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王陽明 抜本塞源論とは王陽明、少年時代陽明の希望と挫折知行合一を悟る致良知を悟る
王陽明の生涯

「知行合一」を悟る

陽明が竜場に着いたのは1508年・春、37歳の時、当時この地方は中国中央部とは異なり、人々は洞窟に住んでいた。陽明も周りと同様洞窟で暮らすこととなり、元々体の弱い陽明はここで生死をさまよう想いをした。このため陽明は洞窟でひたすら静坐を続け「物の理」について考え続けた。

何日も静坐を続ける陽明の脳裏に、或る夜忽然と光が差し込んだ。
「物の理は心の外にあるのではない! 「理」は我が心の中にあるのだ!」と、それまでの陽明は、あくまで朱子学の考えに沿った思考をとっていたが、この時、遂に朱子学とたもとを分かつ「陽明学」が産声を上げた。翌年、陽明38歳のときには陽明学の基本的な思想である「知行合一説」の論を唱え陽明学は徐々その形を整えはじめた。

陽明学の思想の柱となる「知行合一説」とは、簡単に言うと(本当はそんなに簡単でもないが・・)「知っていながら行わないということはまだ知らないということに等しい。」ということで、徹底した経験主義者だった陽明だからこそ行き着いた神髄といえる。

年末、陽明は罪を許され、江西省の県知事に任命された。このころになると、陽明は数名の門人を抱えて陽明学を説き始めていた。初期の陽明学では自分が静坐したことから悟りを得た経験により、諸生に「静坐悟入」を説きた。この「静坐悟入」儒学でいう「理=本質」を体認するためのものだが、一見禅宗の「坐禅入定」とスタイルが非常によく似ており、門人の間で「静坐悟入」を間違って認識し、仏教の静寂の道に陥るよう者が続出したため、この方法は早々に廃しその後は己の欲望を無くするための実践的修行を中心とした。

1516年、陽明45才のとき、陽明は江西省の南籟地方、福建省の汀州、澄押や広東省の治安維持を命ぜられ、約一年半の間にこれらの地方の険難なところに要塞を作って、賊の討伐に当たった。この地方には過去にも多くの武将が賊討伐を命ぜられ遠征していたが、ことごとく敗退、いまだ平定されていない危険な土地として知られた場所だった。

この地方の賊の平定に当たった陽明は、頭からいくさを仕掛けるのではなく、まず賊に対し仁義王道を説き、彼らを説得することから取りかかった。その際、賊に当てた文章は「一読すれば、感涙にむせばざるを得ないような、情愛の溢れたもの」であったといわれ、それを読んだ賊の頭の中には降伏して陽明に忠誠を誓った者もいたという。

「言ってきかねければしょうがない」説得に応じない賊に対しては兵を持って討伐に当たった。このころの陽明は既にあらゆる兵法に通じており、向かうところ敵なしの圧倒的な強さをみせた。しかし陽明の賊討伐作戦でもっとも注目すべき点は、戦よりもむしろ戦後処理にあった。戦いが終わると陽明は、再び治安が乱されないようにと、良民の生活の安定を図り、その教化に力を尽くすといった政策を実施した。

また、賊の討伐中であっても自分の門人に対してもぬかりなく強化に努めた。
陽明が賊の討伐中に門人の醇尚謙(せつしょうけん)に与えた手紙の中でこう語っている。

「今日すでに竜南(江西省)迄やってきた。明日は賊の根拠地を攻撃します。友軍は既に賊を包囲しており討伐は時間の問題でしょう。醇君、山中の賊を破るのは易い、しかし心中の賊を破るのは難しいものです。もしあなたが心の中に巣くう仇を一掃することができ、晴れ晴れとした気分を得ることができるようになれば、それこそが偉大な業績となるのです。」

王陽明の戦いとはまさに自分自身との戦いであった。いかにして私利私欲を捨て人のため生きることができるのか?陽明はひたすらそれを追い求めた。そして49の時一つのゴールにたどり着きた。


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