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「日中韓で語りあう“将来世代観点から東アジアの思想を受け取り直す”フォーラム」のお知らせ

Filed under: ニュース・お知らせ,講演・イベント — admin @ 2:39 PM 2012年5月30日

「日中韓で語りあう“将来世代観点から東アジアの思想を受け取り直す”フォーラム」
(京都フォーラム主催)

今般、19世紀のほぼ同時期に、思想的にも「気学」という点で共通している日中韓の3人の思想家―藩政改革と将来世代教育に多大の事績を残した日本の山田方谷、若き日の毛沢東に大きな影響を与えたといわれる中国の譚嗣同、新しい「気学」を興した韓国の崔漢綺―を中心に東アジアの思想を学ぶフォーラムを下記により開催することになりました。

東アジアの先人の思想を受け取り直すことで、現在の蔽塞感から脱却し、将来世代への新しい道を拓き、永続的発展につなげて行きたいとの思いを強くしています。

将来世代観点からの真摯な共働研究・対話を目指しており、併せて、このフォーラムが、日中韓の相互理解と友好に少しでも寄与することを願っております。

1 日時 : 

平成24年6月16日(土) 13:00~17:00

2 場所 : 

如水会館      
 東京都千代田区一ツ橋2-1-1、
Tel:03-3261-1101

3 出席者 : 

佐々木毅 元東京大学総長
矢崎勝彦 樹福書院理事長、京都フォーラム事務局長
金泰昌  公共哲学共働研究所所長、樹福書院院長
池上惇  京都大学名誉教授
難波征男 福岡女学院大学教授
野島透  山田方谷直系6代目(財務省関東財務局総務部長)
片岡龍  東北大学准教授
呉 端  京都フォーラム研究員
柳生真  公共哲学共働研究所研究員
以上
               
京都フォーラム事務局:06-6344-2715 
樹福書院事務局  :06-6346-1029)


東京開催フォーラム出欠ご回答書のダウンロード

日中韓で語りあう“将来世代観点から東アジアの思想を受け取り直す”フォーラムスケジュール

日時:6月16日(土) 13:00-17:00
場所:東京・如水会館

1 前半の部 (13:00~15:00)
(1) 13:00 - 13:10   佐々木毅元東京大学総長挨拶
(2) 13:10 - 13:20 汪婉駐日中国大使夫人挨拶
(3) 13:20 - 13:30 韓国大使館代表挨拶
(4) 13:30 - 13:50   ビデオ上映 
(5) 13:50 ― 15:00   発題と共働対話(東アジアの先人に学ぶ)
フォーラムの主旨について  野島透山田方谷6代目挨拶            
(財務省関東財務局総務部長)

発題
・山田方谷について  難波征男福岡女学院大学教授
・譚嗣同について   劉金才北京大学教授           
・崔漢綺について   崔在穆嶺南大学校教授

                                                           
―  休憩15:00 - 15:15  ―

2 後半の部 (15:15~17:00)

(1) 15:15 ― 15:40   ビデオ上映
(2) 15:40 - 15:50  
    前半の部総括及び今後の発展に向けて 金泰昌公共哲学共働研究所長
(3) 15:50 - 17:00   発題と共働対話(将来世代に向けて)
            (解蔽へのパラダイムの転換)
 発題
・山田方谷、広瀬淡窓、松平定信について     片岡龍東北大学准教授
・中国フォーラムへ向けて         劉金才北京大学教授
・韓国フォーラムへ向けて         崔在穆嶺南大学校教授 

【備考】
山田方谷 1805 – 1877(文化2~明治10)

日本、幕末~明治の陽明学者・政治家・教育者。幼名阿璘、名は球,字は琳縁、通称は安五郎。号は方谷。備中松山藩西方村(現岡山県高梁市)で五郎吉と梶の子として生まれた。祖先は武士だったが、方谷が生まれる頃には菜種油商も兼業する農家になっていた。

5歳の時から新見藩儒丸川松陰に学び、21歳で藩主に学問を認められて先祖と同じ武士身分に復帰した。藩の許可を得て京都や江戸に遊学する中で陽明学と出会い、佐藤一斎に従学して陽明学と朱子学の長所と短所を理解し、古典から真誠を学んだ。帰郷後、藩校有終館の会頭に任じられた。

1850年、45歳の方谷は新藩主板倉勝静により松山藩の元締役兼吟味役に抜擢され、財政再建をはじめ藩政全般の改革を担った。結果、8年で藩の負債を完済し、逆に10万両の余剰金を積んだことはよく知られている。

彼は財政のみならず農民生活の安定、教学の振興、軍制改革にも尽力した。方谷は、幕閣となり老中にまで昇進した藩を補佐する一方、執政として藩の内政を一身に荷なった。一説には、大政奉還の上奏文の実際の起草者は山田方谷だったといわれる。

明治維新後、勝静が幕府軍中枢の一人として転戦したため備中松山藩は賊軍とされたが、方谷は官軍に無血開城する道を選んで領民を戦火から救った。彼の財政手腕を欲した明治政府から出仕を求められたが、方谷は応じなかった。ただし高弟の三島中洲は東宮(のちの大正天皇)侍講となり、皇室に陽明学を伝えている。

維新後の方谷は教育活動に専念し、備前の閑谷学校の再興に尽力した。著述は『山田方谷全集』に収められている。JR伯備線の方谷駅は山田方谷に由来し、JRで唯一の個人の名前の駅である。

譚嗣同 1865-1898

中国、清末の変法思想家。字は復生,号は壮飛。湖南省瀏陽県の人。30歳の1894年(光緒20),日清戦争の敗北に感憤し,範を西洋に求めて変法を行う以外に中国回生の道はないと自覚した。そこで翌年夏,康有為らが強学会を創設したと聞き,北京に出て彼らの変法運動に参加した。

97年秋,湖南に帰り,時務学堂,南学会の設立,日刊新聞《湘報》の発行など,変法維新の宣伝のために目まぐるしく奔走した。98年,光緒帝が変法の詔を発すると,四品縁軍機章京を授けられ,政権中枢部にあって新政を推進したが,変法が失敗すると,友人が日本亡命を勧めるのを退けて,〈変法のために血を流すこと,請う嗣同より始めん〉といって,すすんで逮捕され,処刑された。

いわゆる戊戌六君子の一人である。その主著《仁学》は,この世界の存在と変化の根源を〈以太(エーテル)〉だとし,それはまた仁でもあって,その普遍的流通をはばんでいる〈網羅〉,すなわちいっさいの社会的・政治的束縛を突き破ることを強調し,革命派からも評価を受け、青年毛沢東にも多大な影響を与えたといわれている。著書に《譚嗣同全集》がある。
現在、中国の小中学校の歴史教科書の中で譚嗣同を教えられている。

崔漢綺(チェ・ハンギ) 1803 – 1877

 韓国、朝鮮王朝末期の氣學思想家。本貫は朔寧、字は芝老、号は惠岡・浿東、堂号は氣和堂・明南楼など。崔致鉉と韓氏夫人の子として生まれるが、朔寧崔氏宗家の跡取り養子にもらわれる。開城生まれだが生涯のほとんどを漢陽(現ソウル)で過ごす。23歳で生員試(初級科挙試験)に合格したが、その後は科挙の勉強をやめて読書と執筆に専念した。

1836年、36歳の時に『神氣通』『推測録』で自らの氣の哲学を初めて世に問い、本書を合本した『氣測體義』を北京の書肆から出版した。彼は朱子学を主軸とする東洋の既存の知の体系が力を失い、西洋近代文明の知が帝国主義の波とともに東アジアに押し寄せる中で、「神氣」の思想を軸に、東洋伝統思想の固守でもなく、西洋近代知の受け売りでもない主体的知を開新する「氣學」を構築していった。

代表的著述には前述以外に『氣學』『人政』『運化測験』などがある。彼の著述は人文・自然・社会科学の各分野を網羅し、死後に朝鮮第一の著述家として伝説化もした。1871年の辛未洋擾(アメリカ軍艦の江華島侵攻)時には米軍の早期撤退を予言した逸話もある。生涯を在野の一知識人として過ごしたが、晩年には朝廷より通政大夫僉知中樞府事などの官職が贈られた。