天誅組は、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らを中心に構成され、尊皇攘夷をもとめて決起した武装集団である。

備中松山藩の立場とは対局にいたこの天誅組に、松山藩士「原田亀太郎」がいた。

最終的に原田の夢は叶うことはなかったが、維新後、原田と交友のあった「新島襄」が原田宅に焼香に訪れる。その際、新島が妻の新島八重におくった「絵入りの手紙」は当時の高梁の風景を克明に絵入りで伝えている(新島手紙でも絵入りは非常に珍しく、レプリカが常に展示されている)。

新島はこの高梁紀行のおり、高梁で宣教活動もおこなった。
そして、その影響を大きく受けたのが「福西志計子」であり「留岡幸助」でであったのだから歴史とはおもしろい。

このコーナーでは、その「天誅組」と「原田亀太郎」そして「新島襄の手紙」を取り上げる。

このコーナーは「維新残影」の著者である守田正明氏のおよび天誅組記念館館長で天誅組の研究家である草村克彦さんの全面協力の下お送りいたします。

紹介している写真や文章の著作権は守田正明に有ります。コーナー内の写真や文書の転載はご遠慮くださいますようお願いいたします。また、多くの写真の提供や文の転載に快く許可をいただいた守田正明氏に心より感謝いたします。

Contents

天誅組とは

文久三年(一八六三)八月、諸藩を脱藩した尊攘急進派の集団で、吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂(けいどう)らを中心とし、中山忠光を擁する草奔たちによる天誅組(天忠組)が大和で挙兵する。五条代官所を襲撃し、十津川郷士も加え大和高取城に向かったが八月一八日の京都の政変後間もなく追われる身となり、十津川、吉野の山中を一ヶ月余敗走の末、主だった者らは討死、刑死という悲劇的な結末を迎えることになった。

彼ら天誅組の記録はこれに加った中の指導的立場にあった一人で、国学者・歌人の伴林光平が奈良の奉行所で書いたもので(一般的には京の獄中で書かれたと言われている)、戦況戦跡を静かに振り返りながら遺した『南山踏雲録』に記されている。
天誅組の軍行記

文久3年 8月13日
この日攘夷祈願のため、大和親征の詔勅が発せられ孝明天皇の大和行幸が決まる。

8月14日
吉村虎太郎、松本奎堂らが率いる倒幕の志士たちにより天誅組が結成された。

天皇が京都から近隣諸藩の兵を率いて率いて大和へ行幸となれば攘夷の風は日本中に吹き荒れる、天誅組はその魁となるべく決起、吉村虎太郎は天誅組総裁に就任した。

8月15日
一行は大阪土佐堀の阪田屋にて休憩、ここで松本奎堂が軍令書を執筆、夕刻には再び舟に乗り天保山沖へ、奎堂は舟中にて先ほど執筆した軍令書を読み上げた。一行は泉州港に到着、近くの旅館で分宿をとる。

8月16日
朝、いよいよ高野街道を河内へ向け出発。倒幕の魁となった「天誅組」の進行が始まった。

8月17日
「皇軍御先鋒」「中山侍従罷り通る」の2本の大きなのぼりを掲げ再び進行開始、10名が一行に加わる。途中、楠木正成公首塚に参拝、整列する一行の前で中山忠光公卿が祈願文を読み上げた。ここでさらに備前藩士藤本鉄石と家来の元力士福浦元吉の2名が合流し天誅組は勢いを増してゆく。

午後5時、吉野天領7万石を直轄する五條代官所を襲撃、代官鈴木源内ら5名を討ち取り近くの桜井寺を「天誅組本陣」とし、五條御政府の樹立を宣言、管轄の村を天領から天朝の直轄とし年貢半減の布告を行った。

8月18日
薩摩藩は京都守護職の会津藩と共謀し尊皇攘夷派の長州勢を御所から追い出し更に攘夷派の公家7人を追放するという出来事が起こった。
これにより孝明天皇の大和行幸は中止が決定された。世に言う八一八政変(七卿落ち)である。

8月19日
昼、天誅組一行に孝明天皇の大和行幸中止が伝わる。
なんと天誅組の義兵たちは挙兵からわずか一日にして賊軍という立場に逆転してしまった。
さらに尊皇攘夷派の福岡藩士 平野国臣が天誅組の進行中止を説得に来るもすでに代官所襲撃後であったためすでに時遅し、仕方なく国臣は説得を断念し再び京にもどらざるをえなかった。

虎太郎は「いかなる情勢となろうとも一死をもって報国の覚悟は出来ている」と義士全員の奮起を促した。

8月20日
天誅組は五條桜井寺本陣を退き十津川方面へ移陣。

8月21日
要害堅固なる天辻峠のもっとも高い場所にあった鶴屋治兵衛の屋敷を本陣とする。俗に言う「天ノ川辻本陣」である。一行は武器を調達し火薬も入手木製の大砲も制作、決戦は近い。

8月22日
神官である橋本若狭が中山忠光と面会、忠光は皇威伸張、国土安穏の祈祷を若狭に依頼する。

8月23日
高野山、天誅組に忠誠を誓う。
虎太郎は十津川郷の郷士らに募兵を行った。

8月24日
十津川郷の郷士 1000人近くが応募の様子

8月25日
十津川郷から天ノ川辻本陣へ千名を超える義兵が駆けつけ、夕刻までには竹槍などを持ち五條に到着、和歌山藩、郡山藩、高取藩の軍勢が押し寄せるとの風評があり、天誅組一行は夜の行動をとったが実際には御所を含め幕軍の姿はなかった。ここで次の攻撃目標として以前天誅組への献米の約束をやぶった高取藩をターゲットとした。

8月26日
早朝、忠光率いる天誅組は城下町土佐町の西方鳥ヶ峰にて高取藩兵と戦闘開始、しかし天誅組の農兵らは疲れの限界となれない戦闘、手製の武器、一方の高取藩は大砲や小銃を装備、力の差は歴然としており天誅組は退却を余儀なくされた。
一方虎太郎率いる別働隊は御所方面を探索していたが、五條に変え途中敗兵の姿を見て天誅組の敗戦を知る、急遽24名の夜襲隊を組織し高取城野焼き打ちを試みるが途中高取藩兵に見つかり戦闘となる、このとき虎太郎は運悪く味方の撃った銃弾で負傷してしまう。

8月27日
高取城攻略に失敗した一行は天ノ川辻本陣へ引き上げる。
負傷した吉村虎太郎は重阪より五條へと戻る。

8月28日
負傷した虎太郎はやっとのこと天ノ川辻本陣へ帰陣するが忠光の天誅組本体はすでにこの本陣を離れ長殿村の長泉寺へ本陣を移すよう行動していた。
ここより十津川山中に立てこもり、機を見て一時紀州へ退却、その後四国か九州にて体制を整え再び挙兵するという策が忠光の頭にはあった。。

8月29日
忠光ら天誅組本体は虎太郎に長殿村への引き上げを要請、しかし虎太郎は天ノ川辻本陣の重要性を主張、断固として動かず、さらに橋本若狭らとともに本陣周辺の防備を固まる策にでた。

8月30日
忠光ら天誅組本体は長殿村をでて風屋村の福寿院へ移陣する。

9月1日
和歌山藩兵が恋野村に着陣したという情報を得た虎太郎ら一派はこの陣を襲撃、数カ所に火を放つ、しかしすでに近隣には彦根藩兵も着陣していた。

9月2日
忠光らの天誅組本体は幕府軍の包囲にあい更に南下して行く。
この日、朝廷より幕府軍に対し、天誅組を賊軍と見なし追討命令が下された。

9月3日
忠光らは紀州新宮方面への脱出を試みるが、虎太郎がいまだ天ノ川辻本陣で幕府軍に対して気勢を上げていることを知り計画を変更、天ノ川辻本陣に引き返すことに。

9月4日
忠光ら天誅組本体は武蔵村を出て天ノ川辻本陣へ。

9月5日
虎太郎は五条桜井寺を本陣としていた津藩藤藤新七郎に大和義挙の大儀を説くべく軍使を使わすが面会すら出来ず逆に捕まってしまう。

9月6日
忠光ら天誅組本体が天ノ川辻本陣へやっとのこと帰陣。
しかしこのときすでに和歌山藩兵による天誅組包囲網は固まりつつあった。
虎太郎らは再び十津川で義兵をつのる。
夜には数名の義兵が集まったかのようであったが、実はすでに幕府軍のさしがね出会ったことが判明、天誅組により多くの民家を焼き討ちする「冨貴の焼討」事件が起こった。

9月7日
大日川において津藩兵と天誅組の戦が始まる。このときは引き分けとなる。

9月8日
彦根藩兵が栃原獄へ、郡山藩兵が広橋峠に迫り天誅組包囲網はじわりじわりと狭まって行く。

9月9日
彦根勢が天誅組本体のいる白銀獄に迫るという情報を得た義軍は本体の応援に向かうが彦根勢を発見することが出来ず、今度は津藩勢が大日川方面に現れたという情報から橋本若狭ら30数名が襲撃を目的に民家45カ所に火をつけた。
(天誅の大火)

9月10日
この日、天誅組を追う各藩は一斉攻撃を予定していた。しかし前日の天誅の大火により予定を延期、また忠光ら天誅組本体もこの日は沈黙している。

9月11日
天誅組本体、再び天ノ川辻本陣へ
この日、水郡善之祐を頭とする河内勢13名(原田亀太郎を含む)が天誅組を離脱するという事態が起こる。忠光率いる天誅組本体のたび重なる迷走に失望しての行動だった。

9月12日
追討軍が迫っているとの情報を受け忠光らは再び天ノ川辻本陣与より小代村に移動。

9月13日
忠光ら本体は小代村をでて上野地村へ移動、東雲寺を本陣とする。

9月14日
追討軍が再び天ノ川辻本陣を攻撃、吉村虎太郎らが応戦するが戦力の違いは明らかであり耐えきれず陣を放棄、本体を追い十津川郷へ退く。
そのころ十津川郷では村集会が開かれ「天誅組への決別」が話し合われていた。

9月15日
忠光は本陣である東雲寺に天誅組全員を集めて言った。

「我に伴わんと思はん者は伴へ 去らんと思は者は去れ
道あらば長州九州へも土州四国へも赴きてむ
道なくば姦賊等を手もとに引き寄せて心の限り打切り、
刺し殺して、さて剣に伏して死なん心ぞ、縁ありて長州にて
再び相見んことも測がたし。御酒一つくめや」

決別宣言である。

9月16日
天ノ川辻本陣より虎太郎ら義士が引き上げてきた。
そして十津川郷士の離反を知る。
郷民より十津川からの退去要求があり、伴林光平らが代表となり
十津川からの退去を了承、天誅組は本陣を更に南下することを決める。
天誅組本体を離脱した原田亀太郎ら河内勢は十津川郷西方の上湯川村で宿泊。

9月17日
天誅組は風屋村を出発し小原村へ
河内勢は上湯川村を出発、新宮方面へ向かうが途中、追討軍の攻撃を受け山中へ身を隠す。

9月18日
小原村を出て下葛川へ

9月19日
忠光ら本体は玉置山より紀州本宮方面へでると見せかけ、急転大峰山中笠捨山へ移動

9月20日
大峰山から北山郷の浦向村に到着
更に退路を模索するがすでに和歌山藩兵に包囲されており脱出の道はなかった。

9月21日
浦向村から白川村へ

9月22日
天誅組の体力は極限状態にきていた。
天誅組本体を離脱した河内勢も各地で攻撃を受けこの日までに生き延びていたのは原田亀太郎を含む八名となっていた。彼らは「これまで」と全員自刃しようとするが善之祐の「幕府の刑場にて死し、以て天下、後世の人に大義名分のために一身を犠牲にして、このことを知らしめる」との言葉に賛同、自首することとし、小又川村の和歌山藩に出頭、同村の百姓、喜助の米倉(のちにいう天誅倉)に幽閉された。

9月23日
早朝、忠光らが出発しようとしたがそれまで荷物を運んでいた人夫が逃亡しており武器や荷物が移動できない、仕方なくそれらを焼き払い軽装となって出陣。

9月24日
いよいよ追討軍の追っ手が近づいてくる、忠光、虎太郎らは己の最期感じていた。そして最後の軍議が開かれる、内容は決死隊を組み幕府軍の各本陣に切り込み、混乱の内に忠光ら本体と負傷者を脱出させ再起をうかがうという物であった。
そして第一陣が彦根本陣へ突入、暴れ回り、力尽きて全滅した。
一方天誅倉に幽閉されている河内勢は和歌山に送られ牢獄に、その後京都の六角の獄に送られる。

9月25日
天誅組総裁、松本奎堂が和歌山藩兵の銃弾を受け絶命、藤本鉄石は伊勢街道にあった和歌山藩本陣に斬り込み大激戦の末絶命、この日、多くの義士が戦死した。

9月26日
和歌山藩兵が撤収

9月27日
天誅組総裁、吉村虎太郎が津藩兵に見つかり銃殺される。

元治元年(1864年)2月16日
伴林光平ら19名、京都六角の獄で斬首

7月20日
水郡善之祐、原田亀太郎ら14名 処刑される

11月8日
中山忠光 長州にて暗殺

天誅組軍行記は守田正明氏著の維新残影を参考にさせていただきました。
もっとくわしく知りたい方は是非買って読んでみて下さい。
また、多くの写真の提供や文の転載に快く許可をいただいた守田正明氏に心より感謝いたします。

天誅組写真集

このコーナーでは天誅組ゆかりの地を写真で紹介しています。

桜井寺

天誅組の軍行において最初に本陣を構えたのがここ桜井寺である。
天誅組は吉野天領7万石を直轄する五條代官所を襲撃、代官鈴木源内ら5名を討ち取り近くの桜井寺を「天誅組本陣」とし、五條御政府の樹立を宣言、管轄の村を天領から天朝の直轄とし年貢半減の布告を行った。


天誅組本陣跡碑

桜井寺本陣跡の碑として正面に向かって右側、植え込みの中に立っている。


天の川本陣跡

天誅組の構えた本陣の中でも最も重要な要所となったのが天ノ川辻本陣である。

中山忠光率いる天誅組本体がこの本陣を離れた後も総裁吉野虎太郎はこの天ノ川辻本陣の重要性を訴えてここにとどまった。

本陣跡の碑

天の川天誅組本陣跡の碑

(吉野郡大塔村)

鶴屋治兵衛は天詠組の義挙に際し、屋敷を本陣に、そして家財道具から兵糧まで提供し、義十の行動を容易ならしめた人であるが、天誹組が敗れて屋敷が幕府の本陣になるのを好まず、自ら屋敷を焼くという義気の持ち主でもあった。


観心寺

(河内長野市)

文武天皇の大宝元年(七〇一)役小角によって開かれる。その後、大同三年(八○八)に空
海が訪ね、境内に北斗七星を勧請される。
金堂と本尊の如意輪観世音菩薩が国宝に指定され、三重塔建立予定が正成が湊川で討死のため、未完のまま現在まで残っている建掛塔などがある。


楠木正成公首塚 (観心寺)

延元元年(一三三六)五月、足利軍と兵庫湊川にて戦うが敗れ、切腹して果てる。
足利尊氏の命令によって、その首が当寺に送り届けられ、ここに祀られる。

楠木正成公とは・・・
元弘元年(一三一二)京都の笠置山に脱出していた後醍醐天皇の呼び掛けに応じて、一族をあげて河内赤阪城で挙兵するが敗れる。しかし羽)一年再び、千早城にて挙兵する。新田義貞、足利尊氏、楠木正成らの活躍で鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による「建武中興」が成る。源氏・平氏から徳川家に至る武家の歴史を描いた頼山陽の「日本外史」は水戸史学の影響もあり、楠木氏を称賛してやまない。

首塚前広場

楠木正成公首塚前広場

天詠組義士は、この広場に整列をし、中山忠光卿が祈願文を読み上げた。
轡蒼とした大木の中から今にも鎧に身を固めた義士が現われそうな静寂な森である。
千早(ちはや)峠(千早赤阪村)金剛山の西へ延びる尾根には千早城跡があり、赤阪城落城の後、秘密裏に楠木正成が築いたといわれている。

森田節斎宅址


(五條市)

儒学者、森田節斎は名を益、字を謙蔵、号を節斎という。
文化八年、五條で医者を営む文庵の二男として生まれ、十五才の時、頼山陽に学び、備中岡山にも一時、塾を開く。
備中での門人に松山藩士、原田亀太郎がいる

水郡善之祐邸


(水郡善之祐邸その1)
水郡(にごり)家は紀有常を遠い先祖とし、伊勢国神戸藩の代官または大庄屋をつとめていた。
この屋敷は安永2年に他所から移した物で武者隠しや押入から外部へでられるなど、特殊な作りを持ち、徳川初期の建物といわれる。


水郡善之祐邸


(水郡善之祐邸その2)

水郡善之祐を頭とする河内勢13名(原田亀太郎を含むは9月11日、。忠光率いる天誅組本体のたび重なる迷走に失望し、天誅組を離脱する。


十津川


(天誅組が敗走した十津川方面)

天誅組の戦の舞台となったのがここ十津川郷である。十津川の郷士は天誅組とともに幕府軍と一戦を交える。

天誅倉


(竜神温泉近く)

天誅組本体を離脱した河内勢も各地で攻撃を受け、生き延びていたのは原田亀太郎を含む八名となっていた。彼らは「これまで」と全員自刃しようとするが善之祐の「幕府の刑場にて死し、以て天下、後世の人に大義名分のために一身を犠牲にして、このことを知らしめる」との言葉に賛同、自首することとし、小又川村の和歌山藩に出頭、同村の百姓、喜助の米倉(のちにいう天誅倉)に幽閉された。

このコーナーは「維新残影」の著者である守田正明氏の全面協力の下お送りいたします。上で紹介している写真や文章の著作権は守田正明に有ります。コーナー内の写真や文書の転載はご遠慮くださいますようお願いいたします。また、多くの写真の提供や文の転載に快く許可をいただいた守田正明氏に心より感謝いたします。

 

原田亀太郎

原田亀太郎とは・・
幕末期の備中松山藩のおいてただ一人靖国神社にまつられている人物である。
幕末期、備中松山藩は藩主板倉勝静が幕府の大老という位地にいたことにより朝敵とされ5万石の藩封は取りつぶしとなり松山藩士は賊軍の藩士という扱いを受けた、そんな松山藩出身の武士でありながらほかの藩士たちとは全く違う人生を送ったのが原田亀太郎である。
このコーナーではそんな松山藩士としては異例の原田亀太郎を取り上げる。

亀太郎は天保9年8月に松山藩城下新町の煙草商原田市十郎の長男としてうまれた。幼時から読書を好み、幼いうちは進鴻渓の門に学んだ、安政1年(1854年)には江戸に遊学にでて岸淵蔵に入門、ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

亀太郎はめきめきと己の頭角を現してゆく、その才能を見込まれついには松山藩主板倉勝静に抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊した、亀太郎は時事を論議することを好み近畿の志士たちとよく激論を交わしていたという。

そして分球3年(1863年)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。

8月13日大和行幸の詔が出されると中山忠光{なかやま ただみつ 弘化2年4月13日(1845.5.18)-治元年11月15日(1864.12.13)}は「攘夷親征の奉迎」と称して同17日、吉村寅太郎らの同志を率いて京都を出奔、大和五条代官鈴木源内を誅戮して挙兵する。

 


「原田亀太郎生誕の地」には
現在上のような杭が印として
残されている。

亀太郎はこの義挙に勇躍して参加する、しかし情勢は8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから戦況が一変、追討諸藩の攻撃を受けることになった。戦うこと約40日あまり、志士の一隊は戦死しあるいはとらえられた。亀太郎ら一軍も逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが龍神村で和歌山藩兵に捕らえられ、天誅倉に幽閉され京都六角獄につながれることとなった。

禁門の変のさなかの元治元年(1864年)7月19日、同囚32人とともに堀川の獄にて斬に処せられた。享年27才であった。

亀太郎の父市十郎は亀太郎の入獄を聞いて京に上り百方手をつくして其意を通じた。やがて粗末な紙に認めた書が届けられた。
去年中山侍従殿

天子之御為に大和にて義兵を被挙候節私も御招に預り候
故御昧方に相成候庭敗軍に及び私始め大勢生捕に相成候
京獄中にて二月以来既に死刑に相成候得は私も近々同様と
存候誠に子として父母の莫大之御恩不報又私文学修行に付
此上もなき御心配を相掛一日も御安心を致し不奉又憂目に
逢せ奉り重々之不孝に候然し此度之事は天子の御為と存じ
死に趨き候故不幸の罪は御免可被下候弟並に妹に親に
孝を蓋し兄弟むつましく可致と被仰付候様奉願候

亀太郎 獄中にて認

御父様

後日父市十郎は獄中の書と、石川晃山の描いた書像とを携えて備中倉敷に森田節斎を訪ひ、一文を願った。節斎は其れを見て肇を放って泣いた。乃ち筆を執って書像記を作った。それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された。

明治7年5月朝廷より祭粢金を賜り24年9月靖国神社に合祀され36年には從五位を与えられた。

刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された


亀太郎の墓のある道源寺

 

原田亀太郎の墓

 

 

新島襄の手紙

新島襄の手紙-新島襄の手紙をとおしてみた高梁

<新島襄の手紙>

十九日にも矢張り多くの人々参り、中々少しの暇もなく候。十八日の朝には、宿より抜出し運動の為松山の城山に登り申し候。其登りは二十町余り、途も中々瞼岨にして登り難く、城も余程厳重に築き立、昔の弓矢ではトテモ落城には難及と存候。其所は四方皆山なり。地も殊に高くして水の流る事甚急なり。此所より底の平タキ船にて海迄運送之便利も能く、山の中とは申、至て繁華したる地なり。家数は千余も有之候。尚中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差支はなし。

牛乳もあれば牛肉もあり、唐物見世も沢山にあり、書店もあり、何も格別不自由のなき所に御座候。例の開化と申して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚困りたる事なり。尤福音の種を播くには存分好所と存候。私山より帰り懸けに、昔大和にて中山殿に随ひ一揆を起し、敗軍に及ヒテ生捕となつし私の旧友原田亀太郎と申者の家を尋候に、老父煙草、屋市十郎存命にあられ、私に昔話をなし、袖に涙を絞りつつ、大和の軍より遂に亀太郎の京獄に入れられ、獄中より父にあてし文など示めし呉、私に逢ひしは伜に逢ひし同様と中され、大に喜び呉候。

この手紙は、新島襄がその妻八重子にあてた手紙であって、かつての高梁を知る上において極めて貴重な史料の一つである。彼がキリスト教の伝道のために初めて高梁に来たのは明治十三年二月のことで、書中十九日とあるから、この手紙が二月九日もしくはその翌口かにしたためられたものであることが知られる。

新島は、言うまでもなく同志杜大学の創設者である。旧松山藩主板倉家は、板倉一統の宗家であって、その分家に上野国安中・備中国庭瀬・三河国重原の三板倉があったが、彼の家は代々安中藩の板倉に仕えていたから、まんざら高梁に縁がなかったわけではないといえる。

天保十四年神田一ツ橋外の江戸屋敷で生まれたが、彼は第五子で長男、幼名を七五三太といったが、上が女ばかりであったからしめたしめたと喜んで、こう名づけたといわれている。一六歳で右筆見習として藩邸に出仕したが、かたわら蘭学塾に通って蘭学を修め、欧米の文明に関し大いに感ずるところがあって、元治元年二二歳の時アメリカ密航を企て、函館から上海を経て国禁の海外渡航の途についた。

渡米後アメリカ人ハーディーの援助で、アンドーヴァー中学、次いでアマースト大学を卒業し、明治五年岩倉全権大使の渡米の際にはその案内役を勤めたといわれるが、その後更にアンドーヴァー神学校を卒業し、日本にキリスト教主義の学校を建設するという目的で、同志の拠金六、○○○ドルを携えて明治七年十二月に帰朝、京都に同志杜を創設した。従って彼が高梁を訪れたのは同支社創設後五年、三十八歳に時のことである。

書中原田亀太郎と旧友であり、その老父煙草屋市十郎を訪ねたことが見えているが、原田は新島より六歳の年長で、新島が密航を企てた元治元年、藤本鉄石や吉村寅太郎らと大和で挙兵した、このため京都堀川の獄舎で斬に処せられたが、かつて安政年間に数年を江戸で暮らしているから、あるいは蘭学塾ででも知り合っていたものであろうとおもわれる。

新島が高梁に来たのは、金森通倫や中川横太郎らによって岡山に招かれたついでに立ち寄ったものである。恐らく彼を高梁に招いたのは柴原宗介であろうが、彼が高梁に来た経路については明らかにされていない。文中高梁川を利用する舟運の便が書かれておるが、彼が「底の平タキ船」といったのは高瀬舟のことで、当時陸路は人力車、水路はこの高瀬舟が唯一の交通機関であったから、新島は神戸から蒸気船で岡山に来て、そこから人力車で高梁に来たものであろう。

彼の来町は、高梁の思想界・宗教界に大きな石を投じたものであり、高梁における初期のキリスト教の歴史的伝道者の一人で、文中「福音の種を播くには随分好所と存候」といっているのは、彼の気負いこんだ気持の一端を伝えるものである。後に東京巣鴨に家庭学校を創立した留岡幸助や、救世軍に入りその日本軍司令官となった山室軍平も、この新島の薫陶を受けた人たちである。彼の手紙によると、かつて彼が安中の旧藩士であっただけに、まず城城址城山に筆を起こし、次いで城下について叙述している。山の中とは申せ、至って繁華したる地なり。家数は千余もこれ有り候といい、なお中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差し支えなしといっているから、当時流行の開化の町であったことが知られる。

ランプは、ヨーロッパでは十八世紀の末に小さい円芯ランプができたといわれるが、わが国ではそれから約半世紀ばかり遅れた幕末、すなわち安政の開港後に渡来したもので、明治の初年にはまだ珍しかった。高梁に関する限りこの新島の手紙が、ランプに関する記事のいわゆる初見で、キリスト教の伝道と相前後して明治十二年の末ごろから伝えられたものであろう。山田準の述懐によると、町内には柴原のような開化人もいたから、早くからランプが伝えられていたのかもしれないが、高梁市史の記述では、桜井熊太郎が有終館へ豆ランプを持ってきたのを随分珍しく思ったことが書かれている。

桜井の家は代々本町の薬種商で、商売上の関係であろう大阪から買ってきたということであったが、彼は提灯の代りにこれを持ってきたもので、随分口慢のようであったが、風に吹き消されて提灯としては用をなさなかったという。当時有終館ではまだ箱あんどん式ブリキのカンテラが用いられていた。その後ランプもだんだん普及するようになったが、最初は平芯ランプの二分芯吊ランプで、それから三分芯・五分芯になった。置ランプが用いられるようになったのは三分芯のころからであったという。

明治十六年には、三島中洲は五分芯の置ランプを用いられていた。と語っている。山田準の有終館入学は明治十四年のことであるから、ランプがまだ珍しかったことが知られる。桜井は、その後東京法科大学を卒業し、当時の芸娼妓自由廃業の問題や足尾銅山鉱毒事件などの社会問題に奔走し、日露戦争終局後には、政府の取った講話条約に対する措置に飽き足らず、国民の公憤を代表して日比谷原頭で国民大会を開いた時、「桜井熊太郎ここにあり」と怒号した有名な硬骨漢のことである。

高梁にランプが普及したのは、小倉善三郎によると明治十七・八年のころで、新島の手紙に「所々ランプもつき」とあるのは、文字通り「ところどころ」の意であって、大旅館・大商家といったところにはランプもあったのであろう。「暗夜といえども差支えなし」というから、軒なみにランプが懸けられていて、暗夜の通行に少しも支障がなかったかのように受取れるが、これは軒に吊された角行灯の見誤りではなかったかと思われる。当時高梁の旅籠では、新町の成羽屋と重屋とが最も有名で、ほかに本町では今の油屋があり、南町には見付屋というのがあった。見付屋は大坂屋すなわち平松益造の旧宅を維新後宿屋にしたものらしい。延享以来の旧家で、今でも昭和五十年頃まで残っていた阿呆倉はその家の付属であったが、宿屋としては最も大きかったけれども、間もたくなくなった。

来町の外人宣教師達は多く重屋に泊まっていたから、新島もこの重屋に滞在したものであろう。今では町の繁華はほとんど南半分に奪われた形であるが、当時は町の北半分、いわゆる本町・下町がその中心街で、たいていの用はここで足りたし、殊に下町は俗に角行灯といわれた料理屋・小料理屋が立ち並び、角行灯を軒並みに吊していたから、新町に泊まった彼の散歩区域は、おそらく近くの本町・下町であったろうし、従って「暗夜といえども差し支えなし」ということになったのかもしれない。ともかくこうした山間の古い城下町にランプがついていたことは、当時の一般から推して彼にとっては意外のことであったのであろう。

高梁に電灯のついたのは大正元年のことで、一時ガス灯の点ぜられた時代もあったが、これは電灯に圧せられ、ごく僅かの期間で滅びてしまった。当時有名な旅館であった重屋も成羽屋も、伯備南線の開通した大正十五年を前後として、いずれも転業した。新島の手紙には、高梁川に沿った城下町と城山とが巧みに描かれている。町の北半分であるが、その絵には方谷橋がない。これも不思議はないので、方谷橋の出来たのはずっと遅れた大正二年のことである。「牛乳もあれば牛肉もあり」と新島は感心したが、牛乳は横田実太郎が南町外れで牧場を開いたのに始まる。

その後横田はクリスチャンになったから、こうした開化に敏感であったのかもしれない。奥万田・権右衛門稲荷の近くに、小出某にょって牧場が開かれたのは明治十七・八年のことであるが、これも今では跡形もない。牛肉屋は、旧藩時代に大小姓格に上った田那村の分家が、本町の方から広小路の橋を渡るとすぐ左、今の能登原商店の位置に開いたのが最初である。二階付の家で、その二階をすき焼きのために開放したが、神仏を祭る母家で牛を食べるのは罰が当る、普通の鍋も使えないというので、庭とか納屋とかで、文字通り耕作用の鋤を鍋代りに、むしろを敷いてすき焼をしたという時代に、旧藩士がすき焼屋を始めたのであるから、およそ当時としては先端を切ったものであったろう。

鍛治町のかつての樋池は、そのころ今の森沢酒店の前にあって、ここでもすき焼が食べられたし、紺屋町筋の今の仲田の農具倉庫付近には赤木牛肉店があった。今は南町に移っているが、古くから今に続いた牛肉店はこの赤木だけである。当時のすき焼は一人前三銭五厘であったといわれている。山田方谷は藩士の栄養改善のため肉食を奨励し、豚を町南郊の河原で放し飼いにしたと伝えられているが、四つ足に恐れをなし、旧藩時代にはあまり食べられなかったらしい。その放し飼いの豚が、時々町内までのこのこやってきたと古老は語り伝えている。「唐物見世」の唐物は、本来茶入のことで、瀬戸物茶入を一般に唐物といったが、ここでは茶入に止まらず、茶碗とか種々雑多な陶器商を指していったものであろう。「書店」は本町の柴原文開堂のことに相違はない。

芝原の家は今の三谷印刷所のあたりで、酒屋をかねていたが彼が洗礼してからは酒屋はやめてしまった。彼は教育にも随分熱心で、小学生向け石板の代りに安価な木板や紙板を考案したり、福西の裁縫所設立に大きな力を借している。以上によって、新島来町当時のいわゆる開化の波に乗った高梁の繁華が知られ、彼がいうとおり、山の中ではありながら「何も格別不自由これなき所一であったことが分かるが、最後に新島は、「例の開化と中して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚だ困りたる事なり」といって、当時の高梁における淫風の盛行を報じている。初代戸長を勤めた国分胤之の「昔夢一班」には、

料理屋ハ下町備鵜融南町野晶鯉高新輔屋ノ外ナシ、酌婦灘舳擁洲響議雫毎度省メヲ什家

とある・これは嘉永・安政のころのことを書いたもので、旧藩時代には、料理屋と称するものは僅かに三軒に止まり、しかも酌婦を置くことは固く禁ぜられていたが、廃藩置県後わずか一〇年を出ない間に、料理屋は上品・下品を問わず急激に増加し数十軒を数えていたらしい。角行灯といわれたのがそれで、そうした料理屋・芸娼妓屋の軒先には、「干客万来」だの「華客往来」だのと書いた角行灯が吊下げられ、町内の若老を誘惑していたものらしい。角行灯を見てまわらぬと落ちついて寝られないという人も中にはあったと聞く。

戦前まで残っていた高新楼と清華楼とは当時からの高級料理店で、淫風の対象とはならなかったが、ずいぶんいかがわしい所もあったらしい。検番が広小路と南町とのニカ所にあったのだから、芸娼妓の数も多かったに相違はなく、新島の驚いたのに無理はない。このように全盛を極めた角行灯は、うどん屋とか小料理屋とかにも懸けられるようになったが、多くは明治の末に廃絶し、大正の初年まで残ったのはごくわずかである。新島の来た当時には、常設劇場としての定小屋はまだなかったが、その頃には八重離神杜の西下境内に時々芝居がかかったもので、それには下町の芸妓、特に福清の芸妓達が参加して手踊りを見せたこともあった。明治十四.五年になって、栄町の今のエスカ、かつての高梁劇場の裏手を一丁ばかり入った畑地に仮小屋が建てられ、それから三・四年の後、ちょうど明治十七・八年ごろに南町に正式の定小屋が建てられた。

当時板垣退助が来町して演説会を開いたが、その命名を求められて「コウラク座」と名付けたといわれている。板垣としては、人に先んじて憂い人におくれて楽しむという政治の根本精神から、「後楽座」と名付けたつもりであったろうが、場主は「後」を高梁の「高」と思いこんで、「高楽座」としてしまったものらしい。角力も、大阪角力が年に一回来たもので、正善寺の広場や、紺屋町筋の今の税務署の敷地や、今の順正短大の敷地である旧藩時代の矢場跡で開かれた。当時は東京角力と大阪角力との二つがあった。今の日本相撲協会はこの両老の合同したものである。

新島の手紙は、当然筆を染めるべきはずの教育機関について少しも触れていないが、当時は中之丁に小学校のあったほか、かつての藩校有終館が、三島中洲やその他の人々の努力でその前年、漢学熟として方谷門下の荘田霜渓を迎えて片原丁に再興されたばかりであり、中等教育の機関はまだ十分備わってはいなかった。町村立上房中学や私立裁縫所が生まれたのは、翌明治十四年のことであったから、見聞するほどの材料がなかったのであろう。高梁の市街地商店街が、その後の体裁を整えたのは昭和に入ってからのことで、大正十五年六月二十日に伯備南線が開通し、翌昭和二年十月、伯備全線が開通してからのことである。新島が生きて再び来高したならば、一〇〇年に近い時の流れに、うたた今昔の感に堪えないものがあろう。新島は、更に旧友原田亀太郎の老父煙草屋市十郎を訪ねたといっているが、その煙草屋は新町にあり、重屋から二町ばかり甫寄りの東側にあった。その時示された獄中の手紙というのは、

去年中山侍従殿天子の御ために大和にて義兵を挙げられ候節、私も御招きに預かり候故御味方に相成り候処、敗軍に及び私始め大勢生け捕りに相成り候。京獄中にて、二月以来追々死刑に相成り候えば、私近々同様と存じ候。誠に子として父母の莫大の御恩報いず、また私文学修行に付き、この上もなき御心配を相掛け、一日も御安心を致し奉まつらず、また憂き目を合わせ奉り、重々の不孝に候。しかしこの度の事は、天子の御ためと存じ、死に走り候故、不孝の罪は御免じ下さるべく候。弟ならびに妹どもに、親に孝を尽し、兄弟むつまじく致すべくと仰せ付けられ候様願い奉り候

亀太郎御父様京獄中にて認む

というものである。市十郎は、愛児の入獄を聞いて京に上り、百方手を尽くして意を通じたし、亀太郎が刑死した後に、この獄中の書と石川晃山の描いた画像を携えて倉敷の森田節斎を訪ね、画像記を書いてもらったほど子煩悩であったから、新島が旧友であったと知り、文字通り昔話に袖を絞ったことであろう。亀太郎の墓は城下道源寺にある。明治初年の高梁とは直接関係はないが、新島のアメリ力密航の蔭に、高梁の人があったことも忘れてはならない。この密航に関係したのは塩田虎尾で、旧藩時代の藩士、御前町の東北角に住んでいた人である。

元治元年三月、家族にも志を秘して出奔した新島は、この塩田の好意で藩船快風丸に横浜から乗って函館に向かった。函館は開港場であったから渡米の機会があると考えたのであろう。函館でロシア領事館付司祭ニコライの日本語教師となってその家に住みこみ、渡航の機会をうかがうことになり、密かに塩田もこれを助けていた。やがてイギリス人ポーター商会の店員福士宇之吉と知り、そのつてで上海行きのアメリカ汽船ベルリン号の船長付給仕となって、そのまま国禁を犯して米国へ密出国した。新島は一命を賭していたが、新島が分家安中の藩士であっただけに、宗家板倉の藩士であった塩田も、事露顕に及んだ時には、彼の責めも免れることはできなかったわけである。新島が大成した陰にはこうした塩田虎尾のかくれた協力があったのである。

この文章は昭和54年11月に発行された「高梁市史」に掲載されていたものを一部現代風にアレンジしたものです。

内田耕平

備中の国出身の天誅組の志士として、原田亀太郎ともう一人、内田耕平という人物がいます。残念ながら内田耕平に関する詳しい資料は残っていませんが備中窺屋郡吉田村出身という記述が残っています。

「窺屋郡」についてですが、窺屋郡と言う地名は備中の国には存在せず、誤表記であるとすると、備中の国で該当する地名であれば「窪屋郡(くぼやぐん)」と考えられます。

参考までに、窪屋郡は都宇郡(つうぐん)と合併し、明治33年から都窪郡(つくぼぐん)になっています。

吉田村に関しては、管見では窪屋郡には見当たりませんでした。
こちらで把握できた近世期の「吉田村」は、次のとおりです。

1)小田郡吉田村:江戸期~明治22年。 笠岡市吉田
2)都宇郡吉田  :江戸期~明治9年。  倉敷市中庄の一部
3)英田郡吉田村:江戸期~明治22年。 美作市(旧・作東町)吉田
4)赤坂郡吉田村:江戸期~明治22年。 建部町吉田
5)美作国大庭郡吉田村:江戸期~明治22年。 真庭市(旧・中和村)吉田
6)吉野郡吉田村:江戸期~明治22年。 美作市(旧・東粟倉村)吉田
7)備前国和気郡吉田村:江戸期~明治22年。 和気町吉田

備中出身はまず間違いないと思われますので、内田耕平の出身地は1番か2番であると考えられます。さらに字の感じからおそらく2番の都宇郡吉田、現在の倉敷市中庄のあたりではないかと思われます。

用語集

用語集

【天誅組/天忠組】てんちゅう-ぐみ
幕末期、諸藩を脱藩した尊攘急進派の集団。吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂(けいどう)らを中心とする。1863年中山忠光を擁して大和で挙兵、五条代官所を襲撃し、十津川郷士も加え大和高取城に向かったが八月一八日の政変後、幕軍に敗れ壊滅した。

【孝明天皇】 こうめいてんのう 
(1831-1866) 第一二一代天皇(在位 1847-1866)。名は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子。激しい攘夷主義者であったが、倒幕運動には反対。妹、和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。

【吉村寅太郎】よしむら-とらたろう
(1837-1863) 幕末尊攘派の志士。土佐の人。虎太郎とも。名は重郷。土佐勤王党に加盟。1863年天誅組を組織、大和五条に挙兵、敗死した。

【中山忠光】 なかやま-ただみつ 
(1845-1864) 幕末の尊攘派の公家。忠能(ただやす)の子。1863年天誅組の首領に推され大和五条に挙兵したが、諸藩の追討軍に敗れて、長州に脱出、暗殺された。

【藤本鉄石】ふじもと-てっせき
(1816-1863) 幕末の志士。岡山藩士。字(あざな)は鋳公。通称、津之助。脱藩して上洛。天誅組の首領に推されて挙兵、敗死した。

【松本奎堂】 まつもと-けいどう
(1831-1863) 幕末尊攘派の志士。三河刈谷藩士。通称、謙三郎。昌平黌(しようへいこう)に学ぶ。京都で藤本鉄石らと交友、1863年天誅組総裁となって大和五条に挙兵したが敗れ死亡。

【平野国臣】ひらの-くにおみ
(1828-1864) 幕末の志士。通称、次郎。福岡藩士。西国の尊攘派を結集したが寺田屋騒動で失敗。七卿落ちの一人沢宣嘉(さわのぶよし)を擁して討幕のために但馬生野に挙兵したが、幕府軍・諸藩兵に攻められて敗れ、京都で処刑された。

【十津川郷士】とつがわ-ごうし
近世、十津川流域の在郷武士。太閤検地以来、郷中一千石が年貢赦免地となり、また郷士四五名は扶持米を受けた。1863年皇室領となり、天誅組の蜂起には多くの郷士が参加した。

【尊皇攘夷】 そんのう-じょうい
天皇を尊崇し夷狄(いてき)を排斥しようとする思想。もともと別個の思想であったが、幕末期、幕藩体制の矛盾と諸外国の圧迫による危機感の中で両者は結びつき、次第に討幕運動へと展開、王政復古に至る幕末政治運動の指導的役割をになった。勤王攘夷。尊攘。

出典:大辞林

【原田亀太郎】はらだかめたろう
1838・8・15~1864・7・19(天保9~元治1)

高梁市出身
勤王の志士。名は広。通称ははじめ亀太郎、一作とも称す。煙草商原田市十郎の長男として備中松山城下に生まれる。幼時から読書を好み、はじめ藩儒進鴻渓に学び、1854年(安政1)江戸に出て岸淵蔵に入門。ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

藩主板倉勝静にその才能を愛され、抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊し、懐慨(こうがい)国事を談じ、深く勤王の志士と結んだ(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。

’63年(文久3)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。こうした情勢の中で、中山忠光を擁した天誅組の義挙に勇躍して参加したが、8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから政情は一変し、追討諸藩の攻撃を受けることになった。逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが小俣で和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれた。禁門の変のさなかの’64年(元治1)7月19日、同囚32人とともに斬に処せられた(『維新史』)。刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された。(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。
→森田節斎→進鴻渓→板倉勝静!朝森要

出典:岡山県歴史人物辞典