方谷先生の残した名言集です。現在追加中

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「名利ノ為ニスル私念ニ出ズレバ、縦令(たとえ)驚天動地ノ功業アルトモ、一己ノ私ヲ為スニ過ギズ」

明治維新後、備中松山藩も高梁藩と名を変えて再興に成功、すべてが終わり落ち着いたとき、一番弟子「三島中洲に政府より出仕するよう声がかかった。三島は方谷にこれを相談したところ、方谷は出仕に賛成した後、下の書簡をよせた。

創業ノ守成卜相待テ其業ヲ成スヤ、春耕ノ秋穫ト相待テ其ノ稼ヲ成スニ異ナラズ…

(神戸一郎にいったことば新しいことをやって、それが成功し、それがよくなっても、民に行き渡るのはべつのことだ)

-友に求めて足らざれば天下に求む。 天下に求めて足らざれば古人に求めよ。-

方谷の元に修行に来ていた河井継之助に方谷が継之助に贈った言葉のひとつ。

天下ノコト、敦レカ不滞二成リテ、滞二敗レザルモノアランヤ.

(滞ることなく、少しでも「する」ことが大切なことだ)

驚天動地の功業モ至誠側但.国家ノ為ニスル公念ヨリ出デズバー己ノ私ヲ為久二過ギズ.

(どんなすばらしい改革も、私のためにやったのではうまくはいかない)

雑感

百姓達を撫育(ぶいく)する術をあやまったのは誰だ、
百姓一揆の徒党はもともと善良な民。
簑(みの)のよろいでわずかに体をまとい、
握った竹槍は人を刺すのが目的にあらず。
泣く子を黙らせるには乳を含ませたらいい、
湯が沸騰してこぼれたら、薪をとりのぞけばいい。
もし一揆の首謀者の罪をせめるというなら、
一揆にまで追いこんだ役人、おまえ達がまっ先に省(かえり)みよ。

備中松山城無血開城後、岡山藩の統治時期に松山藩藩内で百姓一揆が多発した。
その時方谷が読んだ詩が「雑感」である。

法ヲ革ムルノ難キニ非ズ.法ヲ行フコト之レ難シ、法ヲ行ウテ人ヲシテ其法二安ンゼシムルコト最モ難シ.

(安政3年、川田に改革後いった言葉システムを変えることは簡単なこと、決めたことを行い、それが自然になるまでが大変なことなのだ)

財ヲ用ル兵ヲ用ル、其道一ナリ.兵多キモノハ分テ数処二備へ、兵少キモノハ合セテー手二囲ム.…一

(戦争をするのも、金を使うのも同じことだ、少ないときは一点集中、これが戦略としてはよい)

世二小人無シ。一切衆生皆愛スベシー

百姓一揆ハ天ノ戒メ.

刑ハ無刑ヲ期ス.

(刑罰という物は、本来のの効力があるのならば犯罪はないはずだ)

人多クハ自己ノ功ヲ貧1人躬ラ其局二当ラントス.是レ誤マレリ.

十ヶ条アレバ段々易より始、追々可致事

河井継之助が塵壺の中で林富太郎が聞いた山田先生の言葉として紹介された言葉。
「10個やらなくてはならないことがあれば、その中のもっともやり易いことからはじめ、だんだんと進めればよい、すべての物事はこのように進める物である。」