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用語集

【天誅組/天忠組】てんちゅう-ぐみ
幕末期、諸藩を脱藩した尊攘急進派の集団。吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂(けいどう)らを中心とする。1863年中山忠光を擁して大和で挙兵、五条代官所を襲撃し、十津川郷士も加え大和高取城に向かったが八月一八日の政変後、幕軍に敗れ壊滅した。


【孝明天皇】 こうめいてんのう 
(1831-1866) 第一二一代天皇(在位 1847-1866)。名は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子。激しい攘夷主義者であったが、倒幕運動には反対。妹、和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。

【吉村寅太郎】よしむら-とらたろう
(1837-1863) 幕末尊攘派の志士。土佐の人。虎太郎とも。名は重郷。土佐勤王党に加盟。1863年天誅組を組織、大和五条に挙兵、敗死した。

【中山忠光】 なかやま-ただみつ
(1845-1864) 幕末の尊攘派の公家。忠能(ただやす)の子。1863年天誅組の首領に推され大和五条に挙兵したが、諸藩の追討軍に敗れて、長州に脱出、暗殺された。

【藤本鉄石】ふじもと-てっせき
(1816-1863) 幕末の志士。岡山藩士。字(あざな)は鋳公。通称、津之助。脱藩して上洛。天誅組の首領に推されて挙兵、敗死した。

【松本奎堂】 まつもと-けいどう
(1831-1863) 幕末尊攘派の志士。三河刈谷藩士。通称、謙三郎。昌平黌(しようへいこう)に学ぶ。京都で藤本鉄石らと交友、1863年天誅組総裁となって大和五条に挙兵したが敗れ死亡。

【平野国臣】ひらの-くにおみ
(1828-1864) 幕末の志士。通称、次郎。福岡藩士。西国の尊攘派を結集したが寺田屋騒動で失敗。七卿落ちの一人沢宣嘉(さわのぶよし)を擁して討幕のために但馬生野に挙兵したが、幕府軍・諸藩兵に攻められて敗れ、京都で処刑された。


【十津川郷士】とつがわ-ごうし
近世、十津川流域の在郷武士。太閤検地以来、郷中一千石が年貢赦免地となり、また郷士四五名は扶持米を受けた。1863年皇室領となり、天誅組の蜂起には多くの郷士が参加した。

【尊皇攘夷】 そんのう-じょうい
天皇を尊崇し夷狄(いてき)を排斥しようとする思想。もともと別個の思想であったが、幕末期、幕藩体制の矛盾と諸外国の圧迫による危機感の中で両者は結びつき、次第に討幕運動へと展開、王政復古に至る幕末政治運動の指導的役割をになった。勤王攘夷。尊攘。

出典:大辞林

【原田亀太郎】はらだかめたろう
1838・8・15〜1864・7・19(天保9〜元治1)

高梁市出身
勤王の志士。名は広。通称ははじめ亀太郎、一作とも称す。煙草商原田市十郎の長男として備中松山城下に生まれる。幼時から読書を好み、はじめ藩儒進鴻渓に学び、1854年(安政1)江戸に出て岸淵蔵に入門。ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

藩主板倉勝静にその才能を愛され、抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊し、懐慨(こうがい)国事を談じ、深く勤王の志士と結んだ(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。

'63年(文久3)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。こうした情勢の中で、中山忠光を擁した天誅組の義挙に勇躍して参加したが、8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから政情は一変し、追討諸藩の攻撃を受けることになった。逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが小俣で和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれた。禁門の変のさなかの'64年(元治1)7月19日、同囚32人とともに斬に処せられた(『維新史』)。刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された。(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。
→森田節斎→進鴻渓→板倉勝静!朝森要

出典:岡山県歴史人物辞典



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