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王陽明 抜本塞源論とは王陽明、少年時代陽明の希望と挫折知行合一を悟る致良知を悟る
王陽明の生涯

陽明の希望と挫折

陽明は17才で結婚した、体が弱かったため「聖人」になることを諦めた陽明は、当初道士について、道家思想とも言うべき「養生の説」を聞きた。

(養生の説とは、「無為を以って精神を養い、無事を以って民を安んずる」という考え方。つまり「君主が自然体に生き、精神を養って特に作為を行わない政治を行う」ということ)

しかしその翌年、婁一斎(ろういっさい)という儒家に出会い「聖人は、学べば必ずなれる」と教えられ、再び儒教を学び官吏(国家の役人)になることを志すようになる。

その後、22才と25才の時、進士(中国で、科挙の科目の一。また、その合格者。宋以後では、殿試に合格した者の特称)の試験に挑戦した。しかし残念ながら2度とも落第、失意の中、再び辞章の学や兵法についても学ぶようになった。27才になったとき、またしても朱子の教えに基づき、物の「理=本質」を追求しようと試みたが、またしても失敗、陽明の中ではどうしても「心」と「理」は融合せず、失意の中再び持病が発病、またもや聖人になる夢を諦め、道士の養生の説を慕うようになった。

捜し物を諦めたとき、ふっと出てくるのと同じように、肩の力が抜けたのか、翌年、28才のときに、遂に念願の進士の試験に合格、晴れて出仕した。
念願の試験を突破した陽明は「聖人」として天下のために身を尽くそうと希望に燃えていた。そんな矢先、またしてもつらい運命が陽明に襲いかかる。もともと病弱だった事に加え、今度は肺病に冒され、休職して帰郷するという事態が起こった。

深い失意におそわれた陽明は、世を捨て俗世間の諸念を一切立絶とうと思い立ち陽明洞というところに閉じこもり、養生の道を求めた。俗世を捨て、すべての雑念を捨てようと努力する陽明だが、どうしても肉親への想いだけは捨てることができない。

その時、陽明は忽然と悟った。「肉親への想いまでも捨てろという道教や仏教の教えは間違っている。」この悟りを得た陽明は道教・仏教をすて、再び儒教を志すようになり「聖人」として世のため人のために働くことを誓った。

1506年、皇帝に武宗が即位し年号が正徳と改められた。武宗は中国の歴史の中でも最も無能な皇帝といわれている人物で、武宗は劉瑛(りゅうきん)ら八虎といわれる一部の宦官(部下)を寵愛し政治を乱し、これをいさめる役人を次々と投獄した。

これを憂えた陽明は劉瑛を弾劾し、とらわれた役人を救う上奏文を皇帝に提出、しかし(当然といえば、当然だが)反対にとらわれの身となり、漢民族の文化の及んでいない遠方の土地「竜場」に流されてしまった。

王陽明という人物は客観的に見ると単純で情熱的な性格といった印象で、彼の20代は、ひたすら「聖人」となり国と民を救うことに人生を費やしてきた燃える若者だった。試行錯誤と挫折を繰り返し、理想と現実のギャップに悩む熱血青年にとって、大きな転機となったのが「竜場(りゅうじょう)」への流罪だった。

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