板倉勝静と新選組

安政七年(1860) 3月3日、水戸浪士たちが老中井伊直弼を桜田門前で暗殺した。 世に言う桜田門外の変である。この事件を契機に歴史は一気に動き始めた。 このとき備中松山藩主・板倉勝静は「安政の大獄」において寛容な処分を井 […]

備中の新撰組

高梁市内に於いて新選組内に松山藩士がいたという事実は驚くほど知られていない。 これは当時の藩主、板倉勝静が幕府の筆頭老中という要職にいたため、新政府からずいぶん憎まれ「新選組」という言葉すら口にすることが出来なかったとい […]

平成塵壺紀行

塵壺とは河井継之助が西国遊学の際に記した紀行日記である。 継之助はこの塵壺以外には著書はなく、継之助唯一の著書として有名であり、かつ 継之助の人となりを知る上でも貴重な資料である。 紀行日記とは言っても継之助自身、この塵 […]

河井継之介の生涯

|少年期~遊学時代 越後長岡藩七万四千余石は越後のほぼ中央に位置し、城下の近くを信濃川が流れている。長岡藩主牧野氏は三河牛久保出身で元和四年(一六一八)入封以来、幕末まで十二代にわたり連綿と藩を支配した。藩是は質撲剛健を […]

激動の藩政改革

|松山藩財政、待ったなし 元締役を引き受け、初めてみた備中松山藩の財政の実態は方谷を愕然とさせるに充分な、彼の予想を遙かに上回る物だった。 藩の借入金は総額10万両を越える膨大な物であり、その利子により藩の借金は雪だるま […]

青年時代の方谷

神童誕生 今からざっと200年前の文化2年(1805年)阿燐少年は生まれた。 (リンという字の正確な部首は王であるが、コンピューター内に正確な文字のフォントがないため火偏の燐の字を使う) 備中松山藩西方村、現在の岡山県高 […]

方谷の人間研究

  -山田方谷(やまだほうこく)とはいかなる男か- 徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れ […]

陽明学を志した日本人

中江藤樹 なかえ-とうじゅ 【中江藤樹】 (1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問 […]

岡田武彦撰 王陽明の名句十撰

「岡田武彦先生」と「王陽明の名句とその解説」の経過について 昨年11月、「高梁方谷を学ぶ会」に一通の文章が届けられました。 著者は世界的な陽明学の研究者として知られる岡田武彦先生、その文章のタイトルは「王陽明の名句とその […]

備中松山藩 幕末前史

備中兵乱 庄氏から三村氏へ 国道180号線を岡山方面から高梁に入るとすぐ目前に広がる大きな山がある。 13世紀のはじめ、この山、「臥牛山」の山頂に難攻不落の要塞として備中松山城は築かれた。 松山城のある備中の国は、今で言 […]

山田方谷 名言集

方谷先生の残した名言集です。現在追加中 「名利ノ為ニスル私念ニ出ズレバ、縦令(たとえ)驚天動地ノ功業アルトモ、一己ノ私ヲ為スニ過ギズ」 明治維新後、備中松山藩も高梁藩と名を変えて再興に成功、すべてが終わり落ち着いたとき、 […]