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山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る
【富国強兵】

現代では、米沢藩の上杉鷹山が、その財政改革によって名君と評価されている。リストラの参考書としてしばしば登場する上杉鷹山は、方谷がまだ十八歳の若者だったとき、藩政改革半ばで他界した。米沢藩がすべての借財を返したうえ、五千両を備蓄できるのは半世紀後、慶応三年(一八六七)の大政奉還の年まで待たねばならない。

つまり、十万両を備蓄した方谷の備中松山藩の改革は、わずか八年間で、米沢藩の十年も前に完了しているのだ。米沢藩が世間を驚かせたのは、天保の大飢謹で一人の死者も出さなかったことだが、それは鷹山の死後のことである。一方、方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた二十年間、藩内では百姓一揆は一度も起きていないし、餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。

では、なぜ鷹山が江戸時代最大のリストラの天才として注目されたのだろうか。明治時代に内村鑑三がその著『日本及び日本人』で鷹山を取り上げ、その英語本を読んだアメリカの故ケネディ大統領が「私の尊敬する日本人」と鷹山を評価した。確かに鷹山は希代の名君である。冷や飯食いの傍流のなかから人材を登用し、破産同然の米沢藩の再建を任せた。人を活かすことで米沢藩を立ち直らせた名君にほかならない。大藩に婿入りした養子の悲哀に耐えながら自分の欠点や弱さを自ら意識し、逆にその欠点や弱さを強さに転化した人物である。だが、名君の呼び声はハロー効果を発揮して、いつの間にか鷹山を財政の達人、リストラの天才に仕立てあげてしまったように思える。

私が山田方谷こそ過去の日本人には存在しなかった理財の天才と確信するにいたったのは、貨幣制度や財政に関するその希有な造詣の深さだけでなく、豊かな知識を機に応じて大胆に、迅速に、実際の改革に応用することのできた実行者だったからである。方谷の業績はしかし、財政の立て直(ザ)しという理財の面だけにとどまらない。弘化四(一八四七)年、方谷は一番弟子の三島中洲を連れて岡山の津山藩に赴き、新しい洋式砲術を学んでいる。

大砲も自ら鋳造した。「これからの備中松山藩には軍制の改革と洋式砲術の導入が必要である」外に向かって広げた方谷の情報網が、警鐘を打ち鳴らしたのだ。「陽明学は机上の学問にあらず」藩の軍事面の最高司令官でもあった方谷は、藩の正兵の倍以上にのぼる農兵を組織し、西洋銃による徹底訓練を実施した。安政五(一八五八)年、この地に立ち寄った長州藩の久坂玄瑞(げんずい)がこの光景を見て、「わが長州はとてもかなわない」と脱帽した。三十六万石の長州藩が、五万石の備中松山藩に軍備の面で劣勢と認めた。

ちなみに、高杉晋作奇兵隊の創設は文久三(一八六三)年のことであるが、それには久坂から寄せられた目撃情報が大きなヒントになっている。しかし、同じ農民を中心に組織されながら、寄せ集めの奇兵隊とは違い、方谷の軍隊ははるか以前からフランス式に訓練を重ねた精鋭ぞろい。たぶん、備中松山藩の軍隊は史上最強だったはずだ。教育がこれまたすごい。庶民教育のあまりの高度さに、越後長岡の英雄河井継之助が日記「塵壷」のなかで絶句している。



※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。




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