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王陽明 抜本塞源論とは王陽明、少年時代陽明の希望と挫折知行合一を悟る致良知を悟る
王陽明の生涯

王陽明・少年時代

王陽明と聞いてもほとんどの人は"誰?"と答えると思いる。また少し歴史や幕末に興味のある人ならば『知行合一』の陽明学を解いた人だよね、といった感じにとどまる、そういう私も、山田方谷が行動の根本とした学問(思想)である。ということは知っていても「陽明学」とはどんな学問で「王陽明」がどんな人物であったのか、ということは全く知らなかった。

そんな陽明は1472年(明の憲宗の成化八年)中国の浙江省の余姚(よよう)に生まれ、1528年、57歳の時、江西省の南安で客死した。宋代の朱子と並び称される明代の大儒であり、詩人文人でありながら中国各地で賊を討伐して大功を建てた武人でもあった。
人は王陽明を「左手に書物を執り、右手に剣を撫した、儒者であり豪傑であった」と伝えている。

陽明は現役時代から中国大陸を駆けめぐり門人を教化していった。陽明の唱える陽明学は、どちらかというと理知的で他律的な道徳を説いた朱子とは異なり、情愛に溢れた自律的な道徳を説いていったといわる。そのため陽明の講義を聞いた者は・血湧き肉躍り、歓喜の余り手の舞い足の踏むところを知らなかった、と伝えられている。

子供の時から神童といわれていた陽明は、10代の前半から中国北部が他国より侵略されたりすることを憂い、自国の未来のため働きたいと切望していた。16歳で朱子学に目覚め、朱子のいう「一木一草にも理がある」という教えを実践するために、たまたま庭に生えていた竹を見て「草木にも理があるならば、この竹にも理があるはず、それを見極めるのだ。」と一週間不眠不休で竹を見続けた。

朱子は、「聖賢になるには、万物の理をいちいち究明し、この努力を積み重ねていくと、万理は一つに貫かれることがわかるようになる、この境地に達して始めて聖人や賢人になれるのである」と朱子学の中で説いている、しかし、若き陽明はこの一週間の竹の観察によって体調を崩し病に伏す身となってしまった。その上、竹の理の究明に失敗した自分はとても聖人や賢人になれる資格はないと自暴自棄になり、儒教の学習を放棄してしまったという。


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