▲山田方谷マニアックストップページ
トップページ天誅組とは天誅組写真集原田亀太郎新島襄の手紙
内田耕平用語集おすすめ書籍関連リンク

新島襄の手紙-新島襄の手紙をとおしてみた高梁

<新島襄の手紙>
十九日にも矢張り多くの人々参り、中々少しの暇もなく候。十八日の朝には、宿より抜出し運動の為松山の城山に登り申し候。其登りは二十町余り、途も中々瞼岨にして登り難く、城も余程厳重に築き立、昔の弓矢ではトテモ落城には難及と存候。其所は四方皆山なり。地も殊に高くして水の流る事甚急なり。此所より底の平タキ船にて海迄運送之便利も能く、山の中とは申、至て繁華したる地なり。家数は千余も有之候。尚中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差支はなし。

牛乳もあれば牛肉もあり、唐物見世も沢山にあり、書店もあり、何も格別不自由のなき所に御座候。例の開化と申して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚困りたる事なり。尤福音の種を播くには存分好所と存候。私山より帰り懸けに、昔大和にて中山殿に随ひ一揆を起し、敗軍に及ヒテ生捕となつし私の旧友原田亀太郎と申者の家を尋候に、老父煙草、屋市十郎存命にあられ、私に昔話をなし、袖に涙を絞りつつ、大和の軍より遂に亀太郎の京獄に入れられ、獄中より父にあてし文など示めし呉、私に逢ひしは伜に逢ひし同様と中され、大に喜び呉候。


この手紙は、新島襄がその妻八重子にあてた手紙であって、かつての高梁を知る上において極めて貴重な史料の一つである。彼がキリスト教の伝道のために初めて高梁に来たのは明治十三年二月のことで、書中十九日とあるから、この手紙が二月九日もしくはその翌口かにしたためられたものであることが知られる。


新島は、言うまでもなく同志杜大学の創設者である。旧松山藩主板倉家は、板倉一統の宗家であって、その分家に上野国安中・備中国庭瀬・三河国重原の三板倉があったが、彼の家は代々安中藩の板倉に仕えていたから、まんざら高梁に縁がなかったわけではないといえる。

天保十四年神田一ツ橋外の江戸屋敷で生まれたが、彼は第五子で長男、幼名を七五三太といったが、上が女ばかりであったからしめたしめたと喜んで、こう名づけたといわれている。一六歳で右筆見習として藩邸に出仕したが、かたわら蘭学塾に通って蘭学を修め、欧米の文明に関し大いに感ずるところがあって、元治元年二二歳の時アメリカ密航を企て、函館から上海を経て国禁の海外渡航の途についた。

渡米後アメリカ人ハーディーの援助で、アンドーヴァー中学、次いでアマースト大学を卒業し、明治五年岩倉全権大使の渡米の際にはその案内役を勤めたといわれるが、その後更にアンドーヴァー神学校を卒業し、日本にキリスト教主義の学校を建設するという目的で、同志の拠金六、○○○ドルを携えて明治七年十二月に帰朝、京都に同志杜を創設した。従って彼が高梁を訪れたのは同支社創設後五年、三十八歳に時のことである。

書中原田亀太郎と旧友であり、その老父煙草屋市十郎を訪ねたことが見えているが、原田は新島より六歳の年長で、新島が密航を企てた元治元年、藤本鉄石や吉村寅太郎らと大和で挙兵した、このため京都堀川の獄舎で斬に処せられたが、かつて安政年間に数年を江戸で暮らしているから、あるいは蘭学塾ででも知り合っていたものであろうとおもわれる。

新島が高梁に来たのは、金森通倫や中川横太郎らによって岡山に招かれたついでに立ち寄ったものである。恐らく彼を高梁に招いたのは柴原宗介であろうが、彼が高梁に来た経路については明らかにされていない。文中高梁川を利用する舟運の便が書かれておるが、彼が「底の平タキ船」といったのは高瀬舟のことで、当時陸路は人力車、水路はこの高瀬舟が唯一の交通機関であったから、新島は神戸から蒸気船で岡山に来て、そこから人力車で高梁に来たものであろう。

彼の来町は、高梁の思想界・宗教界に大きな石を投じたものであり、高梁における初期のキリスト教の歴史的伝道者の一人で、文中「福音の種を播くには随分好所と存候」といっているのは、彼の気負いこんだ気持の一端を伝えるものである。後に東京巣鴨に家庭学校を創立した留岡幸助や、救世軍に入りその日本軍司令官となった山室軍平も、この新島の薫陶を受けた人たちである。彼の手紙によると、かつて彼が安中の旧藩士であっただけに、まず城城址城山に筆を起こし、次いで城下について叙述している。山の中とは申せ、至って繁華したる地なり。家数は千余もこれ有り候といい、なお中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差し支えなしといっているから、当時流行の開化の町であったことが知られる。

ランプは、ヨーロッパでは十八世紀の末に小さい円芯ランプができたといわれるが、わが国ではそれから約半世紀ばかり遅れた幕末、すなわち安政の開港後に渡来したもので、明治の初年にはまだ珍しかった。高梁に関する限りこの新島の手紙が、ランプに関する記事のいわゆる初見で、キリスト教の伝道と相前後して明治十二年の末ごろから伝えられたものであろう。山田準の述懐によると、町内には柴原のような開化人もいたから、早くからランプが伝えられていたのかもしれないが、高梁市史の記述では、桜井熊太郎が有終館へ豆ランプを持ってきたのを随分珍しく思ったことが書かれている。

桜井の家は代々本町の薬種商で、商売上の関係であろう大阪から買ってきたということであったが、彼は提灯の代りにこれを持ってきたもので、随分口慢のようであったが、風に吹き消されて提灯としては用をなさなかったという。当時有終館ではまだ箱あんどん式ブリキのカンテラが用いられていた。その後ランプもだんだん普及するようになったが、最初は平芯ランプの二分芯吊ランプで、それから三分芯・五分芯になった。置ランプが用いられるようになったのは三分芯のころからであったという。

明治十六年には、三島中洲は五分芯の置ランプを用いられていた。と語っている。山田準の有終館入学は明治十四年のことであるから、ランプがまだ珍しかったことが知られる。桜井は、その後東京法科大学を卒業し、当時の芸娼妓自由廃業の問題や足尾銅山鉱毒事件などの社会問題に奔走し、日露戦争終局後には、政府の取った講話条約に対する措置に飽き足らず、国民の公憤を代表して日比谷原頭で国民大会を開いた時、「桜井熊太郎ここにあり」と怒号した有名な硬骨漢のことである。

高梁にランプが普及したのは、小倉善三郎によると明治十七・八年のころで、新島の手紙に「所々ランプもつき」とあるのは、文字通り「ところどころ」の意であって、大旅館・大商家といったところにはランプもあったのであろう。「暗夜といえども差支えなし」というから、軒なみにランプが懸けられていて、暗夜の通行に少しも支障がなかったかのように受取れるが、これは軒に吊された角行灯の見誤りではなかったかと思われる。当時高梁の旅籠では、新町の成羽屋と重屋とが最も有名で、ほかに本町では今の油屋があり、南町には見付屋というのがあった。見付屋は大坂屋すなわち平松益造の旧宅を維新後宿屋にしたものらしい。延享以来の旧家で、今でも昭和五十年頃まで残っていた阿呆倉はその家の付属であったが、宿屋としては最も大きかったけれども、間もたくなくなった。

来町の外人宣教師達は多く重屋に泊まっていたから、新島もこの重屋に滞在したものであろう。今では町の繁華はほとんど南半分に奪われた形であるが、当時は町の北半分、いわゆる本町・下町がその中心街で、たいていの用はここで足りたし、殊に下町は俗に角行灯といわれた料理屋・小料理屋が立ち並び、角行灯を軒並みに吊していたから、新町に泊まった彼の散歩区域は、おそらく近くの本町・下町であったろうし、従って「暗夜といえども差し支えなし」ということになったのかもしれない。ともかくこうした山間の古い城下町にランプがついていたことは、当時の一般から推して彼にとっては意外のことであったのであろう。

高梁に電灯のついたのは大正元年のことで、一時ガス灯の点ぜられた時代もあったが、これは電灯に圧せられ、ごく僅かの期間で滅びてしまった。当時有名な旅館であった重屋も成羽屋も、伯備南線の開通した大正十五年を前後として、いずれも転業した。新島の手紙には、高梁川に沿った城下町と城山とが巧みに描かれている。町の北半分であるが、その絵には方谷橋がない。これも不思議はないので、方谷橋の出来たのはずっと遅れた大正二年のことである。「牛乳もあれば牛肉もあり」と新島は感心したが、牛乳は横田実太郎が南町外れで牧場を開いたのに始まる。

その後横田はクリスチャンになったから、こうした開化に敏感であったのかもしれない。奥万田・権右衛門稲荷の近くに、小出某にょって牧場が開かれたのは明治十七・八年のことであるが、これも今では跡形もない。牛肉屋は、旧藩時代に大小姓格に上った田那村の分家が、本町の方から広小路の橋を渡るとすぐ左、今の能登原商店の位置に開いたのが最初である。二階付の家で、その二階をすき焼きのために開放したが、神仏を祭る母家で牛を食べるのは罰が当る、普通の鍋も使えないというので、庭とか納屋とかで、文字通り耕作用の鋤を鍋代りに、むしろを敷いてすき焼をしたという時代に、旧藩士がすき焼屋を始めたのであるから、およそ当時としては先端を切ったものであったろう。

鍛治町のかつての樋池は、そのころ今の森沢酒店の前にあって、ここでもすき焼が食べられたし、紺屋町筋の今の仲田の農具倉庫付近には赤木牛肉店があった。今は南町に移っているが、古くから今に続いた牛肉店はこの赤木だけである。当時のすき焼は一人前三銭五厘であったといわれている。山田方谷は藩士の栄養改善のため肉食を奨励し、豚を町南郊の河原で放し飼いにしたと伝えられているが、四つ足に恐れをなし、旧藩時代にはあまり食べられなかったらしい。その放し飼いの豚が、時々町内までのこのこやってきたと古老は語り伝えている。「唐物見世」の唐物は、本来茶入のことで、瀬戸物茶入を一般に唐物といったが、ここでは茶入に止まらず、茶碗とか種々雑多な陶器商を指していったものであろう。「書店」は本町の柴原文開堂のことに相違はない。

芝原の家は今の三谷印刷所のあたりで、酒屋をかねていたが彼が洗礼してからは酒屋はやめてしまった。彼は教育にも随分熱心で、小学生向け石板の代りに安価な木板や紙板を考案したり、福西の裁縫所設立に大きな力を借している。以上によって、新島来町当時のいわゆる開化の波に乗った高梁の繁華が知られ、彼がいうとおり、山の中ではありながら「何も格別不自由これなき所一であったことが分かるが、最後に新島は、「例の開化と中して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚だ困りたる事なり」といって、当時の高梁における淫風の盛行を報じている。初代戸長を勤めた国分胤之の「昔夢一班」には、

料理屋ハ下町備鵜融南町野晶鯉高新輔屋ノ外ナシ、酌婦灘舳擁洲響議雫毎度省メヲ什家

とある・これは嘉永・安政のころのことを書いたもので、旧藩時代には、料理屋と称するものは僅かに三軒に止まり、しかも酌婦を置くことは固く禁ぜられていたが、廃藩置県後わずか一〇年を出ない間に、料理屋は上品・下品を問わず急激に増加し数十軒を数えていたらしい。角行灯といわれたのがそれで、そうした料理屋・芸娼妓屋の軒先には、「干客万来」だの「華客往来」だのと書いた角行灯が吊下げられ、町内の若老を誘惑していたものらしい。角行灯を見てまわらぬと落ちついて寝られないという人も中にはあったと聞く。

戦前まで残っていた高新楼と清華楼とは当時からの高級料理店で、淫風の対象とはならなかったが、ずいぶんいかがわしい所もあったらしい。検番が広小路と南町とのニカ所にあったのだから、芸娼妓の数も多かったに相違はなく、新島の驚いたのに無理はない。このように全盛を極めた角行灯は、うどん屋とか小料理屋とかにも懸けられるようになったが、多くは明治の末に廃絶し、大正の初年まで残ったのはごくわずかである。新島の来た当時には、常設劇場としての定小屋はまだなかったが、その頃には八重離神杜の西下境内に時々芝居がかかったもので、それには下町の芸妓、特に福清の芸妓達が参加して手踊りを見せたこともあった。明治十四.五年になって、栄町の今のエスカ、かつての高梁劇場の裏手を一丁ばかり入った畑地に仮小屋が建てられ、それから三・四年の後、ちょうど明治十七・八年ごろに南町に正式の定小屋が建てられた。

当時板垣退助が来町して演説会を開いたが、その命名を求められて「コウラク座」と名付けたといわれている。板垣としては、人に先んじて憂い人におくれて楽しむという政治の根本精神から、「後楽座」と名付けたつもりであったろうが、場主は「後」を高梁の「高」と思いこんで、「高楽座」としてしまったものらしい。角力も、大阪角力が年に一回来たもので、正善寺の広場や、紺屋町筋の今の税務署の敷地や、今の順正短大の敷地である旧藩時代の矢場跡で開かれた。当時は東京角力と大阪角力との二つがあった。今の日本相撲協会はこの両老の合同したものである。

新島の手紙は、当然筆を染めるべきはずの教育機関について少しも触れていないが、当時は中之丁に小学校のあったほか、かつての藩校有終館が、三島中洲やその他の人々の努力でその前年、漢学熟として方谷門下の荘田霜渓を迎えて片原丁に再興されたばかりであり、中等教育の機関はまだ十分備わってはいなかった。町村立上房中学や私立裁縫所が生まれたのは、翌明治十四年のことであったから、見聞するほどの材料がなかったのであろう。高梁の市街地商店街が、その後の体裁を整えたのは昭和に入ってからのことで、大正十五年六月二十日に伯備南線が開通し、翌昭和二年十月、伯備全線が開通してからのことである。新島が生きて再び来高したならば、一〇〇年に近い時の流れに、うたた今昔の感に堪えないものがあろう。新島は、更に旧友原田亀太郎の老父煙草屋市十郎を訪ねたといっているが、その煙草屋は新町にあり、重屋から二町ばかり甫寄りの東側にあった。その時示された獄中の手紙というのは、

去年中山侍従殿天子の御ために大和にて義兵を挙げられ候節、私も御招きに預かり候故御味方に相成り候処、敗軍に及び私始め大勢生け捕りに相成り候。京獄中にて、二月以来追々死刑に相成り候えば、私近々同様と存じ候。誠に子として父母の莫大の御恩報いず、また私文学修行に付き、この上もなき御心配を相掛け、一日も御安心を致し奉まつらず、また憂き目を合わせ奉り、重々の不孝に候。しかしこの度の事は、天子の御ためと存じ、死に走り候故、不孝の罪は御免じ下さるべく候。弟ならびに妹どもに、親に孝を尽し、兄弟むつまじく致すべくと仰せ付けられ候様願い奉り候

亀太郎御父様京獄中にて認む

というものである。市十郎は、愛児の入獄を聞いて京に上り、百方手を尽くして意を通じたし、亀太郎が刑死した後に、この獄中の書と石川晃山の描いた画像を携えて倉敷の森田節斎を訪ね、画像記を書いてもらったほど子煩悩であったから、新島が旧友であったと知り、文字通り昔話に袖を絞ったことであろう。亀太郎の墓は城下道源寺にある。明治初年の高梁とは直接関係はないが、新島のアメリ力密航の蔭に、高梁の人があったことも忘れてはならない。この密航に関係したのは塩田虎尾で、旧藩時代の藩士、御前町の東北角に住んでいた人である。

元治元年三月、家族にも志を秘して出奔した新島は、この塩田の好意で藩船快風丸に横浜から乗って函館に向かった。函館は開港場であったから渡米の機会があると考えたのであろう。函館でロシア領事館付司祭ニコライの日本語教師となってその家に住みこみ、渡航の機会をうかがうことになり、密かに塩田もこれを助けていた。やがてイギリス人ポーター商会の店員福士宇之吉と知り、そのつてで上海行きのアメリカ汽船ベルリン号の船長付給仕となって、そのまま国禁を犯して米国へ密出国した。新島は一命を賭していたが、新島が分家安中の藩士であっただけに、宗家板倉の藩士であった塩田も、事露顕に及んだ時には、彼の責めも免れることはできなかったわけである。新島が大成した陰にはこうした塩田虎尾のかくれた協力があったのである。



この文章は昭和54年11月に発行された「高梁市史」に掲載されていたものを一部現代風にアレンジしたものです。


トップページ天誅組とは天誅組写真集原田亀太郎新島襄の手紙
内田耕平用語集おすすめ書籍関連リンク

  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所