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山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る
大政奉還文の秘密】

一方、藩政の改革の成功は江戸城中における藩主勝静の評価を高めることになった。実質二十万石。勝静は幕府の寺社奉行から、さらには老中にのぼりつめる。だが、そこに晴れがましい栄誉とは逆の悲劇があった。勝静は徳川十四代将軍家茂と最後の十五代将軍慶喜の老中を二度にわたって務めた。だが、江戸に呼び出され、老中板倉勝静の政治顧問となった方谷には、「江戸幕府は瓦解する」との暗い予感があった。歴史の宝庫ともいえる儒教には中国の興亡の歴史が記されており、そこから国家のライフサイクルが見えてくる。

儒学から学んだ歴史観と、方谷の鋭い先見の洞察力が、武家社会のライフサイクルの終焉を見抜いた。山田方谷が歯に衣を着せず、徳川幕府崩壊の予言を公開したのは安政二(一八五五)年のことである。長州や薩摩の志士たちが、まだ倒幕を口にする以前だった。「前途は滅亡しかない」そう悟った方谷は、藩主勝静に幕閣の地位をただちに捨てるよう進言する。しかし、藩主は、「徳川氏とともに倒れん」との激した手紙を、国元の方谷に送った。

「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を、徳川慶喜が天皇に差し出したのは慶応三年十月十四日だった。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させた、と伝わっている。だが、どうやら真相は違うようだ。矢吹家には、方谷から送られた「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存している。内容はもちろん、字句も上奏文とほとんど変わっていない。そこで、以下の推理が成り立つ。上奏文の内容について、慶喜から首席老中の勝静にご下問があり、勝静からさらに方谷に相談がなされた。

十月十三日、方谷が作成した上奏文の下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど、一部をへりくだった表現に変えた。大政奉還上申書は翌日の十四日に京都朝廷に差し出されている。方谷から久次郎にあてた密書には、決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示である。だが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。私は考えた。

「方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではないか。だから『早々御火中』の指示をしなかったのではないだろうか」歴史の暗部をかいま見た思いがして、その夜、私は激しく興奮して明け方まで酒を飲み続けたが、どうしても眠れなかった記憶がある。



※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。



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