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備中松山城の歴史と概要


臥牛山

高梁は備中国のほぼ中央に位置し、しかも、この国を南北につらぬく高梁川の中流ようしようにあり、水陸交通の要衝である。そして、山陽と山陰ににらみを利かせる重要な戦略し上の位置を占めており、高梁を支配することは備中国を治めるのに重要な意味をもった。このため、早くから高梁の臥牛山に城が築かれたのである。ろうぎゆう臥牛山は、老牛が腹ばいになり、草をかんでいる姿に似ているところから名付けらろうぎゆうふくそうざんさいこうほうてんじんまるれたと言われ、「老牛伏草山」とも呼ばれていた。

最高峰の天神の丸の標高は四七八・やまはだ三メートルで、この地方では第一級の山である。しかも、山肌が急で、山城を築くのに適していた。しもたいこまるみね臥牛山は、北から大松山・天神の丸・小松山・前山(下太鼓丸)と四つの峰からなっている。現在、一般に備中松山城と呼ばれているのは、臥牛山のうち小松山(標高てんしゆかく四三〇メートル)を中心に築かれている近世の城を指している。天守閣のある城としては標高四三〇メートルというわが国で最も高い場所にある城であり、全国にその名を知られている。

中世の松山城

臥牛山に初めて城を築いたのは、一二四〇(延応二)年、相模(さがみ)(神奈川県)の豪族(ごうぞく)だった秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)と言われている。秋庭氏は承久の乱で鎌倉幕府方として戦い、その功で有漢郷(うかんごう)の地頭となった人物であり、この時の山城は簡単な砦であったとされている。

秋庭氏五代の後、元弘年間(二一三二〜三四年)には、高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうさえもんむねやす)が備中の守護となって城をひろげ、高橋氏三代のあとは秋庭氏七代、上野氏三代、庄氏三代と栄枯盛衰を重ねたと伝えられている。一五六〇(永禄三)年、成羽の城主三村家親が毛利氏の援軍を得て庄氏をくだし備中松山城主となったが、この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになった。備中兵乱によって三村氏は滅(ほろ)ぶが、この時の松山城は、本丸は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ三本松・天神の丸・相畑・左内丸・馬酔木丸などの砦二一丸が築かれており、臥牛山全体が難攻不落の城塞となっていた。

備中松山城は重要な戦略上の拠点であったばかりに、中世には絶えず血生臭い争奪がくり返されたのである。三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の備中支配の拠点となった。織田信長の支援を得た山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が尼子勝久を立てて播磨の上月城(兵庫県)で兵を挙げ、これを討つため毛利氏が出兵したが、この時、毛利輝元は松山城に陣所を置いている。毛利氏に降伏した山中鹿之助が無念の最期をとげたのは、松山城へ護送される途中の阿部の渡しであった。

山中鹿之助

山中鹿之助は幼名を甚次郎(じんじろう)といい、母から尼子氏の再興を図れとさとされ、鹿の角と三日月のついた先祖伝来の冑を授けられた。そして、鹿之助と改名し、「願はくは、我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという。出雲(いずも)の富田城(島根県)で戦い、数々のてがらを立てて勇名は味方だけでなく敵方にも知れ渡った。

しかし、長い籠城の末、食糧もなくなって毛利方に降った。その後一も初志を貫いて苦節1数年、一五七八(天正六)年、織田信長の支援を得て尼子勝久を立てて毛利の大軍と戦った。しかし、多勢に無勢の尼子氏はついに毛利氏に降伏し、主君尼子勝久は自刃した。鹿之助は七難八苦はもとより望むところと、主君に主家再興の志を告げ許しを請うてわざと捕われの身となった。そして、毛利方の支配する松山城へ護送される途中、阿部の渡しで討たれ、遺体は観泉寺(かんせんじ)の住職が葬り、中洲に榎を植えてその下に五輪の塔を建てたといわれる。この五輪塔は洪水で流され、その後松山藩士前田市之進が現在地に碑を建てたと伝えられている。


江戸時代の松山城

毛利氏は関ケ原の戦ののちに備中から後退し、備中国奉行小堀遠州(くにぶぎようこぼりえんしゆう)が松山城を守った。一六一七(元和三)年には池田長幸(いけだながゆき)が六万五千石で松山藩をたてたが、その子長つねみずのやかつたか常に子どもがなく、一六四一(寛永一八)年には絶えてしまった。

翌年には水谷勝隆が五万石を与えられ成羽から入城した。水谷勝隆の子勝宗(かつむね)の代になって、幕府のゆるしを得て松山城の大修築(だいしゆうちく)が行われた。これによって、現存する二重櫓をはじめ、大手門(おおてもん)、二の平櫓、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所)、足軽番所などが新たに建てられ、松山城が完成した。

しかし、水谷氏も三代で子どもがなかったために、一六九四(元禄七)年家が絶え領地は取り上げられた。その後の松山城には安藤重博(六万五千石)、同信友、ついで一七一一(正徳元)年から石川総慶(六万石)が入城した。最後の松山城主は、石川氏にかわって伊勢の亀山(三重県)から移って五万石を領した板倉氏であった。板倉氏は、一七四四年、旧防守勝直が入城してから明治にいたるまで七代一二五年間続いたが、とくに、七代目勝静は江戸幕府の老中という重い役について将軍徳川慶喜を助けて国の政治にたずさわった。


国指定重要文化財備中松山城

天守閣は、松山城では三重櫓と呼ばれ、外観は三重であるが、実際は二階建てである。初屑には囲炉裡があり、装束の間という城主だけが入る一段高い別(あこ)れ棟(むし)の剖屋がある。二屑目の正面には御社檀(ごしやだん)を設けて宝(ほう)剣を御神体(ごしんたい)として祭っていた。全体に窓は大きくて数も多く、城内は明るい。天守の裏の二重櫓は、天守とともに本丸を構成(こうせい)する重要な建物である。十塀(どべい)は、土を練ってレンガ状にし、それを積み重ね、白壁(しらかべ)で仕上げたものである。矩形(くけい)の穴を矢狭間(やざま)(弓欠を射る)、円形のものを筒狭間(鉄砲をうつ)という。


御根小屋

御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、その麓に発達した集落を指し、武士はふだんはここに居住し、戦時には山城にこもった。江戸時代の松山藩では、「城」といえば藩王の館であり政務が行われた御根小屋を指し、登城するといえば御根小屋へ出仕することであった。小松山の城は「山城」と呼ばれていたのである。藩主が板倉氏の時代、ふだんは山城には山城番数人が城内三の丸の足軽番所に常駐し、城内の警備と施設の管理に当たっていた。現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、県の史跡に指定されている。石垣、庭園等に当時のおもかげをしのぶことが出来る。

松山城の保存

明治の廃城令以後、松山城は荒れるにまかせていたので、城地や建物は朽ちて倒れ、かろうじて天守閣と二重櫓が雑木や草におおわれながらも残っているという、いたましい姿になっていた。一九二九(昭和四)年、由緒ある山城の面影を残そうとする松山城保存会の人たちが復旧(ふつきゆう)に立ち上がり、一九三九(昭和一四)年には当時の高梁町が町議会に図り、天守閣の解体修理(かいたいしゆうり)、二重櫓と土塀の補修に着手、町内会や中学生たちの勤労奉仕もあって、一九四〇(昭和一五)年復元、修理が終わった。そして、翌年には、近世式城郭のなかでもその構成に中世式の名残りを多くとどめている典型的な山城として「国宝」に指定されたが、一九五〇(昭和二五)年の文化財保護法の制定にともない、新たに国の重要文化財として指定された。

<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>


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