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山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る

山田方谷からの密書】

山田方谷とはいかなる人物であったのか。

結論から先に述べさせていただければ、「リストラの天才」であり、かのケインズにさきがけて"ケインズ革命"を成し遂げた幕末の陽明学者である。
徳川幕府が築いた封建社会のなかで、備中松山五万石を一夜にして企業立国に仕立てあげ、ひそかに士農工商の身分を否定して能力主義を採用した財政の革命家であったと同時に、一方で、「誠」を至上とする清例な求道者の生涯を貫いた煙(いぶ)し銀のごとき哲学者だった。江戸時代を通して、これほど見事なリストラクチャリング(事業の再構築)を完遂した改革者を、私は他に知らない。

方谷に比べれば、財政家としての上杉鷹山や将軍吉宗の改革など、その経済知識や発想、成果において、まさに大人と子供ほどの違いがあるのだ。越後長岡藩の破天荒な英雄・河井継之助が三十三歳のおり、はるばると備中松山藩(岡山県高梁市)を訪ね、一年ちかくも方谷の内弟子となって、土下座してまで生涯の師と仰いだのは、方谷が前人未到の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている陽明学者だったからである。

幕末三博士と称された塩谷宕陰(しおのやとういん)と安井息軒(そくけん)が「当代で最も優れた人物はだれか」を議論したとき、息軒は水戸の藤田東湖を推賞したが、宕陰は山田方谷を挙げ、「方谷は東湖に学問を加えた人物」と答えた。明治の偉大なジャーナリスト、三宅雪嶺が明治の架空の理想内閣を発表したことがあった。三宅は陸軍大臣の西郷隆盛、文部大臣の吉田松陰と並んで、大蔵大臣に山田方谷を擬したものだ。明治の雑誌『日本及日本人』は「山田は内務大臣の器なり。大蔵大臣または農商大臣または文部大臣と為るも可なり」と書いた。

だが、方谷の事蹟はいまや歴史の彼方に埋没してしまったようである。人々の多くは、聞きなれない方谷の名前に戸惑いを覚えるかもしれない。明治維新政府から参閣を熱望されながら、方谷がその栄光に背を向けて、残された生涯を郷学(郷土の学問)にかけたからである。勝者の歴史は山田方谷を忘れた。

私の四代前の矢吹久次郎は方谷の門下生の一人で、代々からの天領上市(岡山県新見市)の大庄屋だったが、中国地方の豪族たちをたばねる情報ネットワークの盟主であり、方谷の有力なスポンサーともなった人物である。方谷の一人娘小雪は久次郎の惣領息子発三郎に嫁いだ。方谷と久次郎との間に交わされた密書を含む手紙は三百通以上と推定され、うち百二十通が小雪の位牌とともに矢吹家に現存している。

石川県加賀市で内科医を開業していた父・久寿に、私は幼稚園の頃からそのおびただしい手紙を見せられたものだ。第二次世界大戦の敗戦で全財産を失った父にとって、残された唯一の誇りが「方谷さん」だった。幼い頃、落書き好きの私が貴重な手紙の裏にサムライの漫画を鉛筆で描いたりしてしまい、父をあわてさせたことがある。それがなぜか消されないで、いまも残っている。九年前、昭和天皇が崩御された翌日、父は他界したが、「この手紙をもとに本を書いて、方谷さんのことを世に伝えてくれ」というのが、生前からの私に対する"遺言"だった。幼い日の悪戯(いたずら)書きをあえて父が消そうとしなかったのは、ありし日の父から私へのメッセージではなかったか、とふと思うことがある。


※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは
矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。



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