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備中松山藩 幕末前史
備中兵乱水谷氏の政治備中松山藩の歴史年表
備中松山藩の歴史年表
年号 西暦 藩史 一般
天暦9年 955 木野山神社創建  
寛弘元年 1004 近似稲荷神社で霜月大祭が始まる  
元暦2年 1185   壇ノ浦の戦い
建久3年 1192   鎌倉幕府誕生
承久3年 1221 承久の乱  
延応2年 1240 秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山、大松山に大砦(現備中松山城)を築き、城下町ができる。  
文永11年 1274   元寇の乱
弘安4年 1281   元寇の乱
元弘元年
元徳3年
1331 備中三好氏一族であり備中守護職となった。
高橋宗康(たかはしむねやす)氏が松山城(当時は高橋城)城主に、高橋氏の入城に伴って「松山城」と改称、地名も「松山」となる。
 
延元3年 1338   足利尊氏が京都に室町幕府をひらく
正平10年
文和4年
1355 高 師秀(こうのもろひで)、備中守護として松山城に入城  
正平17年
貞治元年
1362 主君、師秀を徳倉城に追放し秋庭重明(あきばしげあき)が城主となる  
1467 応仁の乱
永正6年 1509 上野頼久(うえのよりひさ)が備中守護代として入城  
天文2年 1533 庄 為資(しょうためすけ)、上野氏を滅ぼし大松山城、小松山城を築く  
元禄9年 1566 尼子氏が毛利元就に滅ぼされた際、山中鹿之助は織田信長の力を借り、尼子氏再興のため兵を挙げ、備前宇喜多氏の直家であった播州上月城を攻め取とる  
元亀2年 1571 三村元親(みむらもとちか)、庄氏を滅ぼし成羽鶴首城より入城  
元亀4年 1573 織田信長が室町幕府をほろぼす
天正3年 1575 三村元親、備前小早川、毛利軍により落城自刃
(備中兵乱)
<備中の有力者三村氏が、備前の宇喜多氏との戦いである明禅寺合戦に敗れた後、毛利氏の援助によって勢力を回復し、松山城に入るが、その後、毛利氏と宇喜多氏が接近することにより、逆に毛利氏に松山城を攻め滅ぼされてしまう>
(天野・桂氏に城主交替
 
天正7年 1579 小堀遠州生誕
天正18年 1590 豊臣秀吉が全国を統一する
文禄4年 1595 御津町にあった道源寺を高梁に移建
慶長5年 1600 小堀正次(こぼりまさつぐ)関ヶ原の合戦後、徳川家の代官として入城 関ヶ原合戦
慶長9年 1603 父正次の急死により小堀遠州(=小堀政一・こぼりえんしゅう・まさかず)が継承。城と御根小屋を修理 徳川家康が江戸に幕府を開く
慶長10年 1604 備中国奉行・小堀遠州が頼久寺から御根小屋に移り住んだ。  
元和3年 1617 池田長幸(いけだながよし)が因幡鳥取より入封、新田開発や城下町整備を拡張。6万5000石の松山藩が成立する  
元和10年 1624 薬師堂、建築  
寛永15年 1638 家治公の天草移封に従わなかった一部家臣が寿覚院と共に高梁に移る  
寛永18年 1641 池田氏が無嗣除封となり松山藩は備後福山藩の預かりとなる。  
慶安元年 1642 水谷勝隆(みずのやかつたか)が成羽より入封、5万石で松山藩主となる。水路の整備や玉島港の開発に取りかかる。  
慶安2年 1643 水谷勝隆が下館定林寺を高梁に移し備中国僧禄所とする  
1648 水谷勝隆により松山踊りの「地踊り」開始  
慶安4年 1651 水谷勝隆、御前神社に時鐘を奉納  
1653 時の藩主水谷勝隆により松山踊りが誕生  
明歴3年 1657 松連寺、水谷伊勢守勝隆により新築  
寛文4年 1664 水谷勝宗(みずのやかつむね)、城下の町割りを整える。  
1681 水谷勝宗が備中松山城と御根小屋を大改築した  
天和3年 1683 小松山城を改築、住居券政庁として御根小屋を大改築する。  
元禄6年 1693 水谷氏の3代目・勝美が31歳の著さで急死し継子も13歳で亡くなった為、幕府は備中松山藩水谷家に”お家断絶、所領没収”となる  
元禄7年 1694 水谷氏が無嗣除封となり播磨赤穂藩預かりとなる。浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を従えて松山城を請取りに、後大石内蔵助が城番として常駐。  
元禄8年 1695 安藤重博(あんどうしげひろ)が、上野高崎から入封、城主交替  
正徳元年 1711 石川総慶(いしかわふさよし)が山城淀から入封、城主交替  
1716 享保の改革
延享元年 1744 板倉勝澄(いたくらかつずみ)が伊勢亀山から入封、備中松山城主となる。学問所(のちの藩校有終館)を創設  
明和元年 1764 西林国橋誕生(備中神楽の父)  
安永元年 1772   田沼意次が老中に
天明7年 1787   寛政の改革
寛永5年 1793 松山藩主勝政公が八重籬神社を創建  
文化2年 1805 山田方谷誕生  
文政13年 1830 藩の平穏と五穀豊穣を祈願する旗行列が誕生  
天保10年 1837   大塩平八郎の乱
天保12年 1841   天保の改革
嘉永2年 1849 板倉勝静(いたくらかつきよ)藩主となる
山田方谷元締め役兼吟味役に就任
 
嘉永6年 1853   ペリー浦賀に来航
文久3年 1863 松山藩士 谷兄弟が新撰組に入隊  
慶応2年 1866   薩摩藩と長州藩が連合する
慶応3年 1867  大政奉還 大政奉還
明治元年 1868 備中松山城無血開城
池田氏、定番として松山城に入城
江戸幕府がたおれ、江戸が東京にあらためられた
明治2年 1869 板倉氏再興、松山城に入城  
明治4年 1871 廃藩置県
明治6年 1873 松山城 廃城 地租改正




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