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松山城TOP
航空地図歴史と概要||本丸内部本丸周辺の風景二重櫓道のり土塀・足軽箱番所追手門跡
本丸周辺の風景

 市街地北端の臥牛山に築かれた山城で、現存する山城としては,、最も高い標高430mの所にある。天守、二重櫓、土塀の一部は天和3年(1683)に修復された当時の姿で現存しており、中世の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。平成9年には本丸の南御門・東御門などが復元された。


本丸南御門(復元)
木造本瓦葺き、棟門、開き戸、復元された五の平櫓と六の平櫓の間にあり、本丸の正面玄関に当たる。大手門に継いで格式が高かったといわれる。

本丸東御門(復元)
木造本瓦葺き、棟門、引き戸、天守の東脇にあり、本丸の勝手口に当たる。
本丸な内で唯一の引き戸で、常時、本丸内に人がいなかったことが伺える。


路地門(復元)
木造埋門(うずめもん)、方引き戸。六の平櫓の脇から場外に抜ける虎口で、土塀に塗り込まれた小規模な門。

腕木御門(復元)
木造本瓦葺き、棟門、開き戸。二重櫓の正面脇にあり、本丸の裏門に当たる。降りてゆけば搦手門の前に出る。
天守閣・五の平櫓・六の平櫓の風景
松山城の定番ショットです。
昭和4年(1915)の秋、歌人
与謝野寛(1873.1935)・晶子(1878.1942)夫妻が高梁を訪れています。油屋旅館(本町)を宿に、備北路の紅葉をめぐる6日間の旅でした。
夫妻は10月下旬に来高。2日目には早朝から臥牛山に登り、荒れ放題だった備中松山城で次の歌を詠んでいます。

松山の渓を理むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる(寛)

瀬戸の海伯耆に霧の分れ去りあらはになりぬ傷ましき城(晶子)

3日目は山田方谷の墓参りや満奇洞(新見市)などに足を伸ばし、4日目には高梁で寺まわりの後、午後は順正高等女学校で講演を行っています。
また、4泊した油屋旅館には、当時部屋の下を流れていた高梁川や対岸の方谷林の風情を短冊や掛軸に残しています。

油屋の宵の障子をなほ鎖さず月はなけれど川霧をめず

たそがるる方谷林よ河原なる草の紅葉はくさむらにして(晶子) (広報高梁より転記)
与謝野寛の歌碑
備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代(1240年)に有漢郷の地頭に任ぜられた秋葉三郎重信により大松山に砦が築かれたことに始まります。

なかでも天正二年(1574年)に起こった「備中兵乱」時は「砦ニ十一丸」と呼ばれた出丸が築かれて いたことが記録として残っています。

三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の 拠点として、また、毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。
撮影に行った日は非常に天気のいい日でした。
上の写真は壁紙としてダウンロード出来ます。
日本の山城で現存しているのは備中松山城だけなのは何故?

明治時代になり新政府の廃城令で旧備中松山藩の山城、御根小屋、各番所のすべては取り壊されることになりました。

当時、これらの物件は競売にかけられましたが、とてつもなく大きな物件のためなかなか買い手がつきませんでした。

遂に5回目の競売で、ある呉服商が当時のカネ7円で落札しました。

これにより平地にある御根小屋等は直ちに取り壊されましたが、山頂にある松山城の取り壊しには大変な経費がかかり採算がとれない、やむなく政府には取り壊したと報告し、そのまま放置されました。

それから四半世紀、明治政府の政策から難を逃れた松山城は解体修復され現在の姿となりました。
日本で最も高い場所にある山城で知られる。現在の天守閣は時の城主水谷勝宗が臥牛山、小松山に修復したもので国の重要文化財に指定されている。
備中の国を舞台とした「備中兵乱」の舞台にもなった。



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