河井継之介の生涯
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|少年期~遊学時代
越後長岡藩七万四千余石は越後のほぼ中央に位置し、城下の近くを信濃川が流れている。長岡藩主牧野氏は三河牛久保出身で元和四年(一六一八)入封以来、幕末まで十二代にわたり連綿と藩を支配した。藩是は質撲剛健を宗とし、「常在戦場」の精神を第一とする。このため長岡の藩風は実利・実学を重んじ、道理を貫く気位の高い風土が伝統的だった。
継之助は文政十年一月一日、暁七ツ時(午前四時)、越後長岡城下同心町に生まれた。
継之助の生まれた同心町は町人町に接し、おもに町同心が住んでいた。そのため世禄百二十石の藩士が住む所としては不適当であり、継之助が十六歳のとき長町へ移ることとなった。
父は河井代右衛門秋紀、長岡藩勘定頭などを務めた有能な藩士で火付改・吟味役・蟷座掛・入役掛・京都詰・武器頭などの主に勘定方諸役を務めた。また、他方で号を小雲・聴松庵などとも称し、茶道をたしなみ、刀剣の鑑定にも秀れ、僧良寛とも親交のあった文化人であった。
兄弟は姉三人、弟一人、妹二人。そのうち長女のいく子は異母姉で藩医武回庵に嫁し、二女ふさ子は公用人佐野与惣左衛門の妻、三女千代子は弓術師範根岸勝之助の妻、弟健吉は夫逝、四女安子は同藩士牧野金蔵の妻、五女は天逝。姉妹の夫たちは戦争中、小隊長になるなどして継之助を陰で支えた。
幼い頃の継之助は、はなかなかの腕白ものであったという。親の指図はきかないし、負けず嫌い。両親は、我慢強く膿のすわった継之助に期待していた。
嘉永二年頃までは、継之助は城下長町の少年を中心に「桶宗」という青年グループに属していた。首領は伊丹市之丞という神童で、藩儒山田愛之助の指導をうけていた。グループには市之丞の弟の川島鋭次郎(後の三島億二郎)、河井継之助、小林虎三郎らがいた。市之丞は天逝して世にでなかったが、このグループから、後に長岡藩を背負うものたちがでた。
子供の頃から継之助は読書好きで有名で、それも書物を丹念に写しとった。夜などは四角の行燈の三方を紙で囲んで、一方を明るくして、遅くまで勉強したり、読書していたという。古賀茶漢の久敬舎に入門した際、書庫に入り『李忠定公集』をみつけるや、以後、寝食を忘れて読み写し、大冊十二巻をまたたくまに筆写したと伝えられる。
長岡藩は文化五年(一八○八)に藩校崇徳館が開校、京都詰になった藩士が古義堂に入門した。寛政の頃撰抜された山田愛之助らが藩費で江戸遊学をしてからは江戸遊学が一種のブームとなったらしく、私費でも江戸遊学を果たすものが続々とでた。
継之助もまた江戸遊学を熱望し、再三遊学願いを出した。長岡藩では遊学には藩の許可が必要で、継之助も二十七歳の嘉永六年春に許可され、旅立ったというのが定説である。この際、多くの書生達はほぼ朱子学を志したが継之助が志したのは今後継之助の運命を大きく左右する「陽明学」という学問だった。
継之助は最初、斎藤拙堂の門に入り、ついで古賀謹一郎の久敬舎に移った。また同時に佐久間象山の門人となった。しかし、継之助はどうやら象山の世界観に批判的ではなかったかと云われる。後に腹心の望月忠之丞に「佐久間翁は、豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。しかし、象山は継之助が苦労して筆写した『李忠定公集』を激賞して、筆隷で標題を題簸に書いてやっている。
嘉永六年、在府の同輩とともに藩主へ建言を行ったが、その内容は伝わっていない。今泉鐸次郎著『河井継之助傳』によると、過激な内容であったが藩主忠雅に注目され、「いまの時局であるから、用うべき人材である」としたという。
安政1年、継之助は評定方随役に任命されて国元に帰ったが、就職を国家老山本勘右衛門らに拒まれた。理由は藩政を任せられている国家老に相談もなく、まして部屋住の若輩が重職に任命されるはずがないというものであった。
大目付三間安右衛門も同調したため、評定所へ出仕しても、任務を与えられなかった。このため、継之助は一カ月半かニカ月半程度で評定方随役を辞職。その際、藩政担当者を弾劾する改革書を藩主に提出。この件で二十九歳の継之助の心意気と剛腹な性格が藩内に知れることになった。
さらに、安政二年六月、養嗣子牧野忠恭の初入部の際、恒例により、文武に秀でた者が、御前において経史の講義をすることになった。継之助が選ばれたが、「自分は講釈をするために学問をしたのではない」と講義を拒んだ。このためお叱りをこうむった。
以後、山野を践渉し英気を養った。
十七天に誓って輔国に擬す
春秋二十九宿心賠る
千載此の機得べきこと難し
世味知り来った長大息
英雄事を為す宣縁無からんや
出処唯応に自然に付すべし
古自り天人定数存す
好し酪睡を将って残年を送らん
上の詩は不遇時代に継之助が詠んだ物である。
継之助の前半生が凝縮したかのようであり悲憤の詩といえる。
安政四年、父が隠居したので、河井家を継いだ。翌年の秋、外様吟味役にあげられ北組宮路村の紛擾を解決するなど継之助の腕前はこのときすでに「なかなかのもの」であった。
安政五年十二月二十七日、再度の遊学願いが許可されて、翌日出立。碓氷峠の氷雪を踏破して、翌安政六年一月六日、江戸藩邸に到着。宿願の遊学で、その時の詩に、
時に恩書を得て宿欝空し
多年の雌伏又雄と為る
名を避け世を避くるは真に倣し難し
始めて脱す奨籠困苦の中
とある。恩書は遊学許可証、宿欝とは謹慎中の四年間を指す。
安政六年、継之助はついに備中松山に旅立つ、四月二十四日付で両親に宛てた手紙では、「経済有用の学問を修めるため、備中松山藩の山田方谷のところへ行く」といっている。いままで継之助にとって師とは何かに一つ秀でた存在であってその何か一つさえ学び取ればよいとしていた、しかし方谷との出会いは継之助のそれまでの師匠感を全く変える、まさに運命の出会いであったといえる、後日「天下の英雄方谷先生に及ぶものなし」と評価している。
継之助は西国遊学の記を「塵壼」と名づけ、途中の見聞を両親への土産としようとした。安政五年暮れの長岡出立から翌年六月四日の久敬舎退塾までが前文。本文の紀行文は三つに大別でき、安政六年六月七日江戸出立から七月十六日松山到着までの各地の民情視察、山田方谷のもとで従学した日々の記録、そして方谷の留守中、四国・九州を見聞した紀行文にわかれる。そのほか遊学中に読んだ書籍、金銭出納の控、方谷の語録などが記載されている。継之助を知る基本資料のひとつ。長岡市立中央図書館所蔵。
備中松山に到着後、当初方谷は初め教授する暇はないと継之助の入門を断ったが、継之助は「われは先生の作用を学ばんと欲する者、区々経を質し、文を問わんとするにはあらず」といって、入門を許された。そのご約1年にわたる松山での生活中、継之助は王文成・李忠定などの文集、陸宣王の奏議類の読書のほか、方谷と談論することを好んだといわれる。朋輩三島毅、会津藩の土屋鉄之助・秋月悌次郎とつきあったのも備中松山時代である。
安政六年十月五日から十三日間方谷が京へ出仕していたあいだ、継之助は長崎まで足を伸ばした。その間、会津藩士の秋月悌次郎とともに唐館・蘭館などに外国人を訪ねた。幕府の船将矢田堀景蔵と知り合い、幕艦観光丸に搭乗した。この際、外国に関する知識を得た。後に、この時得た感想を義兄梛野嘉兵衛宛へ一書をしたためている。それによると天下の形勢はおそかれはやかれ大変動する。撰夷などと唱えるものは愚昧だ。隣国との交際は大切にしなければならない。我が長岡藩は小藩だが藩政をよく治めて実力を養うことが大切だと述べている。
継之助が方谷のもとを去ったのは四万延元年(一八六〇)三月のこと、その際、継之助は王陽明全集を四両で譲りうけた。方谷は全集の空白に千七百字の送辞を記している。
「公の書を読む者、その精神に通ぜず、その粗迩に泥まば害ありて利なし、生の来たる、その志は経済に鋭く、口は事功に絶たず、かの書を読み、利を求めて反って害を招かんこ
とをおそるる」
継之助はこの文集と一瓢酒を肩に振り分けにし、ほかは何物ももたず、川を渡り、対岸に立つ方谷に沙磧のうえに幾度も脆坐作礼して去ったという。後にも先にも継之助が土下座して感謝したのはこのときだけである。
方谷のもとを去ったのち、継之助は山陰をまわり、江戸に帰り三たび久敬舎に入塾した。その後、文久元年(一八六一)夏に帰国、以後、家老牧野市右衛門宛に何度か藩政改革の意見書を提出したが、応答がなかった。
ちなみに、継之助の号は「蒼能窟」という、この号の由来には諸説あり、長岡の郷土史家今泉鐸次郎は、文久三年(一八六三)の詩にはじめて「蒼龍窟」とでてきたので、これを説明して「邸内の松樹を愛し、喬松が高くそびえて屈曲していて、緑のきぬがさが地を掩うようになっている」のにちなんで「蒼龍窟」を号としたという。司馬遼太郎の小説「峠」でもこの説を採用している。
しかし同じ郷土史家、鷹藤龍馬と小林安治は、禅の『碧巖録』が典拠ではないかと主張している。なぜなら、王陽明が竜場の難の途中に作ったという「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」を継之助は愛諦している。王陽明も禅に熱中したことがあり、『碧巖録』の第十八則には蒼龍、第三則と第九十九則には蒼龍窟の語がでてくる。継之助が禅を学んだ際に選んだのではないかという。
|藩政改革時代
文久三年の早春、継之助は長岡藩の公用人として出仕上洛した。その頃、長岡藩主牧野忠恭は会津藩主松平容保の京都守護職の下の所司代を務めていた。継之助は京の形勢を達観し、所司代の職が容易でないことを悟って、藩主に辞職をすすめた。しかし、進言は容られず継之助はしぶしぶ帰国した。
元治元年、出府と同時に継之助は藩主の老中職就任に痛烈なる意見書を提出し、重役と論争し屈服させた。さらに支藩の笠間藩主牧野貞明に「辞職が長岡藩のためになる」と論争し貞明を痛罵したという。このため忠恭は継之助を退席させ、帰郷を命じた。
元治元年頃、継之助は義兄梛野嘉兵衛宛の書簡で長州征伐の非を説いている。
長州征伐の前途を憂い、幕威の失墜は第二第三の長州藩を出し、尊王撰夷論者の愚かさを嘲り、外国船を砲撃した薩長両藩の無謀を憤慨し、かつ開国進取主義をすすめ富国強兵こそが第一義だと述べている。
慶応一年、山中騒動がおこった。山中村では前々から小作人と庄屋、庄屋徳兵衛の家の内紛などがあり、代官・郡奉行は解決できないでいた。継之助は長岡藩の外様吟味役に就任するや、関係者一同を長岡に召喚して精査。情理を尽くして説諭したという。双方が出訴を取り下げるやいなや庄屋・農民らを喧嘩両成敗の形で罰し、難事件を解決させた。この功により抜擢され、郡奉行の要職に就くことになった。
このころより継之助は次々と藩政改革に着手してゆく。継之助がめざした目標とは、長岡藩財政の立て直しであった。長岡藩もほかの藩と同様藩財政の借金に苦しんでおり、藩財政の立て直しが第一の急務だった。
まず最初に行った具体的な改革としては、郡奉行就任時、村方の庄屋らは慣例により祝儀を贈ったが、継之助は無用として持ち帰らせた。
人材徒用
藩政改革を進めるにあたり、まず継之助が行ったのは人材の徒用である。村松忠治右衛門を勘定頭にあげ、勘定役所の旧弊を改め、家中の扶持米も引き直し、勝手方の経費の切りつめをやらせた。また旧来から継之助を慕っていた三間・花輪のほかに民政を担当していた代官・郡奉行級から小金井儀兵衛・萩原貞左衛門・村松ら、なかでも藩医小山良運の意見を最も重要視した。
増収策
長岡藩の領地には信濃川が貫流していて、水害が多かった。水害にあった土地は水腐地と称して、五カ年の納税を免除する定めがあったが、代官や地元民は結託して無税の年限を延ばしたりしていた。継之助は村松とはかり、私曲の噂のある代官を罷免し、調査を行い、年に六千俵の増収をあげた。
さらに、いままでの行法を改革するとともに、水害を防ぐ施策や田や沼に樋を入れることによって生産を増大することを行っている。たとえば毛見の本陣を御蔵に変更し、従来、割元庄屋で行っていた過分な酒食の饗応、賄賂・請託等をやめさせた。
その一方では領地内にある三潟に新しい樋を布設し海水の逆流を防ぎ、中ノロ川の改修を推進して、米の増産に努めた。そのほか、田地の売買の裏書料をとることをやめさせ、相対の救助法を設け、凶作や水難の際の手当米を定めた。
町政の改革
四町奉行も兼ねることになった継之助は、町政を預かっていた検断職の草間・宮内・太刀川の三名を奉行所に呼び出し、奢移の風を糺し、その職を廃止させた。
また産業振興策をとり、入役銀・河税の廃止や株(船乗・肴屋・湯屋・髪結`髪付油・青物問屋)に対しての一部特権を廃止させた。なお、町役人の数を減じ、その給与規定も
改正させた。
また、新たに寄場と称する懲役場を蟻座役所跡に設けた。不浪のものを取り締り、労役を課し、賃銀から食費を除いた残金を積み立て放免の日に与え、時々一堂に集め場長みずから心学本を読み聞かせて、囚人を更生させた。このため領内の遊民不浪の輩は減少し、風俗は一新した。
賭博の禁止と遊郭の廃止
当時、末端の治安を荷う目明しは、賭博を渡世にしていたが、継之助は風紀に及ぼす害毒の多さを説得して禁止した。
長岡城下には横町と石内に遊郭があった。継之助は両町の楼主たちを町役所へ呼び出し、売女などは旧弊の源であるとし廃業を申し渡した。
廃業にあたっては資金を貸出し、娼婦には旅費を与えた。この遊郭廃止は継之助の遊び好きに反しており、一首の落書があった。
河井かわいと今朝までおもい 今は愛想も継之助
財政面での改革
財政面での改革としては、第一に藩債の整理に着手し、領内吉田の豪農今井孫兵衛からの借金三万両を棒引きにした。そのうえに献金させた。主として藩費の節約をはかり徴税の改廃等を行い蓄財に努めたが、多くは兵備が急を要するとして、領内に御用途金を申しつけた。このため、慶応三年暮れに剰余金高は九万九千九百六十両となった。
学制の改革
藩校崇徳館を朱子学派の一学派に統一するとともに、組織を改革し校規の厳格化を図った。また崇徳館内に造士寮を設け、寄宿制による人材養成を行った。
兵制改革
城西の中島に操練場を造成し、兵学所もそこへ移した。射的場は百間もある大きさで、藩兵をフランス兵制の三個大隊に組織して訓練を行った。兵制改革にあたっては、幕府の蕃所調所教授となった鵜殿団次郎の意見を採ったという。なお、鵜殿の実弟白峰駿馬は土佐の海援隊に入つている。
さらに継之助は藩兵の西洋式装備を積極的に推進した。まず各戸に一挺ずつミニエール銃を配備した。兵器は継之助と親交のあった外国人エドワード・スネルとファーブル・ブラントから購入したと云われる。
長岡藩の兵制改革は非常に短時間の内に行われた、これは継之助の手腕によるものであるが、ファーブル・ブラントから購入した書籍からの知識によるところが多い。慶応三年九月の受領証に歩兵操練書・地理書・施條銃論などを八両一朱と三百文で購入していることがわかる。元掛川藩士の福島住弍は横浜のファーブル・ブラントの館で、継之助がフランスの兵制・兵器を一所懸命に研究している姿を見たと、後年語っている。
|開戦~最期時代
慶応3年10月、継之助の元に大政奉還の知らせが舞い込んだ。
長岡にいた継之助は、江戸へ急行。牧野忠恭・忠訓の二君に「天下の大勢は一変した。この時勢に長岡藩が傍観するだけでは、徳川氏に義理を欠き、王臣の道にも背く。牧野家は老中・所司代職も務めたのだから、上京して公武間の斡旋をしてはいかがか?」と進言した。
忠訓はこの進言を容れ、上洛することに決定、継之助ら六十余人を従え、幕艦順動丸に搭乗し大坂へ向かった。
上京した継之助は幕府と朝廷の間に入り、「徳川氏を弁護し、再び政権を復すことこそ道義でございます。」と説いた。この大胆かつ思い切った行動は、継之助本人にも先が見えない行動であり、大きなもめ事もなく朝廷に受理されたことを素直に喜んだと伝わっている。
上京に際し、継之助は当時の幕府筆頭老中であり、備中松山藩藩主である板倉勝静に継之助の見る今後の見通しを進言した。その内容は「戦うよりも一日も早く関東に引き上げ、まず内政を治め、時機を待とう、もし戦うとすれば京を守る兵はたかだか五千名。大津口・丹波口その他四辺の要路を絶てば、糧食窮乏してみずから潰れるはずです。」という物だった。しかし、会津、桑名の武将らの憤怒はすで頂点に達しており、この進言は受け入れられることはなかった。
そして、鳥羽伏見の戦い、大坂の玉津橋を警備していた継之助率いる長岡藩兵は慶喜らの遁走を聞く。「やはりか、まぁそれしかあるまいな。」
継之助の行動は意外と淡々としていた、継之助ら長岡藩一部対は大和路から伊勢に入り、松阪にでて海路、三州吉田を経て江戸に帰ることに。
藩主一行より先行して江戸に帰ってきた継之助は、意外に平穏な江戸の驚いたという、そして形勢を観望し、会津・桑名藩士と大槌屋で議論したり、藩邸の財産を処分し、兵器を買ったりした。
そもそも長岡藩にはこの当時流行していた攘夷思想があまりなかった。これは長岡藩に水戸学や国学の流れは少なく、六・七代藩主が賀茂真淵の門人となったほか、水戸学は筆頭家老の稲垣平助が影響されたが、いずれも少数で、幕末にはほとんど学ぶものもいなかった。藩学は実利を重んじたため実学を学ぶものが多く、洋学は流行のように藩士間に蔓延した。一方、藩主が海防掛老中職にあったため横浜などの異文化に触れるものが多く、懐夷思想は育たなかったからといわれる。
そんななか、継之助が打ち立てた思想とは「独立中立」という当時では考えられないような物だった。「我が藩は独り、その領地を守る」と主張した継之助は、時勢に任せず、藩の主体性を確立させようとした。継之助はこのとき「勤王佐幕の論外に立ち」と藩兵出兵の際に演説している。継之助率いる長岡藩は結果的には佐幕だったが、このころにはまだ完全な佐幕ではなかった。しかし薩長からしてみれば「独立中立」などは全く受け入れることのできる物ではなく、「長岡=佐幕」の公式が成り立っていた。
慶応四年初期、河井継之助はついに長岡藩の家老となり、筆頭家老稲垣平助は排斥されて兵学所取締の閑職となると、山本帯刀・牧野図書・稲垣主税の家老も継之助に従い、長岡藩は継之助の強固な支配体制を確立させていた。
そんな中、新政府軍の長岡藩に対ずる三万両の献金と出兵の命が下る、しかし継之助はこれを無視した。この時、継之助にどういう企図があったかは不明だが、小千谷会談の冒頭に、まず詫びている。
そして運命の小干谷談判、有名な会談であるが真相は謎にみちている。相手側の岩村精一郎は東山道軍の軍監であり、継之助も単身(二見虎三郎随行)で乗り込んだ。継之助は長岡藩の立場を述べるとともに、会津藩との間を調停してもよいと提案、しかし岩村は長岡藩の挙動を疑い、会津に与するものだと決めつけた。岩村が話し合おうとしない姿勢に、大村益次郎の遠略説があったというものもあるが、謎の多い会談といる。
何にしても継之助が思い描いていた理想はこのときに打ち砕かれた、若干24歳の軍監・岩村は継之助がいかに「独立中立」を説いても全くとりつく島さえなく、運命の会談は全くの破談となってしまった。これにより長岡藩の決起が決定図けられる、もしここで岩村でなく、ほかの人間であったならばその後の日本の未来も変わっていたという人間も多い。
小干谷談判決裂の翌々日の五月四日、長岡藩は越後五藩とともに奥羽越列藩同盟に加盟した。
慶応四年五月、遂に新政府軍は越後に進軍してきた。対して越後口に出兵する会津藩兵は、旧幕府脱走の衝鉾隊と合して、主力を小出島(北魚沼郡小出町)と小千谷(小千谷市)に置いた。
小千谷会談の翌朝、継之助は前島村にいた川島億次郎に昨日の様子を伝え、新政府軍の横暴を訴え、開戦もやむなしと同意を求めた。そののち、日頃、非戦をいう川島と同行して、摂田屋村の本陣に諸隊長を集めて開戦の演説をした。長岡軍は三個大隊の編成で、兵力はおよそ千三百余名。
継之助はこの戦争に勝つ自信があったといわれる。それは新政府軍側の薩摩・長州を中心にした兵力に限りがあること。戊辰戦争の展開が、同盟軍に有利になれば、新政府軍に参軍している各藩は同盟軍に同情的であるから、寝返る可能性があること。そのほか地の利の雪国の特性を生かせば、南国の兵は敗れるであろうと予測していた。
実際戦況は最初、同盟軍有利だった。戦術拠点としての朝日山の重要性を最初に着目した同盟軍は山頂を占守し、桑名藩士・立見鑑三郎を指揮者にして猛攻を撃退した。
しかし戦況は一気に変わる。長岡城下の西には大河信濃川が流れている。対岸には新政府軍が城下に向かって砲撃を開始していた。守る側は藩境に多数派兵しているので手薄であったが、折からの洪水に助けられていた。そこへ川霧を利用して新政府軍百名が強行渡河していっきに長岡城を落城させた。
落城の前日、信濃川畔を視察した継之助は、守衛する兵士に「二日間維持せよ」と伝達した。継之助は一個大隊半の兵を上流から渡河させ、一隊は小千谷本営、もう一隊は対岸の敵の背後にまわって攻撃するという作戦を企てていた。
長岡落城の知らせを聞いた長岡軍は 主力の半隊が救援に駆けつけた。長岡藩本陣にいた継之助はガトリング砲一門を従えて救援に向かい、城門でガトリング砲をみずから発射している。多くの兵士は城下で戦死することを望んだが、落城がはやく、果たせず加茂まで落ち延びた。
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継之助は長岡城奪還を藩兵に説得し、より結束を固めさせ、藩兵を会津へ落ち延びさせず、加茂(加茂市)に転陣を決めた。そして「今町の戦い」、街道を進む軍が牽制軍となり、左右に展開した本隊と別働隊が新政府軍の弱点を衝き、敵の背後にでて包囲繊滅する戦術をとった。地の利を使い、わずかな兵でも大敵を倒すことのできる戦法であった。
慶応四年七月二四日、長岡城東に位置し、魔蛇が棲むと怖れられていた八町沖を、長岡藩兵の決死の兵たちが渡渉して長岡城の奪還を成功させた。世に言う「八丁沖渡河戦」である。六百九十余名の長岡藩兵は敵中に飛び込み、新政府軍を敗走させた、この戦闘の際、継之助は長岡城下新町口で左膝を鉄砲弾に撃ち抜かれた。激戦となっていた新町口に督戦に赴く途中ということであったが、戦傷のことは側近に箱口令をしいた。長岡藩兵の士気が衰えるのを怖れたためで、手当もさせなかったという。
奪取した長岡城は、継之助の陣頭指揮を得られないまま、反撃してきた新政府軍によって落城した。新政府軍の立ち直りのはやさは山県狂介参謀の手腕によるところが多い。乱軍となった新政府軍を妙見村付近でまとめあげ反撃に転じ、四日で再度、長岡城を落城させた。
再落城後、長岡藩兵とその家族は、会津へ洛ち延びることになった。阿賀川沿いを遡上する津川口が新政府軍にいち早く押さえられたので、八十里越が会津への唯一の通路となった八十里越は越後の下田から、会津の入叶津に抜ける一里が八里に相当するという険しい山道。継之助は特製の担架に乗せられ山中に一泊して越えた。自嘲の一句がある。
「八十里こしぬけ武士の越す峠」
継之助は越後の山野を振りかえり涙ぐんだという。
自身の死を悟った継之助は備中松山出身の商人に「先生の教えを守った」と山田方谷師に伝言乞頼み、藩主の弟鋭橘公をフランスヘ亡命させるよう手配し、己の身を人葬にすることを命じた。
慶応4年8月16日 殉す 享年42歳
参考文献
塵壺「河井継之助日記」 安藤英男校注 平凡社
峠 司馬遼太郎著 新潮社
歴史読本 河井継之助 薩長に挑んだ男 新人物往来社
河井継之助のすべて 安藤英男編 新人物往来社
河井継之助と明治維新 太田修著 新潟日報事業社
炎の陽明学 矢吹邦夫著 明徳出版社
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