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お城までの道のり

松山城はどうして山の上に立っているの?



戦国期までの城は、山頂に防禦の場所としての削平地を作り、その集まりによって城域を形成していました。このころの城は、戦時の時のみそこに立てこもり、平時には麓の居館(御根小屋)を拠点とする根小屋式城郭が主流でした。

その後の織豊時代には城は支配の象徴的な意味合いが強くなりました、ところが備中松山城の場合、近世を通して根小屋式城郭が残るめずらしい城です。

これは盆地で平地面積が少ないという高梁の地理的条件が深く関わっているようです。
八合目に当たるふいご峠駐車場内には
清水比庵の歌碑があります。
備中松山城登山道の途中に、大石内蔵助の腰掛け石があります。

高梁の基礎をつくった水谷三代の三代目、勝美が元禄六(1693)年、31歳の若さで急死、継子も13歳で亡くなったため、幕府は水谷家を断絶、所領没収となりました。

徳川幕府の時代、お家断絶となれば城も領地も明け壊さなければならず、これを不満とする旧藩士たちが討ち死に覚悟でろう城という事態も考えられ、幕府の命で城を受け取る役割は大変なことでした。

このため、備中松山城の城受け取りの役を徳川幕府より命じられたのが赤穂藩、浅野家で、このとき赤穂の先鋒として備中松山藩に乗り込んだのが大石内蔵助でした。記録によると赤穂藩は”大変な数”で松山城下に乗り込んだといいます。

臥牛山にのこる大石の腰掛け石は城受け後、毎日のように松山城にのぼっていたと言う内蔵助が、ここでよく休んでいたという伝えを今に残しています。

7年後、長矩は江戸城内で吉良上野介に斬りつけ、お家断絶、所領没収という同じ悲運をたどるわけですが、吉良邸に討ち入り、亡君の仇を討った家老、大石内蔵助良雄が長矩に従って松山城の収城をとり 仕切ったというのは、皮肉な歴史のめぐり合わせといえます。

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