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|松山藩財政、待ったなし

元締役を引き受け、初めてみた備中松山藩の財政の実態は方谷を愕然とさせるに充分な、彼の予想を遙かに上回る物だった。

藩の借入金は総額10万両を越える膨大な物であり、その利子により藩の借金は雪だるま式に増え続けていた。

さらに、その膨大な借金以上に方谷をうならしたのは、公称5万石であるはずの備中松山藩の年貢米が、実は2万石にも満たない1万9300石にすぎないと言う事実だった。

「完全な粉飾決算だ、藩民への渡し米が6千石、残りの米を銀に変えると1万9千両、そのうち藩の運営に必要な金がざっと見積もって1万8千両、高梁川の通行料や森林の木材販売の雑収入はことごとく利子の返済に消えてゆく・・・」

このときの松山藩の実体経済はすでに破綻を来していたものを、粉飾決算で補うという目を覆いたくなるようなものだった。

「このままでは、飢饉でない通常の年であっても利子の返済すらできない・・・多少の倹約令を出したところで利子の返済程度にしかならない・・・どうする・」

当時の藩財政は米の収穫高を基準とする「米本位制」を取っていた。このため百姓は「生かさぬように、殺さぬように」といわれ、ぎりぎりの年貢米の搾取が続けられていた。

武士階級の人間は藩財政の危機と言っては百姓に過酷な租税を強要し、やる気をなくした百姓たちは一揆を起こしサボタージュにはしる、結果・坪当たりの米の生産性も低下の一途をたどっていた。

しかしその一方で、当時の日本にあってもすでに資本主義経済が発生しており、年貢米に縁の薄い豪商達が台頭、銭勘定やそろばんを忌み嫌うよう教育された武士達をいいように利用し、私腹を肥やしているという実体があった。

江戸時代末期にあって方谷は資本主義経済のからくりを今の私たち以上に深く理解していた、その知識は幼いときから学び続けた儒学で中国の四千年の歴史の中で繰り返された資本主義経済を学んだことが大きい。

「もはや米本位経済と従来型の倹約令では備中松山藩を立て直すことはできぬ、金本位経済でできあがった借金は金本位経済を持って償却するしかない」

方谷の藩政改革が始まる。

|方谷、大阪へ

 

寛永三年、藩主板倉勝静の帰国と共に方谷の藩政改革が始まった。

方谷は藩の財政収支状態を詳細にわたり藩主勝静と松山藩の老中達に報告した。その内容は勝静をはじめ老中達の背筋を凍らせるものであった、そしてそれ以上に藩士達を驚かせたのが、10万両の借金に対する方谷の決意だった。

「藩の帳簿を債権者である両替商にすべて公開し、今までの粉飾決算を明らかにする。その上で話し合いをするほか解決の道はない。」

当時、大名に金を貸す両替商を江戸では金主、上方では銀主といった、松山藩の借金も鴻池加島屋や天王寺屋といった銀主からのものだった。方谷の決意とはこの銀主たちに松山藩の財政すべてを公開し、借金の一時棚上げを要請する、といまさに現在で言う「会社更生法」そのものと言っていい方法だった。

「そんなことをすれば、銀主達の怒りをかうだけだ、・・・もう、金も借りられなくなる・・藩も立ち行かなくなる・・」
家老達の心証はいかばかりのものだったであろうか。

「松山藩は今後一切借り入れをいたしません。この改革にはその覚悟が必要です。」方谷は淡々と語った。

大阪に向かった方谷は債権者である銀主を一斉に集めた。通常、債務者と銀主との交渉は密かに一対一で行われるのが定積である。
一斉に集められた銀主たちのまえで方谷は松山藩の帳簿すべてを公開、それまでの粉飾決算を明らかにした。

「備中松山藩は現在約2万石の収入しかございません。このままでは利子はおろか銀主の方々からお借りした元金すら返せる見込みはございません、どうか10万両の借金を一時期棚上げしていただきたい。」

方谷のとった行動はまさに異例づくしのショック療法とも言うべきものであったが、驚愕する銀主達をさらに唖然とさせたのが各銀主に示した詳細緻密な松山藩の再建計画と支払い計画だった。

銀主たちの認識では、武士とはそろばん経済に弱い儲けのための絶好のカモであった、そこに突然と現れた自分たちを遙かにしのぐ経済的感覚を持ってあらわれた方谷に銀主達は度肝を抜かれ言葉を失ったという。

方谷に話はまだまだ続く、
「現在担保となっている今年、そして来年とれる米の抵当を抜いていただきたい。年間1千両の管理経費のかかっている蔵屋敷も廃止いたします、米は藩で有利な時期に売り、負債は現金にて支払います。」

蔵屋敷とは各藩がとれた米をストックし、市場で現金化するための施設である、中でも大阪は日本最大の米市場であり各藩共に大阪に蔵屋敷を設置していた。
米相場は月々変化する。経済の原則では「高いときに売り、安いときに買う」である、しかし実際の当の蔵屋敷付きの藩士達は取引を銀主たちにまかせっきりにし、自分たちは藩の金で贅沢の限りを尽くす生活をしていた。

「この男の改革は本物だ・・・」鋭い経済感覚を持つ銀主達にとって、方谷の改革の内容は充分に説得力のあるものであり、この時点で山田方谷という人物のそこじからを感じ取っていたのであろう。銀主達はこの異例中の異例である方谷の提案を快く承諾した。

 

|方谷改革の痛みとは

 

改革には痛みが伴う。この「痛み」最近はよくテレビで耳にする言葉だが、方谷の藩政改革にあっても当然痛みはあった。

方谷は藩政改革の第一歩としてまず行ったのは節約令の発布だった。その内容は悪名高い「天保の改革」にも劣らない熾烈過酷なものであった。

一,年月を期して藩士の穀録を減ずる。

一,衣服は上下共に綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる。取次格以上は常服を裃(かみしも)とし中小姓以上は尻割羽織、十分以上は丸羽織、十分以下は羽織とする。地は麻、袴は夏は麻、厳冬は小倉織とする。

一,簪(かんざし)は士分の婦人は銀かんざし一本、以下は真鍮かんざし、櫛などは木竹に限る。

一,足袋は九月節句から翌年四月までに限る。

一,饗宴贈答はやむを得ざる他は禁ずる。飲食は一汁一菜に限る。吉事酒を用いるときも一肴一吸に限る。領分中これに準ずる。

一,結髪は男女とも人手を借らず。

一,家政は主婦がこれに当たり、やむを得ざる他は下婢を使用せず。

一,奉行代官等、いささかの貰い品も役席へ持ち出す。

一,巡卿の役人へは、酒一滴も出すに及ばず。

まずはトップが事を示そうと、酒好きの藩主勝静は晩酌を三合でやめた。
方谷は倹約令の発令と共に減禄を申し出た。もともと方谷の俸禄は藩士達の反発も考えて大蔵大臣でありながら中級武士並に抑えられていたが、さらなる減禄である。

その上、方谷は自分の家の会計出納すべてを第三者である塩田仁平衛に委任し、政治家としての家計をガラス張りにするという、いまでいうディスクロージャーを実行した。

方谷のこの行いは藩民藩士の信頼を得るのに非常に有効な手だてだった、方谷改革中、改革をあからさまに反対する勢力が現れなかった事がそれを物語る。

この方谷の改革は、上も下もの節約をうたっているが、その信念として徹底的な弱者保護が盛り込まれている。その当時の百姓や下級武士は限界を超えた年貢の取り立てや減俸に継ぐ減俸で、もやは倹約令どころではない生活を強いられていた方谷の弱者に対する痛みとは「これ以上の搾取はしない、何とかあと少し現状で堪え忍んで欲しい」というものだった。

そんな百姓達にとって、最後の2条などを見てもこの倹約令はむしろ喜ばしいものたったようだ。そして、百姓たちが最も喜んだのが藩内40カ所に設置された米の貯蔵庫だった。

この貯蔵庫、大阪の蔵屋敷を廃止したことにより建設されたものだが、いざ飢饉が訪れた場合、すぐさま飢えた民百姓にこめを緊急配布するための「義米庫」となった。方谷は「命の保証」という最低限にして最大の保証を民のために実施した。

以後、備中松山藩では、百姓一揆はピタリと消え、どんな飢饉の時にもひとりの餓死者も出してはいない。

 

|経済のV字回復

 

藩財政の再建をする上で、借金の棚上げ・節約令と矢継ぎ早に政策を実行
次ぎに着手すべきは藩内の産業の振興策だった。

方谷は「撫育局(ぶいくきょく)」と名付けた役所を新設した。この撫育局、藩内で生産した米以外のすべての生産物の管理流通販売を手がけるというもので、藩内のすべての生産物の集中管理専売事業を目的とした。

中でも方谷が最も力を入れた産業振興品は「鉄」だった備中地方は古くから良質の砂鉄がとれることで有名で、方谷はまず鉱山の開墾を藩の直営事業とし、さらに周辺の鉱山を次々と買収していった。

さらに高梁川の対岸の近似地区に大製鉄工場を建設、鍬や鋤などの農耕道具を次々に生産した。

(このとき、方谷のバックにつき、莫大な資金を提供した矢吹久次郎という人物がいる、方谷の私塾牛麓社の門下生であり、天領新見上市の庄屋であるが、彼についてはのちに語ろう)

注目すべきは、地理的にも近く天下のまかないどころである大阪では荷は降ろさず、日本最大の人口を抱える江戸で事業を展開した事だろう。

当時の江戸は人口百万人を越える世界的にも最大級の都市であり、その人口の8割が百姓である、藩直営による製造販売で、中間マージンをカットし割安で品質の高い松山藩製の農耕器具は瞬く間に人気を博した、農機具の中には3本歯の「備中鍬」など、松山藩のオリジナル商品もあり、生産が追いつかないほど売れに売れた。

この鉄製品の販売利益は事業3年目にして3万両を突破、翌年には減価償却も終えさらにいっきに5万両をかせぎ出した。

さらに方谷は鉄製品だけではなく、従来からの特産物であった煙草や銅、ゆべし(お菓子)といったものも増産を奨励し次々と「撫育局」でさばいていった。

そして米、大阪の銀主から抵当を抜き、取引の自由となった米は方谷の手により相場に応じて売られていった、こちらも年により違いはあったがおおよそ3千両から6千両の利益を生み出してゆく、備中松山藩の経済状態は驚異的なスピードでV字型の回復を見せていった。

 

|松山藩、貨幣刷新

 

江戸時代の貨幣経済では、幕府の発行する金貨、銀貨、銅貨の貨幣、そして各藩の発行する藩札が流通していた。藩札とは各藩が幕府に許可を得て発行する紙幣である。

藩札は原則として兌換紙幣であり、藩は交換を要求されるといつでも同額の金や銀など正貨と交換しなければならない義務をおった。しかし現実には貧困にあえぐ諸藩は交換準備金である正貨をも使ってしまい、ほとんどの藩札は不換紙幣と化していた。

備中松山藩の場合もご多分に漏れず、準備金のないままの増刷によるインフレ、その上偽札まで出回って、藩の発行する5匁札は藩民の信用をまるで失っていた。

この藩札の改革に於いて、方谷は信じがたいおふれを改革開始と同時に出した。「世に流通している5匁札を、3年の期間内ですべて買い取りいたします。」
この爆弾発言は藩の財政担当者にとっては完全に理解の範囲を超えていた。

「いくら、10万両の借金が棚上げになったからとはいえ、藩政改革はまだ始まったばかり、いったい何を考えているのだ!」そのうえ方谷からの指示は
「滞ることなく両替をすすめよ」というものだった。担当者からしてみれば、まさに絶望的な気持ちになっただろう。

しかし、方谷にはある確信があった。以下は「炎の陽明学-山田方谷伝-」より引用である。

『市中に出回った金は、必ず次の経済の芽をはぐくむ。人々が末期的な社会不安におびえて懐を必要以上に締め付けたとき、流通経済の動きが止まって腐臭を放ちながら瓦解してゆく経済の鉄則を、方谷は江戸時代の、否、日本の過去のいかなる人物よりも鋭く、明確に理解していた。貨幣をスムーズに循環させ、ひたすら家中に死蔵させぬ今一番の最善の方法は、社会不安を取り除くこと、すなわち、藩の威信を取り戻すことにある、と方谷は確信していた。』

両替金の算段はさぞ大変なことであっただろう、方谷の読み通りこの大騒ぎも収まり、両替期限の3年が経過した9月、方谷一世一代のデモンストレーションが高梁川河川敷にて行われた、3年間買い取り続けてきた5匁札を一斉に焼き払うというのである。

このデモンストレーションには、事前に大キャンペーンがしかれ、当日は高梁川河川敷には大群衆が訪れた。河原にはうずたかく積まれた5匁札の山がいくつも見える、定時、颯爽と方谷が現れると5匁札の山に次々と火が放たれた。

観覧客から口々に「もったいない、もったいない」のこえが思わずでる、朝8時より行われたこのデモンストレーションは夕暮れ4時までかかりようやく終了した。この一大デモンストレーションは藩の威信を取り戻すのに絶大なインパクトを与えたのは言うまでもない。

その後、鉄の事業成功により巨額の両替準備金を得ると、方谷は満を持して「永銭」という新しい藩札を発行した。この永銭は発行されるや絶大な信用を民衆から得た。永銭の信用力は松山藩を越え他藩にまで流通した。

永銭は松山藩を越え他藩にまで広く流通した。永銭の流通量が増えるにしたがい、藩の倉庫には両替準備金である正貨がうずたかく積み上げられてゆく、方谷は棚上げにしてもらっていた10万両の借金を当初の約束より遙かに速いペースで前倒し返済をしていった。

わずか8年のあいだに10万両の借金は、10万両の蓄財へと姿を変えた。

|方谷の軍政改革

 

方谷がまだ藩校有終館の学頭だった時代、彼は新しい砲術の研究と軍政の改革の必要性を感じ、親藩である津山藩に西洋銃陣の大要をならいに行っている。

備中松山藩は人口5万人前後の小藩であり、藩内の軍事力である士族は全人口中の5%前後に過ぎず、これは薩摩藩の20分の1と余りにも頼りない。

方谷が松山藩の総理大臣になった頃にはすでにアヘン戦争が勃発、中国が敗戦するなど欧米の列強の影がちらりほらりと見え隠れする時期であり、軍隊強化の必要性を強烈に感じていた。

しかし松山藩の武士達に西洋銃陣を会得させるのはいささか無理があった、西洋銃陣とは横並びの兵が銃を持ち指揮官の指揮の元一斉に攻撃するという軍隊編成であり、当時の「一対一、正々堂々」といった戦争になれていた武士にとってはとうてい受け入れられるものではなかったのだ。

そこで、方谷が着手したのが藩の85%もの人口をしめる農民による「農兵隊」の編成だった。
方谷は比較的金銭的、時間的に余裕のある村々の村長を集めその子弟の中から強靱な若者を選び、「里正(村長)隊」を編成、銃と剣を与え厳しい訓練を施した。

次に、山野を駆けめぐる猟師たちを集め銃隊を編成、若く元気な百姓のこども達を農閑期にあつめ里正隊の教育のもと銃の徹底訓練が施された。この中国の明の歴史から方谷が学んだ農兵隊はやがて千名を越え当時の日本に於いても有数の強力な軍隊の誕生となった。

安政5年、備中松山藩の劇的な藩政改革を聞きつけて、長州藩の久坂玄瑞が備中松山藩に来遊した際、高梁川の桔梗河原での農兵隊の演習に出くわした。

たった5万石の小藩であるはずの備中松山藩のおびただしいほどの軍隊の数に息をのんだという、その軍隊は最新式の銃砲を装備し、号令にしたがって整然と動く、その訓練されきった西洋銃陣に久坂玄瑞は長州の敗北を意識したという。

その上、久坂玄瑞に追い打ちをかけたのが、その軍隊が正規の武士ではなく農民で組織されたものであるという事実であった。

幕末に活躍した長州の「奇兵隊」のモデルになったのが、この方谷率いる農兵隊であったことはあまりしられていない。

|山田方谷と抵抗勢力

山田方谷は中井町西方という田舎の百姓の出身だった。
その当時の日本は封建制度のまっただ中、武士は己が侮辱されたら相手を切って自分も腹をかっさばくといったメンツを非常に重んじる時代だった。

そんな中、備中松山藩主・板倉勝静の鶴の一声によって方谷は現在で言う大蔵大臣である元締役を拝命された。
当然おもしろくないのが備中松山門閥の上級武士達である、その反発はすさまじく、やがて方谷暗殺という噂となり藩内を駆け回った。

また改革をある程度成し遂げ、家臣達に一応の信頼を得た後にも、いざこざは色々とあった。藩主板倉勝静には「幕府の要職に付きたい」という夢があった、安政4年、そんな勝静に千載一遇のチャンスが訪れる、勝静は幕府要職の登竜門と言える役職の奏者番に任命された。通常この奏者番の中から数名が寺社奉行を兼務し、さらに寺社奉行を兼務した大名の中から幕府老中が任命された。

しかし当時寺社奉行になるためには「お手入れ」といわれる賄賂が必要で、その額も公然とながれていた。悩んだ勝静は松山にいる方谷に相談の手紙を送った。そして返ってきた答えは・・

「お手入れの使ってまでの寺社奉行就任はやめていただきたい。藩はこれまで賄賂を厳しく禁止して、違反する物は厳罰に処してきました。殿が賄賂を使って幕閣の出世をはかることは、すなわち藩政改革の厳法を自らが犯すこととなる、お手入れなしで寺社奉行の地位に就けぬと言うのなら、それもまた仕方がないことです」

という内容のものだった、「殿の幕府における千載一遇のチャンスをつぶそうとしている」、という勝静同情論は方谷批判を盛り上げ、またしても方谷暗殺の噂が闊歩した。