▲トップページへ  ▲市内散策コーナートップへ
松山城TOP
航空地図歴史と概要||本丸内部本丸周辺の風景二重櫓道のり土塀・足軽箱番所追手門跡
追手門跡

高梁市のシンボルである国指定重要文化財の備中松山城。標高およそ四百三十メートルの臥牛山の小松山の峰に築かれたこの城は、日本で最も高いところに現存する山城として有名です。高梁は備中国のほぼ中央、高梁川中流に位置し、山陽と山陰の中間にある水陸交通の要衝です。そのため、高梁を支配することは備中国を治めるのに重要な意味を持ち、早くから臥牛山に城が築かれました。

延応二年(一二四〇)、有漢郷の地頭(現上房郡有漢町)秋庭三郎重信が初めてこの地に城を築いたと言われています。当時の山城は簡単な砦であったとされています。この後、次々と城主が変わりました。永禄三年(一五六〇)には、三村家親が城主となりました。この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、備中松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになったのです。

備中兵乱によって三村氏は滅びましたが、この時の備中松山城は臥牛山のあちらこちらに二十一の砦を築き、山全体が難攻不落の城塞となっていました。三村氏が滅亡した後の備中松山城には、毛利氏、小堀氏、池田氏などに続き、寛永十九年(一六四二)には水谷勝隆が五万石を与えられて成羽から入封しました。

その子勝宗の代には、幕府の許しを得て備中松山城の大修復を行いました。そして安藤氏、石川氏などが城を治め、最後の城主として板倉氏が入封。板倉氏は延享元年(一七四四)に勝澄の入封以来、明治に至るまで七代、百二十五年続きましたが、特に七代目勝静は江戸幕府の老中首座として将軍徳川慶喜を助けて国の政治に携わりました。 (高梁市市勢要覧)


備中松山城の城主は、普段は山のふもとに設けられた御根小屋で暮らし、家臣たちもここへ出仕していました。当時、「御城」と言えば御根小屋のことで、備中松山城は「御山城」と呼ばれていました。現在、御根小屋跡には県立高梁高等学校があり、県の史跡に指定されています。明治の廃城令以後、荒れ放題だった備中松山城には、かろうじて天守と二重櫓が残っているだけでした。

昭和十四、十五年に天守の解体修理を行い、さらに平成六年からは本丸跡の本格的な復元工事に取り組み、五の平櫓、六の平櫓、土塀、南御門などが復元され、現在の城がよみがえったのです。何層にも重なりあう石垣、天守や土塀の白と黒のコントラスト。

備中松山城は、そんな美しさのなかにも、天守内の囲炉裏や登頂を防ぐための石落としなど、戦う要塞としての工夫や特徴が随所に垣間見られます。ここには幾多の戦乱の歴史が秘められているのです。
(高梁市市勢要覧)





臥牛山を天守に向けて歩いていると突如現れる巨大な石垣は難攻不落の武装山城だった備中松山城の当時の姿を思い起こさせます。






松山城TOP
航空地図歴史と概要||本丸内部本丸周辺の風景二重櫓道のり土塀・足軽箱番所追手門跡




  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所