高梁市内に於いて新選組内に松山藩士がいたという事実は驚くほど知られていない。
これは当時の藩主、板倉勝静が幕府の筆頭老中という要職にいたため、新政府からずいぶん憎まれ「新選組」という言葉すら口にすることが出来なかったという歴史的背景がある。
しかし、深く調べてみると松山藩と新選組には意外なほどの接点があるのに気づかされる。

このコーナーでは、第1章では新選組に発足当初から加入していた元松山藩士「谷三兄弟」を、そして第2章では新選組そのものを作った当事者のひとりである板倉勝静と新選組殿数奇な運命を取り上げる。

Contents

谷三兄弟

谷兄弟の生い立ち

 

谷三十郎、谷万太郎、谷昌武の三兄弟は備中松山藩の武家屋敷の一郭である御前町で産声を上げた、生家は現県立高梁高校の寮となっている。父は谷三治郎供行といい板倉家の家臣で120石、役料20石の旗奉行であり、剛剣家としても知られていた。

長男三十郎の生まれ年は不明であるが、次男万太郎は天保6年生まれ、三男の昌武はすっと離れて13年後の嘉永元年の生まれである。父谷三治郎は松山藩で剣術槍術の師範をしており三十郎や万太郎は父により相当剣槍を仕込まれた。また三十郎には剣の天分の才もあり父も驚くほどの上達ぶりを見せたという。

そんな三十郎であったが25歳前後に松山藩を辞して浪人となった、何らかの失策があり君主板倉勝静の怒りに触れたと言われている、公的な記録が残っていないため実際に何があったのかは定かでないが一説によると「藩主の娘との間に事あり・・」とも「家老の奥方と不義があったのでは」とも言われている。

万延元年7月3日、母が死亡した、このとき三十郎、万太郎の兄二人はすでに大阪に出ており母の死に目にもあえなかったであろう、また、父も三男昌武が生まれた6年後には死亡していたため昌武も兄を頼って大阪に赴くこととなる。この後三人は新選組を経てそれぞれの人生を歩むが、三男昌武以外この後故郷の地を踏むことはなかった。

 

谷兄弟大坂へ

 

長男三十郎と次男万太郎が一緒に大阪に出たのかどうかはさだかではないが、次男万太郎は安政3~4年頃、大阪久左衛門町にすむ岩田文硯という医家の食客となる。岩田文硯は当時中山大納言の侍医で、また武道を志す書生の面倒も見ていた。多くの書生の中にあっても万太郎の武術の腕を大いに認めていた文硯は自宅から数キロ離れた南堀江の納屋を借り受け万太郎を師範として剣術と槍術を教える道場を開き、のちに娘を万太郎の妻としている。
また、弟子の中には後に新選組の幹部となった伊予松山出身の原田左之助もいたらしい。

文久3年3月、幕府が募集した浪士組から分裂して京都壬生に「新選組」が誕生した。
谷三兄弟も発足初期から名簿に名を連ねている。三男昌武はこのときまだ15才であったが剣豪の兄達から剣術を厳しく仕込まれていた。また三十郎は入隊と同時に幹部の助勤に名を連ね、壬生屯所で生活した。次男万太郎は南堀江で開いている道場の関係や西国の玄関大坂という地の重要性から主に大坂の警護に当たった。

 

池田屋騒動

 

文久4年歴史に残る事件である「池田屋騒動」の起こる少し前、三男昌武は局長近藤勇の養子となる。時の老中板倉勝静が君主である備中松山藩の藩士であり、120石取りの武士である昌武を惚れ込んでのことであった。

養子縁組が整って間もないころの6月5日、新選組史上最大の事件である池田屋騒動はおきる、近藤はそれとなく守護職や所司代と打ち合わせ、目立たぬよう隊士を祇園石段下に集めて待機していた、しかし約束の時間を過ぎても守護職らの部隊はいっこうに現れない。このとき守護職らはことの重大さに及び腰になっていたのだった、近藤は仕方なく自分たちだけの切り込みを決意する。

この日、京都は祇園祭の宵山で町全体が浮き足立っていた、当然のごとく近藤らの気分もいやが追うにも盛り上がって行く。近藤は隊士を二手に分け多い方を土方に託し三条縄手の小川亭と四国屋へ向かわせると残りの7~8人を引き連れて池田屋へ向かった。そして武運に恵まれたのは少数隊の近藤の部隊だった、志士三十数名は小川亭、四国屋にはひとりもおらず池田屋に集中していた。

出口を万太郎と原田左之助が固め、近藤は養子周平(谷昌武)と共に屋内にに斬り込んだ。しかしこのメンバーの中にあって周平の力量はあまりにも未熟な物だった。実戦経験も乏しい周平はすぐに槍を折られてしまう、すぐに剣を抜き戦えれば良かったが、その後の周平ははただ足手まといにならぬようするのがやっとであった。一方、槍術で免許皆伝の腕尾持つ次男万太郎は表出口階段下で、2回から切りたてられて逃げてくる敵を田楽刺しにしたという武勇伝が残っている。長男三十郎も得意の剣を片手によく働いた。

この日、新選組は斬ったもの7人、手追わせたもの4人、召し捕りが2人、谷三兄弟は論功行賞として次男万太郎が沖田、長倉、藤堂らと並ぶ金20両、長男三十郎が金17両の報償をもらっている。

 

ぜんざい屋事件

 

慶応元年、万太郎は重大情報を入手した。以前は志士たちと交流があり、今は万太郎と親しくしていた同郷倉敷の谷川辰吉という人物が「松屋町筋の石像屋というぜんざい屋の主人が、町人になりきっているが、実は本多大内蔵という長州系の志士であり、長州浪士たちがここを隠れ蓑にしているという、さらに、これらの浪士たちが長州征伐のため大阪城に滞在中である将軍家茂一行に奇襲をかけ、市中を混乱に陥れ長州を後方から支援しようと計画中」というのだ。驚いた万太郎は直ちに報告をすませ、居合わせた兄三十郎および門弟正木直太郎、高野十郎の4名でぜんざい屋にむかった。

正月8日夕方のことである。池田屋同様たった4名での切り込みである、相当の覚悟の上、四人はぜんざい屋に斬り込んだ、しかし、幸か不幸かこの日、浪士たちは同士中沼孝太郎を訪ねてほとんどのものが「鳥毛屋」の方に出かけており、ただひとり大利県吉が残っていた。

踏み込んだ万太郎は本多めがけて斬り込んだが居間を斬りつけてしまう、その隙に本多は家族と共に逃走、ひとりになった大利は7カ所を斬られて死亡した。万太郎らは書類を押収してその日のうちに引き上げたという。ぜんざい屋事件そのものはかなりの苦戦に終わったが、この事件の後、京都同様大坂でも浪士の取り締まりが厳しくなり、大坂を混乱から守った新選組として何とか面目躍如出来たのであろう。

 

谷三十郎

 

新選組のドラマや小説のなかで「谷三十郎」はきまって「悪役」として描かれる。実際当時新選組の中にあっても「七番隊長・谷三十郎」の評判はあまり良いものではなかったようである。彼にしてみれば時の老中板倉勝静の旧臣であり120石取りの武家出身、弟は局長近藤勇の養子であるという立場から、他の隊員を見下していたのであろう。

そんな三十郎は慶応2年4月1日祇園石段下で突然の死を遂げた。斉藤一に殺されたとも反幕の志士に斬られたとも言われているが真相は何一つ分かっていない。

子母沢寛氏の「新選組始末記」によると不都合により切腹となった田内知の介錯を三十郎がやったところ、どういう訳か急所をはずれ首が落ちず、取り乱した三十郎が田内知をずたずたに切ってしまい見かねた斉藤が代わって抜き打ちその醜態以後、隊の反感を買い評判を落としたと書いてあるが、これは完全な創作である。

田内の葬られたのは三十郎の死後9ヶ月目のことであり、更に直心一派の奥義を極め、実戦経験も豊富な三十郎が介錯を誤るとはとうてい考えられない、生前の三十郎の横柄な態度がこのような悪意を持った創作となって今に伝わったのであろう。

 

万太郎・周平

 

このころから万太郎もまた隊の名簿に名を記さなくなってきている。兄のこと、弟のことから隊の他のものとうまくいかなくなってきたのかも知れない。

時は江戸から明治に移る、土方率いる新選組が札幌五稜郭に立てこもったのを風に聞いた万太郎は大坂にいた。一時は有士達と道場を起こすが程なく潰れ、新選組大坂元締めとして一時は名を馳せた名残からか鴻池、辰巳屋などの用心棒として何とか世間を渡っていた。
そんな中、明治7年に息子弁太郎が生まれる、万太郎はすでに3人の子を亡くしており39才の身にとってはこの上もなく嬉しかったことだろう。

一方周平は鳥羽伏見の戦い以降、行方不明となっていたが、慶応4年頃若い女を連れてひどくやつれた姿で近藤家に現れたという。勇の妻で義母のつねが「周平さんも女のためにあんなことになった」といっているという。

その後周平は女とも別れ、名を谷昌武に戻しいったん郷里高梁に帰ったが、すぐに出て行き行くへをくらませた。