平成16年 高梁方谷会総会 記念講演 方谷先生に学ぶ改革の真髄

この文章は平成16年に高梁方谷会総会において滝澤敬司先生が講演された内容をご本人が平成17年高梁方谷会会報用に書き直されたものです。
方谷先生の書かれた擬對策について詳しく研究されております。

 

 

(一)はじめに
私は社団法人日本能率協会の経営コンサルタントとして、四十年間いろいろな企業の改革、改善、のお手伝いをして参りました。引退してから、隅々手にしました方谷全集の中に、理想的で完璧な「松山藩藩政改革の記録」を拝見、感激し、その成功要因を探求して自分の拙かつたコンサルティングの反省をすべきだと思いました。

全集では、漢文、漢詩、候文等々がギッシリ詰めこまれてあり、簡単には解読不能と判断し、方谷先生の事蹟に触れられている書籍入手から始めました。残念なことに、その殆どは、表てに現われた先生の輝かしい実績を紹介することが主で、大同小異、結局全集三巻を読むしかない、と覚悟しました。その間に山田準先生、宮原信先生、濱久雄先生の御著書に最も難解とする漢文・漢詩の現代文訳と、また別の観点では岡山県庁の有志の方々の「山田方谷に学ぶ会」の藩政改革論、矢吹邦彦先生の全集以外の資料を駆使された御著作など入手でき、全集読解に大いに参考にさせていただきました。
お蔭様で、改革成功の要因が潜んでいると考えられる事例・文章・も、少しは物が云えるまでに蓄積できている、と思われましたので、副会長の石井保先生に、少しお話しました処、方谷会で発表してみよ、と機会を与えていただいた次第です。

まだまだ読解も、量も、不充分ですが、私の仕事の体験から、これが要因ではあるまいか、と思う事例がいくつか拾い出せましたので、思い切って発表させていただきました。
(講演では材料の料理が眞に不完全で、御理解いただけぬ点が多かったと思いますので補完の意味で、文章にいたしました。)

(二)改革の全般的構想策定

嘉永二年(一八九四)一二月九日、先生は江戸藩邸で新藩主勝静公から、元締兼吟味役を命ぜられました。それは、藩財政のすべてを委せるから、危機に瀕している藩財政を再建せよ、と云うことです。世臣でもない一学職にこの大任を委ねたことに対し、羨望と嘲笑の声が、渦巻いたのは当然でしょう。

それに配慮した先生の再三の固辞は許されず、拝命しました。純粋で素質のあるこの若き貴公子を、名君に育て上げねば、わが松山藩士、藩民に眞の幸福は来ないであろう、と己が身心を捧げ盡くすことこそ、わが天職と決意されたに違いありません。先生時に四五才、勝静公二七才でした。

拝命後十ヶ月たった嘉永三年十月改革の基本構想も、定り藩主による正式な改革宣言が藩士を集めて行われ、先づ「上下節約令」が申し渡されました。その後直ちに先生は粗衣綿服で大阪に出向し、集めた債主達に対して藩財政の実情を正直に開陳し、財政改革の見通しを説明した上で、負債償還の長期繰延べを要請しました。改革成否を決める重要な第一歩です。

さて問題は、元締拝命から改革宣言までの十ヶ月です。この間に改革の大構想ができたとは考えられません。後述しますが、三ヵ年にわたる会計記録の整理分析により藩の財政状況を正確に把握し改革の目途をつけることと、三百口を越す債主一人一人宛に償還期限の格差をつけた説明資料を作成すると云う、二つの大作業に、十ヶ月は費やされたと思われるからです。それでは、改革の大構想は何時考えられたのでしょうか。

改革の基本構想に関する資料として、全集から三つの文章を見出しました。随筆一、論文二、です。それは天保初期、先生が三十歳前半、朱子学に飽き足らず陽明学に関心が移り、京都より江戸の佐藤一齋門へ移つられる頃のものです。夫々、要約してみます。

(イ)随筆二題(天保元年、二六才頃)
・「天保元年一二月八日。私ハ門ノ外ニ立ッテイタ。租ヲ納メル村民ガ次々ニ切レ目ナク前ヲ過ギテ行ク・・・」で始まり、農民達が一年間苦労して作った米を、お上に納めるために這うようにして役所に運んで来る。一勺の米でも農民辛苦の賜物だ。今や国家が疲弊し、財政は日々窮迫し、この米を大商人に渡しては金の都合をつけている。それに支払う利息は萬を超える。人民の膏血で利息を払っているのだ。お上はその利を受けることなく、下人民は苦労から逃れられない。上下の苦労すべてで、無縁の商人を肥やしているだけだ。そのような有り様が、どうして先君家康公の「国を創め、民を安ずる」という御心に適うだろうか。

・先祖のおかげで、官の俸給を貰い、士農工商の一番上に位して、何もせずに生活できる、士はなんと幸福なことか。身体をすり減らして労働し、収穫した六分は公にとられ、四分しか自分のものにならない、下民はなんと不幸なことか。同じく人間であり、同じく天地の子であるのに、幸不幸か何故こんなにも違うのか。自分は生まれて何故この幸いを受け、彼は何故不幸なのか。よく考えてその本質を明らかにし、納得できるなら、天命を知ると云えよう。

この二つの文は、先生の社会的弱者に対する思い入れの深さの源を示していると思います。そして、此等の人々に幸福を与え、守ることこそが、自分の一生をかけるべき天職であると、密かに決意されたのではないでしょうか。学のための学問になっている朱子学を捨てて、実践の陽明学に傾斜された契機になったようにも思います。藩政改革の実践の中に随所に示される弱者への温かい配慮こそ、先生の信念であり改革成功の要因の一つと思います。

(ロ)論文「擬対策」(天保三年 二八才)

この文は、京都鈴木遺音門に出入りし乍ら春日潜庵等諸国の俊秀と交遊を深めていた頃の作で、二千数百字に及ぶ漢文の長文です。

「擬(ギ)」は「なぞらえる」「まねる」の意ですから、「対策になぞらえて」という題目です。「対策」とは隋に始まり、代々変化しながらも続いて来た、中国の官吏登用試験「-科挙-」に、宗代に付加された最終選抜、天子面接の際に提出する論文のことで、時の問題点を指摘して、その対策大綱を提案するものです。内容は勿論ですが文章そのものも審査対象となるので、格調の高い名文調です。事多かった天保の時勢を対象にして「対策」になぞらえて論文をかかれたのでしょう。そして文章は天下国家を論じているようで、実はわが松山藩の上を憂いておられるのかも判りません。

全集編著者の山田準先生が「先生當時、時事ニ感ズル所アリ。擬対策ニチ餘言ヲ草ス。要旨左ノ数十言ニ帰ス。先生後年藩政ニ参ズルヤ着々此ヲ実行セルモノノ如シ」として、その結論的要旨を抜萃記載しておられます。それは次の通りです。

「現在、衰乱ノ兆候ト考エラレルコトハ、唯一ツ、天下ノ士風衰退デアラウカ。ソノ由来ヲ詳ラカニ考エテミルト、多クハ財政ガ窮迫シテ、公候士太夫ガ皆、貧ヲ恐レテイルカラデアル。ソシテ、財政窮迫ノ本源ハ賄賂ガ公然トオコナワレテイルコト、身分不相応ナ奢リガ盛ンニナツテイルコトニアル。コノ二ツノ弊害ヲ除カナケレバ、財政ノ窮迫ヲ救ウコトハデキナイ。財政ノ窮迫ヲ救エナケレバ、士風ノ衰退ヲ振イ立タセルコトハデキナイ。士風ガ振ルイタタナケレバ、世ノ衰乱ノ兆候ヲ止メルコトハ、決シテデキナイ。此ヲ改メル方策ハ、タダ、賢明(・・)ナ(・)主君(・・)ト執政(・・)ノ(・)大臣(・・)トニアルノミナノダ。」

三島中洲先生も「先生他日藩政釐革ノ着手、此ノ弊ヲ去ルニアリ」と更に註記されています。その時既に先生はいずれわが藩を襲う衰退の兆を見つめて居られたのでしょうか。

(ハ)論文「理財論」(天保五年頃、三十才)
この論文は上・下に分かれている比較的短いものですが、問題を大局から見ることにより、問題の本質に迫る大切さを指摘しています。

・理財ノ知識・技術ハ近年益々精密ニナツテイルガ、国ノ窮乏ハ益々救ウベカラザル状況トナリ、国庫ハ空ニナリ、負債ハ山トナツテイル。

・天下国家ノ課題ヲ治メル者ハ、其ノ課題ノ外ニ立ツテ大局ヲ判断シ、課題ノ細部ニ屈服シテハナラヌ。

・人身ノ悪化、風俗ノ乱レ、役人ノ汚職、人民ノ貧窮、文教ノ退廃、武備ノ弛緩、ヲ正シクスルト云ウ経国(・・)ノ(・)大法(・・)ヲ捨テ、何デ財用ノ道ガ開カレヨウカ。

・夏・殷・周三代ノ興亡ヲ見レバ、利一辺倒ノ者達ガ財利ニノミ汲々トシタ挙ゲ句、衰亡シテイル事ハ明白デアル。

・國ヲ救ウ為ニハ、名君(・・)ト賢相(・・)トガ心カラ反省シテ超然トシテ優レタ見識ヲモツテ財利ノ外ニ立チ、義(・)ト利(・)ヲアキラカニシテ古来ノ正道ヲ踏ミ、経国ノ大法ヲ明ラカニスルコトシカナイ。

・義トハ綱紀ヲ整備シ、政令ヲ明ラカニスルコト、利(・)トハ飢寒死亡ヲ免レヨウトスルコト。君子ハ義ヲ明キラカニスルノミ。餓寒死亡ハ天命デアル。シカシ、義ガ立ツテ飢寒死亡ヲ免レナカツタ例ハ歴史上無イノデアル
・義トハ綱紀ヲ整備シ、政令ヲ明ラカニスルコト、利トハ飢寒死亡を免れヨウトスルコト。君子は義を明キラカニスルノミ。飢寒死亡ヲ免れナカツタ例は歴史上無いノデアル。

松山藩々政改革の基本理念、対策大綱は一五年前に決まっていたと云えましょう。この信念の正しさを立証し、現世の桃源郷を、山深く水清き山里に実現すること、それが先生の胸に秘めた「志」だったのではないでしょうか。

(三)改革構想実現への努力

「改善は、改悪を伴う」ことは、実際やってみるとよく判ります。改善、改革は現状の否定に始まります。それは現状を維持してきた人にとっては快いことではありません。大きな問題であればあるだけ、反対勢力は強くなります。藩主絶対の封建制の世であっても現状維持を望む人々が心から改革に賛成し協力する迄には多くの困難があったはずです。

それをどう切抜けたか、という裏話は隠れてしまうものです。それを、後輩のために記録して伝えられているのが、全集所載の先生の文章だと思います。改革を成功させるための心構え、考え方が随所にちりばめられています。

先生は、全身至誠の人、いかなる人に対しても適当に目先を誤魔化すことなく、正論を諄々と説くのですから、その準備に大変な努力が必要だったと思います。しかし、一度納得すれば、心服してその気になって行動する訳ですから、成果は上がるのです。先生の努力された例をいくつか上げてみたいと思います。全集所載の改革関係文書は、何れでも良い例となります。先生の手柄話はひとつもありません。すべて後輩たちの参考になるような記録と若干は裏話も交えた文章です。そして、特に自分が何をしたかを眞似てはいけない。先生が直面した状況で何を考えて手を打ったのか参考にして、各自の状況判断で独創的な発想を持つように注意されているのです。

日本人は他国の成功例を何の吟味もせず採用し、その表面だけを真似して失敗することが多い欠点を憂えておられるのです。

又、苦心したり困ったりした話もありません。淡々と客観的に事実を記録してあるだけです。従って、われわれはその淡々とした文章の行間から、先生の血を吐くような苦心や、粘り強い努力、大胆な発想、などを十分汲みとって参考にしなければならないと思います。

(イ)「藩の存在意義の強調」

「藩国の御天職ハ恐レ乍ラ、御家中諸士並ビニ百姓町人共ヲ御撫育遊バサレ候事ニ之レ有リ・・」事あるごとに、先生は藩存立の基本理念を述べておられます。長く続いた封建制と平和の中で、何時しか藩は藩民から搾り取るだけの機関となり、自らの存立基盤を失いつつある状況に対する一大警鐘です。藩民撫育こそが藩の天職との断言は、現在の民主主義と何処が違うでしょうか。天職を忘却した時点から藩はその生命を失いつつあるのです。

藩政改革の成否は、藩主、藩士達がこのことを自覚するか否かにかかっています。自らの言行を「藩民の幸福度」を基準として反省するなら、その意識や行動には大きな変化が起こる筈です。それが藩主、藩士達の信念となり、行動変革につながれば改革は成功するのです。機会あるごとに、繰返し繰返し、この信条を述べておられるのは、改革の基本理念を定着させようとの努力でしょう。

(ロ)財政の現状実態把握の努力

問題を解決する為には「問題は何か」を明確にし、「その問題に関連するあらゆる事実を集め」「事実にもとづいて解決策を発想」し、「解決策の手順を決め、それぞれの達成時期と達成目標を定め」て実施に移行しなければなりません。従って先ず実態の現状を正しく把握することが求められます。単なるビジョンからは実行可能な解決対策は出て来ません。藩政改革構想もまったく同じ手順で提案されていることにはお気付きでしょう。さて、当面解決を迫られている問題は、藩の財政危機です。先生はその実態をどのようにして把握されたのでしょうか。

財政の実態把握は、先ず会計帳簿の調査以外に方法はありません。当時の帳簿は恐らく大福帳式で、日毎の入出金を発生順に、単に記帳しただけの帳簿だったはずです。之は要するに金銭出納帳ですから、金の過不足はすぐ判ります。金が足らないぞ、借りて来い、となるだけです。その日の金が余れば順調、足らねば借金、です。このような其場凌ぎで積み重なった借金と利息で、抜き差しなら無い現状になった次第です。先生は之に工夫を凝らしました。大福帳に記入された収支の費目を項目を立てて分類整理したのです。当時藩会計が一年間に何冊の大福帳を使用したのか判るませんが、相当数だったのでしょう。それを一頁づつ、一行づつ点検して分類するのです。その作業を三ヵ年分について実施し、年平均を出したのです。勿論作業は会計がやるでしょうが、項目分類のどれに組み入れるかは先生しか判らないでしょうから、終わるまでつき合はざるを得なかったと思います。この分類によって、藩の財政状況は一目瞭然、一覧表で見られるようになりました。

先生は、この一覧表にもとづいて、各項目後とに削減(・・)見積(・・)りを出しました。削減の目途は、日頃からの観察や、種々な話に聞いたりしたことを綜合して判断されて額を決めそれを各項目に朱で註記したのです。「藩財ノ収支」として全集一一七六頁にのせてあります。之を基にして、「元締奉職当初財政収支大計」なる上申書が書かれました。予定の経費削減すれば、米相場が現在の価格で安定するとして、収支トントン、しかし大阪・松山・江戸の借金利息約八.九千両(従って借財総額は八・九万両)が手つかずで残り、之を何とかしなければならないとの上申です。

しかし、之で始めて対策の目途がついたのです。そして何よりも急がれるのは、借金対策と判明し(勿論先生はその積りで準備していたのですが)借金蕩平(はらひ除く)の戦にとりかかったのです。

大福帳記録を項目を立て分類整理する方法は、現在の企業会計(複式簿記)の方法です。日本へ導入されたのは明治になってから、福沢諭吉により「記簿法」として紹介されたのです。先生は家業のために考案した方法が藩の財政の役に立ったと喜んで居られます。

(ハ)藩公による改革宣言と実行

嘉永三年(一八五〇)十月、我公諸士ヲ集メテ全藩振肅ノ旨ヲ誠メ、着々之ヲ実行ニ移サル。と全集の年譜に記されているのが、藩政改革プロゼクトの開始宣言です。藩士を集めて藩公自らが藩の現状と問題点を指摘し、先ず厳しい「上下節約令」を出されたのですから、全藩士に衝撃が走ったことでしょう。改革運動スタートとして最高の演出です。

藩公の宣言は、単に渡された文章を読むだけの形式的なものではなかったのでしょう。元締拝命以来十ヶ月、先生が心血を注いで調べられた藩政の問題点とその解決大綱については充分説明を受け、自分のものとなっていた筈で、それだけに迫力があったことでしょう。「元締奉職当初財政収支大計」と「一藩勤倹取締り意見」の二つの上申書が藩公宣言の内容であったに違いありません。

更に、藩公は自ら勝手費用の削減を、先生は俸禄辞退を率先して実行されています。

節約令の内容は、御存知と思いますが、「年月ヲ期シテ藩士ノ穀禄ヲ減ズ」「奉行代官等聊カノ貰ヒ品モ役席ヘ持出ス」「巡郷ノ役人ヘハ酒一滴モ出スニ及バズ」の他、衣服、飲食・豪政・等について厳しい節約を促す九項目でした。
注目すべきは、この穀禄の切り下げは上級藩士にだけ適用され、多くの一般武士は、現状既に切り下げの余地なしとして適用されず、贅沢禁止も上級武士、富商、が対象であったらしいことです。社会的弱者に対しての温かい配慮と、事の本質を見抜く厳しい先生の知恵を感じます。

節約令のようなものは、必ず中途で弛緩し、その中に元に戻り易いものですが、先生はその徴候がみえると、藩主に上申書を提出して、その引きしめ方を再三要請しています。之は現今の改善活動では、フォローアップと云い改善を身につける為の大切な一項目となっています。

(二)借財償還延期の苦心と努力

「大信ヲ守ラント欲セバ、小信ヲ守ルニ遑(イトマ)ナシ」と、同僚たちの反対を制して、先生は直ちに大阪に出向、集めた債主に、藩財政の実状、それを糊塗して借金を重ねて来たことを打ち明け、今後の藩財政の革新計画を説明した上で、従来の負債を十年賦から五十年賦の条件で元金償還をすることの了承を請うたのでした。全集年譜では「新任ノ元締ハ常器ニ非ズ必ス為ス所アラン」と諒承し難題容易に解決す、と記述されていますが、いざ個人別の返債期間のネゴシエーションは簡単ではなかったようで、二三年間はその為の奔走で、革新テーマの他の方に時間が割けず、中々思うように進まなかった、と先生は回想されています。

債主の数は三百を超え、その一つ一つについて、借入金額、借入状況、対手の誠意、当方の借入交渉の仕方、などを吟味して返債期限の約定書を用意されたわけですが、貸主とすれば何時倒産するか判らない対手への貸金は一日でも早く取戻したいのは当然ですから、いざ判を押す時には粘ったことでしょう。全集一三一三頁の「借金蕩平論」にその辺りの消息が出て居ります。大体、小口のものは早く償還して大口に重点を絞られたようです。このやり方は「二・八法則」と称し重点を決めて力を集中して効率化をはかる場合に用いられます。百の口座があれば、上位二十社の売上合計は全体の八十%になるのです。

更に先生は大口債主で信頼できる人には、不意の大口出費(火事とか、御用金とか)に備えて、旧債返還は約束通り実行するが、新しい約定の借金に応じて貰う手を打っています。それによって慌てて金策に走って高利の借金をするような愚行は無くなった訳です。

更に、借金および財政の運営状況の報告は勿論、将来の改善見込みについても、藩公に随時上申し、公の心配を無くすように心がけています。「借金蕩平論要約」を示します。

借金蕩平論(要約)
借金蕩平(拂い除く)ノ戦ニハ、義理・名目ノ立ツ戦イ方モアレバ、掠奪・名目ノ立タナイ戦イ方モアル。戦イヲ企テル始メニ、ドチラノ方法ヲトルカ、心ヲ決メテ動カヌヨウニシナケレバナラナイ。

去ル嘉永三年ノ場合ハ、掠奪無名ノ師ト云ウベキデハナイ。戦ツテ蕩平シタトシテモ、玉石スベテ梵イタ訳デハナイ。藩公ガ代ラレル以前ハ、会計ノ綱紀ガ頽廃シ、タダ、ソノ日ソノ日ヲ凌イダタメニ、八方借リ廻リ借リタ金ヲ何ニ用立テルトイウ区別モナク、使用名目モ嘘バカリダカラ、多分、対手ヲ宴会ニ誘イ出シテ、高利ヲ餌ニシテ借リタ借金ダカラ、拂ヒ除イテシマワナケレバ、国ノ会計ノ為ニモナラズ、綱紀モ立チニクイコトニナル。借リタ當方ハ元ヨリ多罪ダガ、貸スコトヲ承知シタ先方モ罪ガナイトハ云エヌ。ソレダカラ、当時ノ主役ガ退役シテカラ、漸ノ対手ノ罪ヲ問ウ戦イヲ起コシタノデアル。(問罪ト云ツテモ、先方ノ罪ヲ打出ス問デハナク、自然ニ気付カセルダケダ。)シカシ蕩平ノ中ニモ、全く悪イモノモアレバ、虚実入リマジツタモノモ、欲ノ無イ廉潔ナモノモアル。夫々差別シテ眞ニ廉潔ノ部類ニ属スル者ニハ償還シタモノモ少クナイシ、場合ニヨツテハ一時延シテオキ、間ヲ置イテ漸次償還ニシタモノモアル。大体、大坂江戸ハ十中八九ハ蕩平、松山近辺地廻リ八十中八九ハ償還デアツタ。(数百件モアルノデ、当ヲ得ナカツタ者モアルダロウ。戦争デ罪ノ無イ者ハ一人モ殺サズニオコウトシテモ、不可能ナノト同ジデアル)

ソレ故、蕩平ニ遭ツタ者達チモ、一旦ハ欲カラ不平ヲ訴エタガ、覺エノアル事ダカラ自然ニ納得シ、其後必要アル時ニ格別ニ勤メテクレル者マデアツタ。有名義理ガ立ツテイタカラデハナイカト思ウ。―以下略―

(ホ)藩政改革のその他対策について
「上下節約」と「負債整理」の二対策に触れただけで、原稿の予定枚数の大半を費消してしまいました。残り四対策については、そのポイントだけを簡単に申し上げて後日を期したいと存じます。不手際をお許しください。

・紙幣刷新
信用暴落した松山藩札を集めて、近似河原で観衆を集めて焼却した話は有名ですが、それは、信頼される貨幣政策によって、経済の活性化をはかる政策の入口です。先生の回想の中に、財政問題で一番力を入れ苦心もしたのは貨幣の問題であった、と云われていますが、現在の大蔵省と日本銀行の仕事を一手に引き受けるという、経済と国民生活に深刻な影響を与える仕事なのですから。

この成功が、産業振興に役立ち、藩財政を豊かにし、そして藩民の生活を向上させる上でどれほど大切な施策であったかを認識し、評価する必要があります。藩政改革成功の裏の主役だったのです。そして注目すべきは、先生がそれまでに、中国の唐・宗以来の貨幣問題に精通されており、更に徳川幕府の貨幣問題の成否も検討しつくされて居られたことです。大阪の富商長田均之と古今の紙幣の利害について討論し、実勢家と学識者(先生)の見解を綜合して我が藩の貨幣政策のビジョンが画けていたことに感嘆するものです。明治政府が再三先生を大蔵卿に招いたのも、無理はないのです。

・産業振興

備中鍬の名は、現在でも関東地方の農家に行き渡っていますが、撫育局を設けて米以外の産品の流通販売を集中的に行わせると共に産業局により、更なる産品開発をはかった、産業振興策が、藩財政の負債償還を七年間で完了させた上、更に廃藩置県となる迄、小藩ながら、他藩に比して、裕かで安定した民生を維持させた功績は誰もが認めるところでしょう。
ただ、その詳細に関して申し上げられるだけの勉強が私にはできていません。ただ先生が「国産心得方」(安政六年)と云う文章の中で、他藩の産業振興策の性格分類をした上で会津・米沢は「下方撫育の為にのみ始められた第一番の善政」と称揚され、上の利益のみ考えて下方の痛みを考えないやり方や、私利私欲による振興策等が失敗している例をあげて居られることは、産業振興策の根本命題として注目すべきことを記するに止めます。
士民撫育、文武奨励、に関しては省略させていただきます。

(四)改革成功の蔭に―勝職公―

「方谷の言は予の言と思え。反対は許さぬ。」と、藩政改革に邁進する方谷先生を全面的に信頼され、先生の上申通りに藩主としての権限を最高度に発揮された、藩主勝静公無かりせば、方谷先生は藩政大改革という火中の栗、否、爆弾を拾うことはされなかったでしょう。この主従の強い信頼関係は、勿論誠実無比の御二人の、信念とお人柄が噛み合ったこともありましょうが、先生がこの若き貴公子に、名君となりうる素質を見出して惚れ込み、この人を名君に仕立てて、松山藩の窮状を救う為に全力を盡くそうと決心され、行動されたことによる処が大きいのではありますまいか。名君と賢臣とのコンビが生まれたのです。それは大きい改革には欠かせない成功要因です。現在の企業でもそうです。まして末期とは云え封建制の時代、藩主の権威は絶対ですから、藩主のバックアップがどれ程大切かはお判りいただけるでしょう。お二人の信頼関係確立の跡を辿ってみます。

勝静公を世子に迎えられたのが、天保十三年六月、早くも十四年四月先生は江戸の世子の命により「千歳ノ松」と云う文章を献上されています。此の文章で先生は宗詩をひいて「賢主は始めは屈して終に伸びる・・・」と先づ世子の立場での在り方を示唆しています。翌年、弘化元年六月世子が藩主に代り藩政を聴くことになりますと、早速先生を召して周易を講ぜしめ、更に続資冶通鑑綱目を侍読することになります。その評論、解説の内容が方谷全集第一冊に集録されています。宗より元に及ぶ約四百年間の史伝の侍読で、先生は国の栄枯盛衰が王の臣下登用の適否にある史実を説明され、王が寵臣を斥け、諫言する臣下を重用することの大切さを強調、重臣の人物論に及んでいます。この名講義が勝静公の心底に響き、先生に対する絶対の信頼を植え付けたのではないかと思います。更に翌弘化二年三月には、世子のお供をして封邑を巡り、当時の過疎地域まで巡視して、隣国との境界や農民の実情、村吏の勤務実態等を、つぶさに在りのままに案内しながら、当藩の厳しい現実を実感されるように努められたと思ひます。

翌弘化三年、御近習役を兼ねることになり交流は緊密の度を増し、相互の信頼は益々厚くなったことでしょう。元締役抜擢までの六年間のこの交流こそが、お二人の間に揺るぎない信頼関係を培ったものであって、「方谷の言は世の言と思え」との最高のバックアップがあって始めて、先生の心魂を傾けた大経論は実行されたものと考えられます。正に「至誠惻怛、国家ノ為ニスル公念」の至誠が発露された成果でありましょう。

さて、私はこのお二人の出会いの切つかけをつくられたのは、前藩主勝職公ではないかと思えるのです。

勝職公の評判はあまり良くはありません。酒呑みで、癇癪持ちで、浪費家で云々。しかし私には本来は頭脳明晰だが、繊細な神経を持って居られたが故に、自分の意思を剛直に貫くことが出来ず、藩の窮状を見すごさねばならぬ焦燥感が、酒への逃避になったのではないか、と思うのです。それでなければ、神童と云われた少年が、亡父の業を継ぎ、刻苦精励、職業と学問に際立った成果を上げているとの評判だけで、その少年に二人扶持を給して学問に専念させる環境を与えた上、更に京都・江戸へ三度の遊学を許可して藩の学頭にまで登用することは無かったでしょうし、世に聞こえた経世家、松平定信公の孫で、剛直で評判な世子を迎えて方谷先生との出会いをお膳立てされることもなかったでしょう。恐らく自分一人では出来なかった藩の復興を、このお二人に無言の中に託されたのではないでしょうか。方谷先生が勝職公逝去に際し、蟄居五十日間の喪に服されたことは、単に報恩の為だけではなく、公の御心への誓いでもあったと思うのです。

(五)おわりに
「改革の眞髄」などと立派な看板を上げて改革指導者としての山田方谷先生の巨像に迫ろうとした試みは、ただ私の勉強不足を露呈するだけで終わりました。しかし大鉱床のいくつかの露頭は見付けられたと思います。方谷全集に集積された先生の文章は先生の足跡と思想を知るに眞に貴重な宝庫です。藩政改革に関係した先生の記録だけでも読みきれておりません。今後の精進を御約束することで、この不完全な御報告のお詫びといたします。終りに、先生の語録の中で、特に改革に大切な心得と感じた三つを上げて、本稿の終りといたします。

・驚天動地ノ功業モ至誠惻怛、国家ノ為ニスル公念ヨリ出デズバ一己の私ヲ為スニ過ギズ。
(惻怛(そくだつ)、いたみ悲しむ心)

・凡ソ一事ヲ起サント欲セバ、古今ノ事例ヲ詳説シテ、当該吏員ヲ啓発シ、彼ノ建議ヲ待チテ之ヲ奨揚鼓舞セバ、事容易ニ成ラン。

法ヲ革(アラタ)ムルノ難キニ非ズ、法ヲ行ウコト之レ難シ、法ヲ行ウテ人ヲシテ其法ニ安ンゼシムルコト最モ難シ。

(完)

この文章は、平成17年度高梁方谷会総会において、高梁方谷会会員に配布された文章です。
当サイトへの掲載に関しては著者の滝澤敬司および高梁方谷会の許可の元掲載しております。
これらの情報は、「私的使用」及び「引用」などの著作権法上認められた場合を除き、無断で複製使用したり転用・引用することはできません。

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