平成23年5月15日(日)、高梁市文化交流館において山田方谷先生藩政改革160年記念フォーラムが行われました。
フォーラムの基調講演として前大分県臼杵市長 後藤国利氏のお話を伺いました。その内容がとても素晴らしいと思いましたので、関係各位の方々に許可をいただき下記基調講演を公開させていただきました。

非常に素晴らしい内容と思いますので、是非一読ください。

Contents

—–
山田方谷先生藩政改革160年記念フォーラム
市民の心づくりから始める これからの国づくり

はじめに豊後の国、大分県臼杵市からやってきた後藤國利と申します。山田方谷先生の藩政改革160周年という節目に発足するまちづくりフォーラムの基調講演を受け持つことになりましたが、責任の重さと方谷先生の強力巨大清冽な存在感の前に恐れおののいている次第です。失礼を顧みず、私の思いをお話しさせていただきます。

自己紹介

「こいつはいったい何者だ」とお考えの市民の方もおられると思います。私は大分県臼杵市からやってきました。ただいまの身分は「百年の森健全育成実践クラブ代表」です。
人工林の荒廃は国土の由々しき荒廃です。荒廃に至った悪しき行政指導に対抗して健全な森づくりに人生の最後の若さを注ぎこんでいます。ちなみに、1940年、昭和15年生まれ、71歳です。

若くして会社を経営し、セメント工場の建設に反対する住民運動をまとめたのが縁で、県会議員に引っ張り出されました。住民運動にはまり込んだのは29歳、県会議員になったのは35歳の時でした。20年間県会議員を居心地悪く務めて退任し、実業に戻っていましたが、臼杵市の財政悪化状態を見るに見かねて、衝動的に市長選に飛び出して市長を3期12年間務めました。

小泉首相が四面楚歌の中で改革が頓挫しそうな危機を迎えた時、全国の改革派の市長に呼び掛けて「改革の灯を消すな首長の会」を組織し応援団をかつてでました。2年前に市政改革を終えて、退任し、最後のご奉公として「健全な森づくり」の実践活動に励んでいます。健全と実践が大事なキーワードです。

森を育てさえすればよい、というのではなくどんな森でなければならないのかという本質的な目標を明らかにすることが大事です。さらに、実践しなければ意味がありません。真の実行力が関われます。

私が、この場にお招きに与ったのは小野晋也先生のおかげです。私は小野先生の考え方と行動力、バイタリティーに心服している一人です。小野先生こそ、私心のない最高の政治家であると思っていましたが、日本の政治の構造的なダメさ加減に見切りをつけて、事の外から国づくり、まちづくり、心づくりに取り組もうとされている姿に深い敬意を表する次第です。

■山田方谷先生が現在に再来されたとしたら

さて、本題に入りたいと思います。山田方谷先生は江戸時代から明治時代に入る時期に生まれた最高の傑作であり、その前にもその後にも先生のような方は出現されなかったと私は思います。みなさんはどのように考えられますか?

1. もし、方谷先生が現在、総理大臣あるいは財務大臣だったら、どのような経営をなさるだろうか

2.方谷先生は、そのような要職を果たしてお引き受けになるだろうか

3.戦後の日本に生まれていたとしたら、最高の学問をさせていただき、チャンスを与えられて、大成出来ていただろうか

4. 方谷先生が指導されるとしても、公務員や経済界、国民は追随していくだろうか。現在日本の動向を左右する最高権力者ともいえるマスコミはどんな反応を示すだろうか、邪魔されないで改革を成し遂げるためのどんな手立てを講じるだろうか

5. 方谷先生が今の世で「理財論」のような警世のエッセンス文を残すとしたら、どんな内容の書になるだろうか、「理財論」と同じ視点と内容にとどまるだろうか

私は、方谷先生の事績をあらためて読み返しながら、現在に置き換えて様々なことを考えました。

順不同で、、想像したことを並べてみます。

1.まず、神童と評価されて、特別扱いを受けることはあり得ないのではないでしょうか。どんなに頭脳明噺抜群な神童で、あっても、平等と人権が優先される世の中では、特別扱いされ重用されることはなかったのではないでしょうか。

2. 方谷先生は総理大臣にはなれないしなる気もなかったでしよう。総理大臣になるには選挙を経て国会議員にならなければなりませんが、人心に婿びを売る手続きなどは眼中になかったことでしょう。

3. では、財務大臣ならどうでしょうか。私はこれも「ノー」だと思います。方谷先生を指名する識見をもった勇気ある人が総理大臣になれる仕組みではないからです。
方谷先生は、任されて備中松山藩を治める仕事として元締役や総元締を引き受けたので、あって、経済的な権力を握ろうとしたのではなかったと思うからです。望まれたとしても、委任側に覚悟と信念がない状態の中では固辞されたことでしょう。

4.公務員や経済界は改革の徹底についていかないでしょう。国民も同じでしょう。理由は、まだどん底まで落ちて困りきっているという状態ではないからです。特に、マスコミには堅実誉褒肢の振幅が大きなことに加えて、世論調査を突き付けられて、継続を許してもらえないのではないかと心配します。

5. いまの世をどのように経営されるであろうかということは、これから皆さんと一緒に考えていきましょう。

6. もし、いまの世に警世の書を残されるとしたら、一味違ったものになるので、はないかと私は患います。時代を超えて、理財論は現在の経済的混沌状態を言い当て、混乱から救い出してくれる指針を示して下さっているようにも思いますが、時代背景を考えると、天下のことを制する視点を、理財すなわち経済とは別の「外」からの限で捉えて教えて下さるのではないかと思います。

■歴史は繰り返す循環しているから

2011年の今年は十干十二支の「辛卯かのとう」の年に当たります。災害が多い年とされ、60年前の1951年には三原山の噴火があり、120年前の1891年前には濃尾地震、240年前の1771年には八重山地震が起きています。

私は、だから今年は三陸大津波と言うつもりはありません。ただ申し上げたいのは、歴史は繰り返す、天災は忘れたころにやってくるという鉄則であります。天災だけでなく、人災もまた、性懲りもなく、繰り返し、繰り返しやってきます。

この現実を、しっかり学ぶことができるのは中国三千年の歴史を刻んだ中国の大きな知恵にほかならないと思います。四書五経をはじめとする中国の古典を素養として学び、骨格とし、知識としてではなく知恵として現世の経営に役立てようとした明治以前の時代は、人々は歴史に対し、地球環境に対し、極めて謙虚だったと思います。私たちは宇宙あるいは地球という大きな生命体の中で生かされている従属物だということを前提にしていたのだと思います。

儒教だけでなく、仏教でも神道でも、地蔵信仰でもおなじことだったとおもいます。

ところがいつの間にか、私たちはこの世の中の主人公だと錯覚してしまったのではないでしょうか。地球も宇宙も私たちが思うように出来る、わがまま一杯、好き勝手にやって何が悪いと思いこんで生活してはいませんか。人間はみんな平等に腹いっぱいに生きる権利がある、消費して生活空間が膨張循環することは最大の美徳であると信じきってはいませんか。

私たちは地球に住み、大きな循環の中で生きています。だから、歴史は繰り返し、天災は忘れたころにやってくるのだと思います。

地球の自転により 1日が 24時間で循環し、 1年 365日をかけて地球が太陽を一周し循環します。地球の奥深くにあるマントルから地殻がせりあがって生まれて、地表を異動したのち地中に潜り込んで、深い所で温められて、また地表にせりあがってくるという対流は数億年規模の循環だそうです。

人間が想定できる循環の範囲はほんのわずかなものにすぎませんが、大きな循環の中で私たちは生きています。

中国三千年の歴史のいろいろな事象を分析し、森羅万象を窮め、現在起こっている事象の本質を冷徹に分析し、行動規範を定めて、実行する中国の学問は人類の宝物と言えるに違いありません。

山田方谷先生は中国の知恵を究めて、藩の経営を手掛け、幕府の経営に助言されました。現在では、先生のような方が育つ素地も環境も失われていることは甚だ残念の極みと言わなければなりません。

方谷先生だったら、どのように診察し、何を処方するだろうかと考え続けることが私たちに与えられた課題であり、実行可能な姿を具体的に描くことが求められているのではないでしょうか。

分に応じた生きざまに我慢できる地方都市から私が育ち、市長も務めた大分県臼杵市のことを少しだけ話しさせていただきます。臼杵稲葉藩は江戸時代の末期に財政再建を成し遂げた数少ない藩の一つでもあります。

臼杵藩の改革は備中松山藩の改革に先立つこと 18年、天保2年に始まりました。藩の規模はどちらも5万石。臼杵市の改革着手時の負債は25万両というべらぼうな金額でした(備中松山藩は 10万両)。臼杵藩の再建責任者は代々の家者村瀬庄兵衛さん。私心のなし率先垂範と荷人との交渉力は方谷先生と共通する所が沢山あります。稲葉幾通というお殿様との深い信頼関係のもとで改革が進められたことも共通しています。

■山田方谷と村瀬庄兵衛

備中松山藩:山田方谷  生年:1805年(文化2年)没年:1877年(明治 10年)73歳
豊後臼杵藩 :村瀬庄兵衛  生年:1784年(天明3年)没年:1862年(文久 2年)79歳

改革の場所
備中松山藩: (5万石。実質2万石)
豊後臼杵藩 :(5万石。実質2万5千石)

改革着手年
備中松山藩:1849年(嘉永3年)
豊後臼杵藩 :1831年(天保2年)

役職
備中松山藩:元締役兼吟味役
豊後臼杵藩 :総元締

藩債返済
備中松山藩:1857年(安政4年) 10万両を余す
豊後臼杵藩 :1841年(天保12年)

出自
備中松山藩:農民出身、秀才、陽明学者
豊後臼杵藩 :家老職(四番家老)

人柄
備中松山藩:至誠
豊後臼杵藩 :誠実・信念堅固、是と決めたことは決行する

藩主
備中松山藩:板倉勝静(かつきよ)
豊後臼杵藩 :稲葉幾通(ちかみち)

改革着手時負債
備中松山藩:10万両
豊後臼杵藩 :25万両

改革の方法
備中松山藩:事の外に立ち、内に屈せず 義と利を区別、率先模範、人材育成
豊後臼杵藩 :徹底した質素倹約、量入制出、率先模範、人材育成

臼杵という土地は九州の片田舎で、リアス式海岸の土地。新田開発も限りがあり、鉱物資源もありません。殖産振興は努力したものの、大きな成果はあがらなかったようです。この面では方谷先生の改革の足元にも及びません。

臼杵の改革は消費節約が大きな柱でしたので、着るものから建物に至るまで、その規制は極めて細部まで余すところなく徹底されました。
そのようなやり方で、 10年間で25万両の負債を処理することができました。落債の返済を終えるや直ちに藩校を作り人材育成につとめました。この人材育成が実って、明治期以後にあまたの人材を中央に送り出すことになりました。草創期の三菱の大番頭、荘田平五郎さんなどです。歴代の日銀総裁の中に臼杵出身の方が二人名を連ねています。

臼杵藩の改革は徹底して「入るを量りて、出ずるを制す」というやり方です。このように、徹底した節約によって天保の財政改革を成し遂げたととは市民性に大きな特徴を残しました。分を知ると申しますか、無理な拡大や時流に乗ることや派手な付き合いに対して臆病な市民性を形成したといえます。

臼杵市の人口は約4万1千人(高梁市は約 3万9千人)。製品出荷額は2008年度で827億円(高梁市は 1141億円)にすぎません。しかし、臼杵市の数字はすべて臼杵市に本社がある企業が作り出したものです。大会社の支底や工場は一つもないという独特な土地柄です。
身の丈に応じた生き方に我慢できているというのがお杵市の特徴です。

■破綻直前の財政危機に直面して

このような質素な市民性ではありますが、狭い自立的な地域ですから、一方では政争の激しい土地柄でもあります。時代の変化に取り残される中、政争本位で市の経営は重視されず、放漫な市政運営が続いて、平成7年度には全国有数の財政悪化都市(大分県で、断トツ、九州でワースト2、全国でワースト7)であることが指議されるに至りました。

この事実を知ったので、告示一週間前に急逮立候補を決意して、財政再建を掲げ、「市役所を変えます」という公約のもとに選挙を戦い市長になりました。就任当日から改革の連続でした。市長用の黒塗りの乗用車は直ちに競売しました。報酬3割削減は、今でこそ珍しくありませんが、それ以前は公約されでも実行された例があまりない中で強行しました。バランスシートを作成し、経営に効果をあげました。

市役所職員は大幅に減員しましたが、給与水準には踏み込みませんでした。職員のパワーアップには格別力を注ぎました。職員の意識改革は小さな一歩からはじめ、トイレ磨きに励みました。小さな実践の一歩は、やがて大きな回転力を生みました。その一方で、市の目的にかなった事業を国や県の実質負担が多く、市の持ち出しが少ないスキームで積極的に取り組みました。

おかげさまで、市の勢いも回復し、分に応じた等身大の自治体が出来上がったところで2年前に退任させていただきました。

■国家の品格、国民の品格が関われている

話はがらりと変わりますが、東北関東大震災と東電原子力発電所の事故によって、日本は大きく変わろうとしています。

地震と大津波による被害を蒙られた皆さん、特に命を失った方々に心からの哀悼とお見舞いを申し上げます。
深い同構の気持ちをもちつつ、あえて申し上げますと、地震大国、台風の通り道に存在するわが国民にとって、地震も津波も台風災害も宿命です。私たちにとっては「明日は我が身」の避けることができない災害です。この災害に対しては、たとえどんなに大規模な損害で、あろうと、全体で力を合わせて、再建の戦いを挑み、乗り越えていくのが私たちに課された道であろうと思います。

もしも、地震津波災害だけだったら、経済的影響がどんなにひどかろうが、高齢化社会であろうが、回復が可能です。禍を転じて福となすことだってできるかもしれません。日本の信用は失われることはなく有力を合わせて復旧に取り組む姿は世界中から称賛尊敬されるに違いありません。

一方の東京電力の福島原子力発電所の事故は決して津波被災が原因ではなく、完全な人災です。

この事故が加害する影響は計り知れないほど深刻です。失われた電力が産業や生活に与える影響、放射能汚染による産業と生活と環境に与える影響に加えて、日本という国家並びに日本人の本質への信頼性が大きく傷つきます。世界中の国々に大きな迷惑をかけることになりました。

覚悟と信念をもたないままに、便宜性の視点だけで原子力という強敵との戦いに挑み、ウソで固められた計画と、詐欺まがいの買収による立地、事故が起きたのちのウソで固めたその場限りの発表とそれを期待し許す国民性に対し、日本人と日本国家を見る世界の眼が日ごとに厳しくなっています。

戦後、奇跡の復興を成し遂げて、世界第2位の経済大国まで駆け上がった日本という国の本質は一体何だったのか、日本人の心には尊敬すべきスジが通っているのだろうか、果たして日本人には「ウソはついてはならない。約束は守る。責任をとる」という規範が存在するのだろうか、「お金のためならウソも方便」「赤信号でもみんなで渡れば怖くなし」と本気で信じているのではないか、信用するに足りる人たちなのだろうか、と不審の自で再審査されようとしています。この事故が人災であれば、加害者すなわち原因を作ったのは誰で、被害者は誰なのかを考えてみなければなりません。東京電力だけが加害者でしょうか。政府と原子力村の学者さん方までが加害者でしょうか。そして、被害者は国民ということになるのでしょうか。

私はこの人災の原因を作った加害者は、残念ながら、国民全体であり、歴史の中にあると思います。明治維新以後、近代化を推し進める中で自己と頼るべき規範を見失い、近道ばかりを走ってきたことが、いびつな日本人を作ってきた一面があるのではないでしょうか。日本人そのものが事故の原因となっているといえなくもありません。大変残念なことですが、信用が失われようとしているのではなくて、醜い本質がばれようとしているのかもしれません。

このような事態に遭遇して、私たちは、一体どうしたらよいのでしょうか。

■方谷先生の理財論に驚嘆します

どこで、間違ったのか、再建は何を柱にしていったらよいのか、を考える時、方谷先生の「教えさとし」に明確にその答えを見出します。
「理財論」の末尾の部分がそれです
「中国の古代、非常に小さな国で、トウ(草かんむりのない藤)という冨家があった。斉国や楚国から侵略され、滅亡の危機に陥ったことがある。しかるに、孟子が教えていることは、善と信ずることのみをせよというものであった。他国から侵略破壊されることは、国民を飢え死にさせることよち、もっと悲惨な状況と忠わなければならない。孟子の教えは、このようなことだけである。すなわち、国土が貧しくて弱い国が自分で自分を守るために、人々が生きていく王道はただ一つ、「義利の分」をはっきりさせて実行していくことである。「義利の分」ひとたび明らかになれば、守るところのものは定まる。日月も問題ではない。激しい嵐も恐れるに足りない。高い山も大きな海も問題ではない。天地を貫き古今に渡り、移ろい変わることのない真理である。なんで、飢寒死亡を思い悩むことがあろうや。まして、こまごまとした経済運用など問題でも何でもない。しかるにまた、「利は義の和」である。綱紀整い、政令を明らかにして、飢寒死亡を免れなかった例は未だ一つもない。それでも、私の言を迂(世事に疎い、遠回り)となして、吾に理財の道あり、その方法で飢寒死亡を免れることができるというのならば、もう一度よく考えてみればよい。そのようなことを行うこと数す年にして、わが藷の窮乏がますます救いがたいものになっているのではないかこれはどういうことなのか」とあります。

この理財論では、藩財政の立て直しの方法を論破しているので、過去の財政再建の方法の過ちを指摘しています。

最後の部分を少し変えて、将来起きるであろう心得違いを論すとしたら・と考えてみると、「私の義利の分をはっきりさせるというやり方を疎んじて、義を明らかにせず、もっぱら利を追いかけるのが良いというのならば、それを行ってみるが良い。行うこと数十年にして、綱紀はズタズタに苦しれ、取り返しのつかない陥葬に落ち込むだろう」と指摘されているように思えてなりません。

■市民の心づくりから始まる、これからの国づくり

前置きが長くなってしまいましたが、方谷先生のお言葉が、今ほど必要とされている時期はないと思います。それは、ただ財政再建としづ理財のためだけではありません。理財の乱れ、綱紀の乱れ、信用の喪失という国家と社会全体の漂流から再生するためには「ことの外に立ちて、内に屈せず」「義と利の分を明らかにする」という基本に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

もともと、私にいただいたテーマは「市民の心作りから始まる、これからのまち作り」でしたが、私は「国づくり」に置き換えました。国は国家だけを意味するものではなく、国と自治体とコミュニティーを指して使っています。「修身斉家治国平天下」と言われますが、その国です。

信頼され、尊敬される国を再興するためには、誰か偉大な人物の出現を待って、その人に委ねることはできません。何事も「小さな笑践の一歩から」です。各人の生き方を振り返り、私たちが追いかけてきたものだけでよかったのだろうか、これから何を作っていけばよいのかを自問自答してみるととも小さな実践の第一歩でしょう。

身の丈に合った生き方、どうしても足りないものは何なのかを考えてみることも必要でしょう。我慢という言葉を思い出すことも欠かせません。

自分自身、家庭、身の回りの共同体と出来るところから少しずつ広げていって、利にばかり目をやらないで、義を考える。出来ることから実行することが大事だと思います。その発信が、方谷先生が情熱を傾けたふるさと高梁市から始まることを祝福し、ともに力を尽くしたいと思います。

(おわり)