平成塵壺紀行
塵壺とは河井継之助が西国遊学の際に記した紀行日記である。
継之助はこの塵壺以外には著書はなく、継之助唯一の著書として有名であり、かつ
継之助の人となりを知る上でも貴重な資料である。
紀行日記とは言っても継之助自身、この塵壺を人に見せるつもりで書いていたわけではなく
遊学中に読んだ本や使った金子などのメモ書きとしても使っていた。
継之助はこの塵壺の中で、この旅の目的である備中松山の山田方谷の元で勉強した記録を残して
いるが、このコーナーでは継之助が「備中松山に関した記述をしている部分」を拾ってみる。
Contents
7月15日(平成塵壺紀行 備前から岡山へ)
十五日 晴 片上を立てインベヲ通り、 所謂備前焼を冷し、易直 之物なり、津山川ニ暫添て 岡山ニ達ス、片上よりハ追々 開ケ、岡山ハ余程之開ケなれ共、 山之多ニハ意外也、沢々無 限アリ、水之引方十分ニ 手之届、旱(カン)バツノ憂アルマシ、 先ニ淀川ニて田へ懸る水車 を見る、是ハ簀ニ水ノシトム 様スルシカケナレ共、夜故不分明、今備前之川ニアルハ板ニて 水シトミマワル」 重ケレハ不回故か、 淀モ此モ 至手薄之 物なり 輪ハ竹、 中ハ、 不傷様ニ 色々アリ 川ハ大ニアラス、流レモ急ならス、 相応ニ深シ、我国ノ青山川 ヨリハ大なれ共、彼所ニて試 なれハ好からん、水勢似たる 様覚、水利之届しハ熊沢 遺意かと思ワル、稲ハ何も 能出来て、殊に其跡ヘナ種か 麦、先ニ伊勢て聞、一反テ 米ノ七俵も取り、其跡て 麦五六俵も出来ると、其割 なら下直なるへけれとも、 ハけ能故か、惣高直なり、 岡山迄来と中ニ、百姓家息へ 咄ヲ聞(米直段之事ニ付)、能筈ナレ共、ヤハリ表ヲ 張所ニて、何れも貧シト、殿様・家中 勝手不能由、四年トか前ニ札 一匁十分一ニナリ、当時ハ八文ニ 当ル、其前迄ハ讃支(岐)へ渡ると正銭 百五文迄ニハナルト、是ニテ金持も 長持ニ弐三杯も持しモアリ、此十分一ニテ 皆ヨワルト、可歎事ナリ、地震之 年之仕事か、熊沢之事を 聞ニ、繁山村ハ五里計リ跡ニ ナルト、山ノ中ナリト、繁山之事ハ 能不知、其人ならん、白昼ニ 提燈ヲ附、立ノクト、其人、御城 之際ノ川山ノ木ヲ切ルト、後ニハ千石積 之不入様ナルト、要害も悪しと 云れし由、果して今ハアセタリト、 をそろしき人なリト云、繁山之 事ならん、石山多き故、 予問、炭・焚木如何ト、沢山 なる由、炭之直段六貫匁 俵、弐百四五十位ト、岡山ハ さすか国主、大なる物ナリ、町 入て、小橋・中橋之二川ハ、皆 上リ川ニて、京橋ハ右云城之 外濠なる川ニて、京橋二(尤自国之船も)四国 高松ノ船数艘アリ、一六二ハ 是非大坂船出る、四国ハ毎日 便船アル由ナレ共、如何ニも 盆十五日之事なり、弥出ルトモ 不定、讃支渡らんため、暫 見合すれとも、思きりて 本道を不行、妹尾と云到、 是ハ已ニ備中なり(川アリ境)、子細ハ大坂 を始メ姫路・岡山・備中も倉 敷辺、昨年コロリ之病、又 流行して死人多、大坂 より之往来、兵庫、何れも 流行、道ニ六部ノ死するを見、 赤穂ヨリ片上出る山中ニテ 駕輿ニノセテ手拭ニて顔ヲ 蔽へ、生ける取扱ニして行 女アリ、命ハ天トハ乍云、 好て到るハ愚と思、讃支 渡んとするため也、瀬尾ニ宿、 大坂ヨリ備中迄、 痛神送るとか云て、馬鹿 等敷事、何れもあり |
1859年(安政6年)7月15日晴れ 河井継之助は備前片上より伊部(いんべ)を通り、途中備前焼の工房などを見学しながら津山川に添って岡山に到着した。岡山に近づくにつれ、徐々に町が開けてゆき、岡山市街地につく頃には広々とした平野となった。この土地は治水がしっかりとしており水路が十分に整っている、干ばつの心配はあまりないだろう。岡山に入った道中、大きな水車を見かけた。 以前、淀川のあたりでも田にかけられた水車を見たが、そのときの物は竹を編んだような水車で水の中に沈めて使うような仕掛けの物だったが、夜は動いていないようであった。 明けて今、ここ備前で見た水車は板が張ってある物で水につかって回る。構造的に重いと回らないのか、淀川の物も、今回の物もとても薄手の物である。 車輪には竹を使っており、中の材質は色々の様である。 道に沿って流れる川はさほど大きい川でもなく、流れもさほど急な物ではない、深さはそれなりのようだ。長岡の青山川よりは若干大きいか、水の勢いは似たようなものだ。 治水が行き届いているのは、岡山の偉人熊沢蕃山(注1)の威徳による物とおもわれる。稲のできも良く、このあたりは稲の後、菜っ葉や麦などをつくる二毛作を行っているらしい。 岡山まで来る途中、百姓の息子に話を聞いた。米の値段は結構よいはずなのだが、備前の殿様も、家来もみんな貧しいらしい。 どうやら激しいインフレが起こり、4年ほど前に一匁札の価値が十分の一に暴落し、現在では8文程度になっているという。 インフレの起こる前までは一匁札をもって讃岐に渡ると正価150文程度になっていたという。 熊沢蕃山のことを聞くと、蕃山はここから5里ほど東に戻った繁山村(注2 繁山=蕃山)というところに住んでいたらしい。繁山村はとても山の中で話を聞いた百姓は、繁山のことはよくは知らないという。 炭の段は6貫匁俵、245文くらいらしい、さすが岡山、たいしたものだ。 いよいよ岡山の市街地に入ってきた。小橋・中橋の二つの川は、どちらとも上り用の川のようである、また、京橋は岡山城の外堀としても機能している川で、四国高松に向かう船が数隻止まっている。 讃岐に渡りたかったため、しばらく様子をうかがっていたが、どうもわからない、ここは思い切って方向を変えて、妹尾というところへ出た。ここには川がありこの川が備中と備前の境となっているようだ。 大阪を始め、姫路、岡山、備中倉敷まで去年から流行しているコレラが蔓延して死人が多く、大阪から今までの道中にも多くの死体をみた。 赤穂から片上へあがる山中にてかごに乗せられて、手ぬぐいで顔を覆われ生きながらにして死んだように扱われている女がいた。命は天から与えられたものといいながら、好んで死のうとするのは愚かなことがと思う。 明日は、讃岐まで足を伸ばしてみようと思うので、本日は妹尾で宿を取る。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
||||||||||||
右上赤の矢印が蕃山村、左下が備前片上 |
7月16日(平成塵壺紀行 備中松山に到着)
|
||||||||||||
十六日 大雨 間々晴 前ニ云ことく、諭ヶ(由加)山を見物して、 下ツ井へ出、讃支へ渡らんため来れとも、 朝大雨ニて、悪気を一洗する ならんと思、且、讃支ハ帰路 之図リ、殊ニ松山ハ山中故、返 彼方好からんと決定して、 瀬尾より、右ニ吉備之社見て、 板倉出、是ハ本道なり、板倉 より松山道別れて、城下迄 八里、弐里計リハ平らなれ共、 跡は皆山ニて、松山川とて玉島へ 出払川アリ、六里計り之所ハ 両岸山ニて、川岸行、 躰之所ナリ、休し処で札 之咄出、松山札ハ随一なる由、或時、 五匁之札、不通用之聞アル処、 不通用之物非道と、何日迄と 日を限り、触出、持参引替、 目前ニて火中アリ、皆感心 して信する由、其外文武 をも不励者ハ山上ケル抔之咄、 他領之者迄信して咄をす る、遙るか来り、ハリあいニ思しナリ、 此辺、諸方之札アリテ、誠ニ難信 物ナリ、段々山入リテモ、山高モ ナラス、其中ノ少ノ開ニハ家アリ、 松山モ其広き所ナリ、何れも 四方山ニて、方十町有るハ 覚束ナシ、地勢之替リ、奇妙 なる物ナリ、幾等山之中ニても、 稲も能出来、竹も諸々ニアリ、 夜少々遅ナレ共、盆之事故、 道中ニて宿を迷惑かる故、 松山迄来る、昼過ハ大雷雨 なれ共、夜ハ晴て、月もさへ、 左右絶碧故、前岸之山上ニ 月照り、此方之山之かげ、前山 之半ニウツリ、中ニ清川流 て好風景ナリ、更夜道ヲ 不厭、五ツ頃、松山着宿ス、其外 五年以後ノ売買之田地ハ、 皆本返ス抔之咄アレ共、不足 信、追此地ノ事ハ山田ニ尋て 可記、松山ハ本道より北西ニ入、 如案、流行更ナシ |
16日 大雨 時々晴れ 倉敷市児島の由加山(神社がある)(注1)を見物して 下津井(現瀬戸大橋の袂)へでた、讃岐(香川県) へ言ってみようかときては見たが、この大雨で行く気 が失せた、讃岐には帰り道によってみようと思う。備中松山はここからはさらにかなり山奥だ、瀬尾を 通って一宮の吉備津神社(神殿は現在国宝)を右手に見たところで、板倉(注2)という交差点に出た。中央に道しるべがあり「城下迄八里、弐里」とある。備中松山城まで48キロ、ここから12キロくらいは平坦な道が続くが後はずっと山道となっている。 国道180号線にはいる。備中松山に入る途中、休憩のため茶屋に入る、主人に「山田方谷氏」について訪ねてみると、 「乱発と偽札によって信用を失っていた藩発行の5匁札を、ある時方谷が全て正価と交換・回収し、これを皆が見ている前で全て焼き払ってしまったのだという、それ以後新しくなった5匁札の信用はこの地域随一なのだという。」 備中松山に近ずくにつれて、周りには少しは家もある物の全体的には全くの山の中だ、備中松山そのものもその大きな物と言っていいだろう。 と、思っているうちに備中松山の領内に入った。松山に入ったとたん、それまでとがらりと風景が変わり、周りの山々は全てきれいに整備されており、畑が山頂に向かってのびている、山の中ながら稲もよく育っているようであり、所々に孟宗竹が茂っている。 夜も更けてきたが、ちょうど盆踊り期間だったらしくこの時間でも道中は随分とにぎやかだ(注3)。松山の手前で宿を取ろうかとも思ったが、盆踊りのため途中宿を取っては宿屋の迷惑かとお思い城下まで行くことにした。 さらに夜は更けてきた、昼過ぎには雷を伴う大雨だったが、夜には見事な月が出た、高梁川に沿って続くこの道は左右が絶壁になっているため、前の岸の山上を月明かりが照らし、その山の陰が前の山に映っている。その中央には高梁川の清流が流れており美しい光景だ。(注4)さらに夜道を進み、夜8時頃にようやく備中松山の市街地までやってきた。 そうそう、これも聞いたことだが、備中松山では5年以後に売買された田畑はすべて元の持ち主の元へ返却したという話だが、さすがにこれは信じられない、後日、山田方谷氏にあった折りにでも聞いてみよう。 備中松山は山陽道からは北西にはいったところにある。今のところコレラはまだこの地にはきていないようである。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
7月17日(平成塵壺紀行 方谷に弟子入り志願する)
|
||||||||||||
□十七日 晴 山田 一 松山を立て、ヤハリ川ニ添て、 三里計り奥入り、漸く山田 之宅へ昼頃到る、弥 陜キ所なれとも、 如前様子ハ不替、余程之能 家、昨年之引移り、未普 請も十分ナラヌト、面白所也、 道々新開之所も諸々見ユ、 行と、無程逢れて、 色々咄もあり、己之胸中 を開て頼し処、能聞受て、 与得御答可仕と被謂候、 既ニ受る之口上ナリ、随分 親切ニ被云、夜山田ニ宿ス、 昼夜大躰出居ラル、佐久間ニ、温良恭謙譲ノ 一字、何れあると論、 封建之世、人ニ使われる事 不出来ハ、ツマラヌ物と之 論 一村ニ壱丁ツ・之新開ヲ 公之水戸一条ニ付、 |
17日 晴れ 山田邸に宿泊
松山の市街地をでてやはり川に沿って 山田邸のある場所は家一軒建つのがやっとくらいの 早速訪ねてみたところ、程なく山田方谷氏と面会 方谷氏は大変忙しい身で、昼夜を問わず藩に出ておられる。 その夜、方谷氏に同門で私の師でもあった佐久間象山について聞いてみると、 また、別の話として「この封建社会においては、いかに優れた才能があるとしても上司に使われることができなければその才能を発揮することができない、つまらないものである。」とのこと。 一つの村に付き、一丁の新田の開発のノルマを課したこと。 そのほか、様々な話をしたが、詳しくはまた追って記すこととしよう。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
7月18日(平成塵壺紀行 花屋に宿泊、会津藩、土屋に出会う)
|
||||||||||||
十八日 晴 花屋 昼前中咄し、先一端、 城下引取り、廿日ニハ出故、 願始其節談すると 被云、昼後松山帰る、 山田より之書を持て、 進昌一郎行、文武宿花屋ニ宿を取る、予 より先ニ、会津藩土屋 鉄之助宿ス、無程松城 藩と云、ホラガイ・大鼓・采 配ヲ持、一人来る、此者ハ 兼長岡へ来る者なり、 昌一郎も宿来り居、 土屋と三人談ス |
18日 晴れ 花屋に宿泊 昼前まで山田邸で話をしていたが、「一旦松山城下へ戻り待つように、二十日には方谷氏も公務で松山城下まで出るので、弟子入りの件についてはそのときに話す」と、云われた。 昼食をいただいた後、松山城下まで戻ることとした。城下の勝手がよくわからなかったのだが、山田氏より紹介状をいただき、氏の門下である進昌一郎(注1)を訪ねた。 進氏によると松山では文武宿という書生のみが利用する宿があり、遊学にきた書生はあらかたそこに泊まるらしい、よって進氏の紹介により、文武宿「花屋」(注2)に宿を取ることとなった。 花屋に入ると同じ北国の会津藩士・土屋鉄之助(注3)がすでにチェックインしており、さらにしばらくすると松代藩の稲葉隼人という男が入ってきた。 この稲葉という男はなんでもホラガイの修行をして全国を巡っているという変わった男で、昔長岡にもきたことがあるらしい。 しばらく3人で話をしていたが、そののち進氏も花屋に現れ土屋と進氏と3人で話が盛り上がった。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
7月19日・20日(平成塵壺紀行 松山藩校「有終館」を視察)
|
||||||||||||
十九日 晴 花屋 朝、土屋・松城藩士(稲葉隼人)と三人 談ス、稲葉ハ不足取者なれ共 ホラガイハ余程巧、未聞処ナリ、 昼後案内ありて、学問 所土屋と供ニ出ル、大勢 列座、色々之談に及、夕刻帰宿、夜ハ同宿 三人と談ス |
19日 晴れ 花屋に宿泊
朝、土屋、稲葉と3人で談笑した。 有終館では大勢の学生が列座し、大変活気があった。 |
|||||||||||
廿日 昼晴 夜雨 花屋 昼後、山田先生之出懸り 宅被招、土屋と共ニ行、進と 神戸と来り談ス、土屋ハ 諸藩ヲ尋、学校之様子始、 衆人ニ応接、数々珍敷咄も あり、淡州之土兵」ヲロシャ 船乗りし咄」小浦惣内之咄」 姫路之学校」(水戸ノ咄)、面白談数々 アル、夜四ツ頃帰宿 |
20日 昼は晴れ、夜は雨 花屋に宿泊 昼過ぎより山田先生の松山城下での宿泊先となる宿「水車」(注2)に招かれたので土屋と2人で出かけた。水車につくと進と神戸(注3)が来たので皆で話をした。 中でも気を引いたのが土屋の話だ、会津の土屋は今までにも各地を旅で回っており、各藩の学校の様子や各地の人となりの違いなど様々な珍しい話を聞いた。 そのほか、淡路の士兵の話、ロシア船に乗った話、小浦惣内の話、安政の大獄の話、姫路にある仁寿山学問所の話などいろいろと聞いた。 夜10時頃に花屋に寄宿し就寝。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
7月21日(平成塵壺紀行 松山藩での生活1)
|
||||||||||||
廿一日 晴 花屋 朝、土屋・稲葉ハ宿を立て 暇ヲ告、約束故、山田行し処 今日願を出さん、直ニも不済事故、夫迄ハ宿ニ逗留 之様被云、昼後亦行談ス、 右ハ、出懸リ宅と本宅と、 半分ニ居ル之事ニ依也、 頼母子之談出ツ、士ハ士、百姓 々々、町人々、夫々中間之外 堅停止、改格之一也と被云、 追改格を聞可記、猶 背法者、家老当リニ、一人、 下輩ニもアリ、夫々罰アル由、 夕刻より進昌一郎被招、 秋田迄ハ大坂ニて喜、近くも 当藩大坂之取扱、山田 |
7月21日 晴れ 花屋泊 朝、同宿していた土屋、稲葉が宿をたった。私も今日、山田先生のところへ伺うと約束していたので先生の元へゆく。 先生に弟子入りのことを尋ねると「今日にも藩に、弟子入りの許可の願いを出す、結果はすぐにはわからないのでわかるまでは宿にとどまっておくように」とのこと。昼過ぎにまた先生のところにゆく、山田先生は城下では「水車」という出掛かりの宅に住み、本宅はここから数十キロ離れた長瀬というところにある、本宅と水車とで半分半分に暮らしておられる。昼の話では頼母子講(たのもしこう=注1)の話をした。 備中松山藩では「士は士、百姓は百姓、商人は商人、それら身分の物がほかの身分になることを堅く禁じる今までの身分制度」を廃止している。これも改革の一端であるという。 また、藩の法律を破った者が家老に一人、家来にも一人いるらしい。彼らにはそれぞれ厳罰が下ったらしい。 夕方より進昌一郎氏の家に招かれる。山田先生と一緒にゆき、いろいろな話を聞いた。話の一つに「灘の酒は60万石の価値がある」という話が出た。 大阪の米問屋も秋田の米は喜ぶが、近場でも伊勢の米は嫌うらしい。 まぁ、各問屋も損をしないようあれこれと試行錯誤をしているようであるが、おうおうに見込みがはずれてつぶれる業者も多いと聞く。 山田先生の実施した改革に一つで「屯田兵制」があるが、当初へんぴな山奥に飛ばされた下級武士は単身赴任をして、非常に立腹していたらしいが、新田新畑の開墾により収穫による食料と金がはいると態度は一変し、嬉々と喜んで家族一同もその地に移り住んだという。 この松山藩には「教諭所」という学校がある。驚くべきことにこの学校には町人が通っており、読書や輪講(注3)をしている。 この林・三島の二人は最近藩に取り立てられて藩の要職についている。 松山藩の教育方針は全く感心する以外何者でもない。 山田先生の話では、財政改革と教育と軍事、これらを兼ねそろえなければ真の改革はできないとのこと、改革というと、とかく財政改革ばかりに目がいってしまい、文武が廃れてしまう、それでは真の改革はできない、と。 藩政改革で有名な上杉鷹山について訪ねてみると、「財政改革についてはあるていど成果を残すことができたが、文武が廃れてしまい米沢藩は「富国強兵」の目的を果たしてはいない、これでは中途半端な改革といわざるを得ず、残念なことだ」とのこと。 あと、進昌一郎氏も庄屋より酒屋に養子に行った商人で元々の武士ではない。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
|
7月22日~8月1日(平成塵壺紀行 松山藩での生活2)
|
||||||||||||
廿二日 晴 昼頃少雨 夜雨 花屋
廿三日 晴 夜雨 花屋 廿五日 朝曇 昼後より風強 雨降 |
22日 晴れ 花屋にて 昼頃に少し雨 夜にかけては雨
23日 晴れ 宵のうち雨 花屋にて 25日 朝の内曇り 午後より強風を伴う雨 |
|||||||||||
廿八日 晴 是より後、八月七日附ル 会藩秋月悌次郎来ル、 土佐之政事、面白咄ヲ聞、 其一二事ハ、大晦日之夜、 士屋敷ニて懸取之済迄ハ、 夜四ツ迄提燈ヲ門前出置、 四過ニ猶出し置ハ、見廻り之 役人何故ニ出置と問、懸不払 と答れバ、其座ニて役人相払へ、 翌年之高ニて引取、其上叱ヲ 受」商売多分之利ヲ得ル 事不出来、大坂ニて、幾等ニて 買故、幾等ニて売ルト、書附ヲ出ス由、町人モ如前士分之厳重 対しても猥り之事ハ不出来 旨」足軽ハ高足(バ)之物不成由」、 少しヅヽ咄しもあれとも忘ル、 右悌次郎之談 |
28日 晴れ これより先の記録は8月7日に書いた物。
会津藩の秋月悌次郎(注1)という男が松山藩に遊学にきた。 大阪でいくらで買うとかいくらで売るとかいっていると値札を見せられた話。などなど |
|||||||||||
廿九日 晴 今治之人(名字忘ル)、秀之助来ル八月朔日 晴 秋月ハ帰ル、三嶌貞一郎来ル、 是ハ被召出ニ付、引移之ため也、 山田之咄ヲ色々致ス |
29日 晴れ 今治の、名字は忘れたが秀之助という男が遊学にきた。8月1日 晴れ 秋月悌次郎は旅だった。 三島が来た。 三島君が藩に召し出されたため、引っ越しのためらしい。 その際、山田先生の話をいろいろと聞いた。 |
|||||||||||
|
8月2日~8月7日(平成塵壺紀行 「水車」へ引っ越しする)
|
||||||||||||
二日 晴 三日 晴 夕方、水車移ル、是迄 花屋ニ逗留、夜昌一郎来ル |
2日 晴れ
3日 晴れ |
|||||||||||
四日 晴
○「花屋より蚊屋ヲ遣ス、 |
4日 晴れ
それまで世話になっていた「花屋」に蚊帳を手配してもらった。料金は三匁 5日 晴れ |
|||||||||||
六日 終日小雨(時々晴) 雷時々鳴ル 此頃之暑、土用ニ勝と 思ル |
8月6日 終日小雨 時々晴れ 時々雷が鳴った このごろの暑さは全くかなわない、土用にも勝る暑さであると思う |
|||||||||||
七日 晴 ○「花屋よりぬかをけヲ送ル、遣ス」 乕兵衛ニ土井之書遣ス 「帷子 壱 洗濯ニ遣 羽織 壱 紋之手本ニ遣 右弐品帰ル」 △進昌一郎より味噌を送○「花屋壱分遣ス、木綿之 代、余りあれ共、追勘定、 |
8月7日 晴れ 花屋よりぬか漬けをいただいた。 用兵衛に土居の書を送る。 「かたびら(注2)一組の洗濯を頼む 羽織の一枚を紋の手本として貸していたもの、 用が済んだのでこれら二品を持って変える」進昌一郎氏より味噌をいただく。一部を花屋に送る 新調している着物の代金だが、 夕飯は進氏とともにとった。 |
|||||||||||
(注1)この木綿は七日にも出てくるが、どうやら継之助はこの木綿で着物(羽織?)を一着新調しようとしている。 二日後の七日に自分の家紋の見本として業者に貸していた羽織を持って帰る記述がある。 この一文は継之助の書いたオリジナルの「塵壺」の中で訂正線で消されているため、平凡社の「塵壺」ではカットされている。(注2)夏用の麻の小袖。薩摩上布・越後上布などが用いられた。 |
8月8日~8月14日(平成塵壺紀行 松山藩での生活3)
|
||||||||||||
□ 八日 曇 山田行、其中之咄ニ、誠心 より出バ敢不用多言 答問 |
8月8日 曇り
長瀬の山田邸へゆく。 |
|||||||||||
九日 終日曇 夕雨 山田 十日 晴 山田 三晩宿ル ・・・・・・・・・三夜 九 十一日 晴 夕大雨 朝山田を立て供水車帰、 夜三島来、三人談話 酒壱 なす・玉子二出ス ○「右代ハ花屋弐朱遣置★★★★★返ル」十二日 朝大雨 昼後、山田先生帰 十三日 晴 (三島)進、外ニ両三輩と、三島へ 行、夜月明、蔵書 目録可見、夕飯酒 十四日 晴 袴地買、書附有之、 仕立之上遣図り、代ハ済 |
8月9日 終日曇り 夕方より雨 山田邸泊
8月10日 晴れ 山田邸泊 8月11日 晴れ 夕方に大雨 8月12日 朝大雨 8月13日 晴れ 8月14日 晴れ |
|||||||||||
|
8月15日~8月18日(平成塵壺紀行 不動滝を観光)
|
||||||||||||
十五日 晴 時々雲ある 夜五ツ頃より四過迄、殊ニ明月 □ 十六日 晴 八過雨又晴 山田 三 暁七ツより藩士七八人と其他 豪賈壱両人と山田行、 夫よリ船を登せ不動瀧と云迄到、岸絶碧不可 名条、川ハ小なれとも、如何ニも 急流、舟師之心労、励きニハ感心 之物なり、懸る急流ハ始て 乗し也、又山田帰り、夜ニ到り、跡之人々ハ 船ニて松山帰ル、追礼か舟ノ」 十七日 晴 山田 二夜・・・・・・六 夜、明月、先生と月下ニ 咄を聞 |
8月15日 晴れ 時々曇り 夜8時頃から10時頃まで月明かりがとても明るい8月16日 晴れ 午後2時過ぎに通り雨 後またはれ 朝早く、午前4時頃より松山藩の藩士7~8人と豪商ひとりをつれて長瀬の山田邸にゆく。 途中、山田邸よりもさらに上流に船を進ませ不動滝(注1)というところまでいった。その風景は奇岩や絶壁に囲まれなかなかに圧巻である。川幅は小さいがとても急流で船頭の心労と働きには感心するばかりだ。このような急流で船に乗るのは初めてのことだ。その後、船にて長瀬の山田邸まで帰る。夜になって、私以外の人は船で城下まで帰った。船頭への礼は彼らがしたか・・・ 8月17日 晴れ 山田邸泊 |
|||||||||||
十八日 晴 夕雨 朝飯を食て、四ツ頃、山田を 立、木野山参り、快晴ならハ 大山(ダイセン)も可見ニ、薄雲ありて 残念なり、近辺ハ一目ニて 相別り、風景面白し、七ツ頃 水車帰 |
18日 晴れ 夕立 朝飯を食った後、午前11時頃 山田先生の家を立つ、その後木野山神社(注2)に参る、この神社は高い場所にあり、快晴ならば大山(鳥取県にある西日本の富士といわれる山)も見ることが出来ると言うが残念ながらこの日は薄曇りで見ることは出来なかった。しかしながら周りの風景は一望できなかなかおもしろい体験をすることができた。午後4時頃、水車へ帰る |
|||||||||||
|
8月19日~9月7日(平成塵壺紀行 野山を視察)
|
||||||||||||
十九日 曇 昼後雨
夜ニ到り、山田先生来ル |
19日 曇り 昼過ぎより雨
夜、暗くなってから山田先生が来られた。 20日 晴れ 先生が泊まった 21日 晴れ 昨日と同じ 22日 曇り 夕方より雨 昨日と同じ 23日 終日雨 昨日と同じ |
|||||||||||
廿四日 晴 先生帰、此間様々之談 ヲ聞、昼後先生帰後、 進・林・三島来ル、夜迄談、弐朱余り出、酒 廿五日 晴 朝、林来談 廿六日 晴廿七日 晴 曇勝 廿八日 晴 廿九日 晴 夕方雷 少雨 夜、進来ル 九月朔日 晴 □ 二日 朝晴 昼時分少雨 山田行 四 三日 晴 山田 四日 晴 山田 三夜・・・・・・・・・九 五日 晴 水車帰 |
24日 晴れ 朝、山田先生が水車へやってこられた。昼過ぎに帰られるまでの間、いろいろな話を聞いた。先生が帰られた後、進、林、三島の三名が水車にやってこられた。酒2升ばかりを出した。25日 晴れ あさ、林富太郎氏が来て話をした。 26日 晴れ 27日 晴れのち曇り 9月1日 晴れ 2日 朝晴れ 昼、時々雨 |
|||||||||||
六日 晴
七日 曇 昼大雨 晴 坂之上より城を一目ニ見る、城、 |
6日 晴れ
7日 曇り 昼に大雨 のち晴れ 夕方にやっとのこと水車に到着した。野山にゆく道中にはかなりの山坂がある。そうそう、帰り道の坂の上から松山城が見えた。城のある山の名を臥牛山(がぎゅうざん)という |
|||||||||||
|
||||||||||||
9月8日~9月15日(平成塵壺紀行 継之助、腹をこわす)
|
||||||||||||
八日 曇 夜、山田先生来る 九日 雨 先生逗留 朝四ツ過、地震、夜明方、又 震、改革ハ古物ハ老て死、 若年之者ハ成長、十五年 位ニて始て立物、急ニすると 朋輩(トウ)之憂抔アリ、急ニハ不出来 事ナリ、乍去、始より心ヲ用ユルハ 無申迄事ト、右ハ君公、楽翁之 咄と云て山田ニ被咄候由、君公ハ 楽翁公之曽孫ナリ、桑名 より来ル人、先生又云、十ヶ条 アレバ段々易より始、追々可致 事と、総如此様子面白事 ナリ、此夜林ニて之咄 |
8日 曇り 夜になり、山田先生が水車に現れた。9日 雨 先生はまだ水車におられる。 朝、10時頃、地震があった。夜になり、また地震。 水車にて山田先生に話を伺う、今日の話としては、「改革とは、古い者が死に、新しい改革者が育ち、15年くらいたって初めて成果がわかってくる物だ。急いで執行していると、おもしろくない者や抵抗勢力が出てくる、なかなか急にできる物ではない。」と、はじめから焦ってする物ではない。 とのこと。この話は松平定信公が曾孫(注1)である板倉勝静公にした話という、山田先生は言っておられた。備中松山藩の藩主である板倉勝静公は松平定信公の曾孫に当たるお方で、桑名松平家から養子にこられた方である。 また、この日、林富太郎から聞いた先生のお話として「10個やらなくてはならないことがあれば、その中のもっともやり易いことからはじめ、だんだんと進めればよい、すべての物事はこのように進める物である。」とのこと、なかなか興味深い。 |
|||||||||||
十日 朝雨 曇 朝、先生帰 十一日 曇 時々雨 昼時分、度々地震、 昨十日、昼頃より腹瀉、夜 弥甚敷、今日ニ到り猶未 不止、松茸之慕(ホウ)食より 来る事、江戸ニて豕ヲ 貪り、中られてこりけるか、 江戸を出てよりハ、更ニ 心ヲ用しか、如何なる訳ニて、 如此事仕たるやと、跡ニて 考けるニ、不思右様之事ヲ スるハ、竟油断、心之緩み より之儀、他日之戒之ため記置 |
10日 朝のうち雨 のち曇り 朝、先生が水車から長瀬の自宅に帰られた。11日 曇り時々雨 お昼時、ときとき地震があった。 昨日、10日の昼頃より腹の調子が悪い、夜になるとどうにも我慢できないほど痛くなった。今日11日になっても腹の痛みはまだ治まっていない。松茸の食い過ぎが(注2)原因であろうか。 江戸にいた折、豚の食い過ぎにより腹をこわした、あのとき暴食を懲りたはずであったが、またやってしまった。 江戸を出てからは、さらにこのようなことがないよう用心していたつもりであったが・・、どういう訳かまたやってしまった、今になって考えてみるに、全く油断してしまっていた、心がたるんでいた。今後の戒めのために、ここに記述しておく。 |
|||||||||||
十二日 曇 人間之腹ハ弐十四時ニて 一回とか、奇妙なるかな、 一昨昼夜之腹痛、今日 ニ至り弥本快、是幸也、 必後日之戒、可懼る也、 此日花屋三匁、机・暗燈(アンドウ)之 礼ニ遣ス、夜又地震十三日 晴 風強 夜、天ニ無雲、風も 止、月可愛 十四日 晴 今朝、郷状ヲ封す、 |
12日 曇り 人間の腹という物は24時間で一回りする物らしい。 不思議なことにあれだけ痛かった腹が今日は全く何ともなく至って快調。全くよかった。今後こういったことのない様自らを戒めよう。 この日、世話になった「花屋」へ3匁、机と行燈の礼を遣わした。 夜になり、また地震があった。13日 晴れ 強風 この日の夜は空に全く雲が無く月が美しい。 14日 晴れ 今朝、長岡の父に当てた手紙を出した。 |
|||||||||||
十五日 晴 夕刻、乍暇乞進行、 山田先生来居り、始て 郷状を見、水変を聞、 夜不寝、夜更迄返書を 認、別封ニして頼、先生(セイ)、 妻君よりと云て、小手 被下、宵之中色々咄を聞、 世話すき、経済咄すき之筋と云言葉 あり、面白敷処ある様思わる、 他日戒之ため記置、乍嘘(タワムレ) 其中ニ心ヲ用居と、妙言 ある様思ワル、和文ヲ被送下 |
15日晴れ 夕方、先生がいよいよ江戸に出張されるというので、その間自分もさらに西国・九州方面に遊学に出てみようかと思い、藩の責任者である進氏に申し出るため進宅へ。その後、水車へ戻る、山田先生も来ておられた。そこで郷土から来た手紙を渡されたがそれを見て驚いた。長岡は大洪水に襲われていると言うではないか。夜になっても寝ることができず、返信を書いた。 寝れずにいると先生がいらして「これは私の妻からだ」といわれ、切手を下された。その夜は寝ることもできず、先生にいろいろな話を聞いた。先生は本当に世話好きで、かつ経済の話が好きである。 |
|||||||||||
|
9月16日・17日()平成塵壺紀行 西国への旅立ち)
|
||||||||||||
十六日 晴 先生逗留 朝より人来、先生一寸 出来り、亦昼後より人来、 不絶、酒ありて、咄す暇も なく、夕方三島来、此時抔ハ 先生も余程酒を呑み、 三島之言、不得正を極論ス、 傍ニありて、先生、三島之 趣ヲ見る処あり、三島 帰りて後、又々人来り、 終ニ夜七ツ前迄酒ある、 直ニ出ルと被謂けれとも、 留て寝る、此夜地震、此間毎日なり |
16日 晴れ 今日は朝から人が出入りしており、先生もしばらく出かけていた。また、昼を過ぎても人がきては絶えず誰かが酒を飲んでいる。 全く話をする暇さえない。 夕方になって三島がきた、そのときなどは先生もよほど酒が回っていたか、三島の一言に対して、完膚無きまでに論破してしまった。それにしても、先生は三島に関してもとてもよく見ている。三島が帰った後も、また誰かが来た。結局この日は明朝4時頃まで酒の絶えることはなかった。 この日もまた地震があった。このところ毎日地震がある。 |
|||||||||||
十七日 晴 先生、朝五前、水車を立 帰る、北海之小鯛と云て、 大なるヲ被下、前夜之 松茸、彼是心配、忝事也、 先生を送て飛石迄 行、昼頃水車帰、 夫より掃除、誂物、終りて 花屋来る、誂物ハ大躰 覚ある故一々不記、夜、進 暇乞ニ来る、扇子ニ詩ヲ書て 被送、進帰りて、栄太郎 来、夜四頃迄談帰、 昼三島来、花屋ニ宿ス |
17日 晴れ 先生は朝九時前に水車を立ち、一旦自宅の方へ帰られた。 その際、「北の海でとれた小鯛だ」といって、大きな魚を下さった。 前日の松茸の一件といい、そのほかかれこれと心配をかけた上にこんな物までいただき、全くかたじけない事だ。 その後、先生を送って飛石までゆき、昼頃に水車に帰ってきた。昼からはひたすら「水車」の掃除に専念する。 水車を立つ準備が完了した、荷物を整えていったん「花屋」へ移る。 その夜、進氏に九州方面への遊学の旨を伝えると、進氏は扇子に詩を書いて送ってくれた。その後、進氏が帰った後に栄太郎が別れの餞別にやってきた、栄太郎もその夜10時頃まで話をした後帰宅。 そうそう、昼に三島中洲もやってきた。 |
|||||||||||
|
12月3日~22日(平成塵壺紀行 塵壺終わる)
|
||||||||||||
三日 晴又曇
風アリて、寒如昨日、朝、 |
3日 風があったが寒さは昨日と同じくらいだった。 朝になって七日市を発った。しばらく歩き山には入り登り切ったところに那須野与一の墓があった。(注1) 七日市から備中松山までは山ばかりで所々に谷や民家もあるがだいたいにして危険な道が多く覚悟してゆかなければならす難儀な道だ。高梁川をのぼり、午後5時頃なんとか松山の 花屋に着いた。一安心である。宿に荷物を預け、そのまま川面町にある進昌一郎氏のお宅へ伺う。 その夜は花屋に泊まる。 |
|||||||||||
四日 晴 水車移る 五日 晴 米壱斗買 柳ゴウリ壱 油紙包 壱 右ハ蘭画・鮫、入置 右弐品、本町濱野屋庄次郎へ誂置 六日 晴 七日 晴 八日 晴 夜風雪、始雪也 九日 朝雪、其後晴、風強 |
4日 晴れ 先日宿泊した花屋から「水車」へ移ってきた。5日 晴れ 米一斗、絵、置物などを購入。 この買い物は本町の浜屋庄次郎に頼んで取り置きしておいてもらった物。 6日 晴れ 9日 |
|||||||||||
十日 晴 夜雨 十一日 晴 後雪 十二日 雪 後晴 両三日、西風強、尤覚寒 十三日 晴 夜雨 十四日 晴 風強 夕方雪 十五日 朝雪 昼晴 夕雨 十六日 晴 風アリ 十七日 晴 十八日 晴 十九日 晴 廿日 晴 |
10日 晴れ 夜に雨 11日 晴れのち雪 12日 雪のち晴れ 前三日間は西風が強く、ここに来てからはもっとも寒い日だった。 13日 晴れ 夜雨 14日 晴れ 風が強く 夕方雪 15日 朝は雪 昼は晴 夕に雨 16日 晴れ 風あり 17日 晴れ 18日 晴れ 19日 晴れ 20日 晴れ |
|||||||||||
廿一日 朝雪、寒強、硯水氷 廿二日 晴 廿三日 晴 廿四日 朝雪 後晴 風強 廿五日 晴 始て雪ノ溜ヲ見 廿六日 晴 氷、寒強 廿七日 晴 廿八日 先生、水車着、 十二月五日迄逼留、 長瀬帰、先生 着ヨリ日記不記 |
21日 朝雪 とても寒い日で氷が張っていた。 22日 晴れ 23日 晴れ 24日 朝雪 その後 はれたが強風 25日 晴れ 今日、松山に来て初めて雪が積もるのを見た。 26日 晴れ 氷も張り寒さの強い一日 27日 晴れ 28日 先生が江戸から帰ってこられた。この後12月5日までここ「水車」で残務をこなされ、その後ご自宅の長瀬に帰られた。 先生も帰ってこられたので、そろそろこの日記も終わろうと思う。 |
|||||||||||
十二月六日
弐朱と十七匁、庄次郎へ 十二月廿二日 夜 |
12月6日 弐朱と十七匁を庄次郎に渡した、この金は米2斗ぶんの代金である。そのほか大根の代金として2匁を渡した。この「塵壺」という日記は私が長岡に帰った折、両親への土産話のための覚え書きとしてつけた物である、思いついたままに記しているため文章が前後していたり誤字脱字も多数あるが、思いつきでそのとき書いたことを見返してみると、そのときのことを思い出す。 もし、またこの文の中で必要な物が出てきたときは、必要な部分をあらためて清書することとしよう。 12月22日 夜 |
|||||||||||
|
※平成塵壺紀行の口語訳は「はれは」がつたない知識で制作しているため
訳が間違っている部分が間違いなく(笑)あります!発見された方は是非、
「ここが違っているよ!」と教えていただければ管理人が喜びます。
コメントを残す