ついで、侍従兼任
1785年(天明5) 隠居。越前守に遷任。侍従如元。
伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。
内容は下記の通り。
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
人物について
正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで治憲より10才年上の側室お豊の方を迎えた。
ウィキクォートに上杉鷹山に関する引用句集があります。有名な「為せば成る」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。
また、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げている(その問いをケネディやクリントンに発した記者は、上杉鷹山の名前を知らなかったとの逸話も残されている)。
改革について
鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダとして、産業振興に重きを置いた前期の改革と 前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。

藩政改革に要した期間
1767~1822(56年間)
改革の内容
借金20万両の返済(返済完了1867年)

薩摩藩 調所広郷(ずしょひろさと)

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調所 広郷(ずしょ ひろさと、1776年3月24日(安永5年2月5日) - 1849年1月12日(嘉永元年12月18日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。名は広郷のほか清八、友治、笑悦、笑左衛門。

生涯

下級武士川崎兼孝の息子として生まれ、1788年に調所清悦の養子となる。茶坊主として、出仕て、98年に江戸へ出府し、隠居していた薩摩藩主の島津重豪にその才能を見出されて登用される。薩摩藩主島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任、藩が琉球や中国と行っていた密貿易にも携わる。1833年には家老に出世し、藩の財政改革に取り組んだ。

当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は、行政改革、農政改革をはじめ、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い、だが、実際には1872年の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。そして、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、1840年には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えができるほどにまで財政が回復した。

やがて藩主・斉興の後継者を巡る長男の島津斉彬と三男の島津久光による争いがお家騒動(のちにお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になることで、再び財政が悪化することを懸念してのことであると言われている。

斉彬は幕府老中の阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。1848年、調所が江戸城に出仕した際に密貿易の証拠を突きつけられる。同年12月、江戸桜田の薩摩藩邸にて自殺、享年73。責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとしたためであるとも言われる。死因は自害、服毒とも。

死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。 墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。
調所広郷の直系子孫は、現在、東京に移住した調所広光(故)の息子、調所広之と広之の息子、宏繁(長男)と宏謙(次男)。

評価

広郷は、現代では薩摩藩の財政を再建させたことは評価されている。しかし、砂糖の専売では百姓から砂糖を安く買い上げたうえに税を厳しく取り立てているうえ、借金の返済でも証文を燃やしたり商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて、その評価は清風と同じく財政を再建させたとはいえ、その一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。しかし、彼の財政改革が後の斉彬や西郷隆盛(吉之助)らの幕末における行動の基礎を作り出したのも事実で、彼を悪人と評すか功労者と評すかは意見が分かれるところもある。
鹿児島県鹿児島市には、広郷の銅像がある。

“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7” より作成
1776年生 | 1849年没

藩政改革に要した期間
1827~1848(22年間)
改革の内容
借金500万両の250年腑償還

豊後日出藩 帆足万里(ほあしばんり)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%B6%B3%E4%B8%87%E9%87%8C

帆足万里(ほあしばんり、安永7年1月15日(1778年2月11日) - 嘉永5年6月14日(1852年7月30日))は、江戸時代後期の儒学者。父は豊後国日出藩家老の帆足通文。字は鵬卿。号は愚亭など。

1791年(寛政3年)万里が14歳の時、脇愚山に学び、大阪の中井竹山・京都の皆川淇園にも学んぶ。その後日出藩の藩校の教授となり、1832年(天保3年)日出藩家老となり財政改革に行った。致仕した後、私塾西?精舎(せいえんせいしゃ)を開いて子弟の教育にあたっている。一方で、自然哲学者三浦梅園の影響により窮理学に関心を持ち、40歳頃からオランダ語を修得して、ヨーロッパの自然科学を学んだ。

万里の著書「窮理通(きゅうりつう)」は日本における自然科学史に画期的な文献である。その他著書として独自の経世論を著した「東潜夫論(とうせんぷろん)」がある。

三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。

藩政改革に要した期間
1832~1835(3年間)
改革の内容
短期間で米・大豆、金などの蓄財

備中松山藩 山田方谷(やまだほうこく)

藩政改革に要した期間
1850~1857(8年間)
改革の内容
借金10万両の返済。10万両の蓄財