塵壺とは河井継之助が西国遊学の際に記した紀行日記である。
継之助はこの塵壺以外には著書はなく、継之助唯一の著書として有名であり、かつ
継之助の人となりを知る上でも貴重な資料である。

紀行日記とは言っても継之助自身、この塵壺を人に見せるつもりで書いていたわけではなく
遊学中に読んだ本や使った金子などのメモ書きとしても使っていた。
継之助はこの塵壺の中で、この旅の目的である備中松山の山田方谷の元で勉強した記録を残して
いるが、このコーナーでは継之助が「備中松山に関した記述をしている部分」を拾ってみる。

Contents

7月15日(平成塵壺紀行 備前から岡山へ)

1859年7月15日
原 文
十五日 晴
片上を立てインベヲ通り、
所謂備前焼を冷し、易直
之物なり、津山川ニ暫添て
岡山ニ達ス、片上よりハ追々
開ケ、岡山ハ余程之開ケなれ共、
山之多ニハ意外也、沢々無
限アリ、水之引方十分ニ
手之届、旱(カン)バツノ憂アルマシ、
先ニ淀川ニて田へ懸る水車
を見る、是ハ簀ニ水ノシトム
様スルシカケナレ共、夜故不分明、今備前之川ニアルハ板ニて
水シトミマワル」
重ケレハ不回故か、
淀モ此モ
至手薄之
物なり
輪ハ竹、
中ハ、
不傷様ニ
色々アリ
川ハ大ニアラス、流レモ急ならス、
相応ニ深シ、我国ノ青山川
ヨリハ大なれ共、彼所ニて試
なれハ好からん、水勢似たる
様覚、水利之届しハ熊沢
遺意かと思ワル、稲ハ何も
能出来て、殊に其跡ヘナ種か
麦、先ニ伊勢て聞、一反テ
米ノ七俵も取り、其跡て
麦五六俵も出来ると、其割
なら下直なるへけれとも、
ハけ能故か、惣高直なり、
岡山迄来と中ニ、百姓家息へ
咄ヲ聞(米直段之事ニ付)、能筈ナレ共、ヤハリ表ヲ
張所ニて、何れも貧シト、殿様・家中
勝手不能由、四年トか前ニ札
一匁十分一ニナリ、当時ハ八文ニ
当ル、其前迄ハ讃支(岐)へ渡ると正銭
百五文迄ニハナルト、是ニテ金持も
長持ニ弐三杯も持しモアリ、此十分一ニテ
皆ヨワルト、可歎事ナリ、地震之
年之仕事か、熊沢之事を
聞ニ、繁山村ハ五里計リ跡ニ
ナルト、山ノ中ナリト、繁山之事ハ
能不知、其人ならん、白昼ニ
提燈ヲ附、立ノクト、其人、御城
之際ノ川山ノ木ヲ切ルト、後ニハ千石積
之不入様ナルト、要害も悪しと
云れし由、果して今ハアセタリト、
をそろしき人なリト云、繁山之
事ならん、石山多き故、
予問、炭・焚木如何ト、沢山
なる由、炭之直段六貫匁
俵、弐百四五十位ト、岡山ハ
さすか国主、大なる物ナリ、町
入て、小橋・中橋之二川ハ、皆
上リ川ニて、京橋ハ右云城之
外濠なる川ニて、京橋二(尤自国之船も)四国
高松ノ船数艘アリ、一六二ハ
是非大坂船出る、四国ハ毎日
便船アル由ナレ共、如何ニも
盆十五日之事なり、弥出ルトモ
不定、讃支渡らんため、暫
見合すれとも、思きりて
本道を不行、妹尾と云到、
是ハ已ニ備中なり(川アリ境)、子細ハ大坂
を始メ姫路・岡山・備中も倉
敷辺、昨年コロリ之病、又
流行して死人多、大坂
より之往来、兵庫、何れも
流行、道ニ六部ノ死するを見、
赤穂ヨリ片上出る山中ニテ
駕輿ニノセテ手拭ニて顔ヲ
蔽へ、生ける取扱ニして行
女アリ、命ハ天トハ乍云、
好て到るハ愚と思、讃支
渡んとするため也、瀬尾ニ宿、
大坂ヨリ備中迄、
痛神送るとか云て、馬鹿
等敷事、何れもあり
1859年(安政6年)7月15日晴れ
河井継之助は備前片上より伊部(いんべ)を通り、途中備前焼の工房などを見学しながら津山川に添って岡山に到着した。岡山に近づくにつれ、徐々に町が開けてゆき、岡山市街地につく頃には広々とした平野となった。この土地は治水がしっかりとしており水路が十分に整っている、干ばつの心配はあまりないだろう。岡山に入った道中、大きな水車を見かけた。
以前、淀川のあたりでも田にかけられた水車を見たが、そのときの物は竹を編んだような水車で水の中に沈めて使うような仕掛けの物だったが、夜は動いていないようであった。

明けて今、ここ備前で見た水車は板が張ってある物で水につかって回る。構造的に重いと回らないのか、淀川の物も、今回の物もとても薄手の物である。

車輪には竹を使っており、中の材質は色々の様である。

道に沿って流れる川はさほど大きい川でもなく、流れもさほど急な物ではない、深さはそれなりのようだ。長岡の青山川よりは若干大きいか、水の勢いは似たようなものだ。

治水が行き届いているのは、岡山の偉人熊沢蕃山(注1)の威徳による物とおもわれる。稲のできも良く、このあたりは稲の後、菜っ葉や麦などをつくる二毛作を行っているらしい。
地元の物に聞いてみたところ、この辺では田一反につき米7俵がとれ、その後麦も5~6俵の収穫がある。それだけとれると、単価の下落を招きそうな物だが、はけるのがうまいのか高値で落ち着いている。

岡山まで来る途中、百姓の息子に話を聞いた。米の値段は結構よいはずなのだが、備前の殿様も、家来もみんな貧しいらしい。

どうやら激しいインフレが起こり、4年ほど前に一匁札の価値が十分の一に暴落し、現在では8文程度になっているという。

インフレの起こる前までは一匁札をもって讃岐に渡ると正価150文程度になっていたという。
このころは金持ちはこの差額のもうけをねらって長持ちに一匁札を満載して持ち出していたらしい。
今となってはインフレで皆一応に困っている、このようなことが起きるのも地震の年の災いだろうか。

熊沢蕃山のことを聞くと、蕃山はここから5里ほど東に戻った繁山村(注2 繁山=蕃山)というところに住んでいたらしい。繁山村はとても山の中で話を聞いた百姓は、繁山のことはよくは知らないという。
蕃山がいうには「お城の横の川の木を伐採してしまうと、その後には大きな船が入ってくられなくなる、交通の便も悪い。

炭の段は6貫匁俵、245文くらいらしい、さすが岡山、たいしたものだ。

いよいよ岡山の市街地に入ってきた。小橋・中橋の二つの川は、どちらとも上り用の川のようである、また、京橋は岡山城の外堀としても機能している川で、四国高松に向かう船が数隻止まっている。
1/6のつく日には大阪方面に向かう船も出るらしい。四国へ向かう便は毎日出向するようではあるが、なにぶんにも今日は盆の8月15日、四国行きの船が出るかどうか定かではない。

讃岐に渡りたかったため、しばらく様子をうかがっていたが、どうもわからない、ここは思い切って方向を変えて、妹尾というところへ出た。ここには川がありこの川が備中と備前の境となっているようだ。

大阪を始め、姫路、岡山、備中倉敷まで去年から流行しているコレラが蔓延して死人が多く、大阪から今までの道中にも多くの死体をみた。

赤穂から片上へあがる山中にてかごに乗せられて、手ぬぐいで顔を覆われ生きながらにして死んだように扱われている女がいた。命は天から与えられたものといいながら、好んで死のうとするのは愚かなことがと思う。

明日は、讃岐まで足を伸ばしてみようと思うので、本日は妹尾で宿を取る。
大阪から備中まで疫病神を持ってくるとかいって、どっちにしてもばからしいことだ。


前日の赤穂から備前片上と継之助は現在のJR赤穂線沿いに岡山入りした、道中、観光に興味津々の継之助だが、メモの端々に米の値段や炭の値段、インフレの記述など経済に関心が高かったことが見て取れる。

(注1)熊沢蕃山
くまざわばんざん
(1619-1691) 江戸前期の陽明学者。京都の人。字(あざな)は了介。中江藤樹に学び、岡山藩主池田光政に招かれ治績をあげた。「大学或問(わくもん)」などで政治を批判し、幕府に咎(とが)められて禁錮中に病死。著は他に「集義和書」「集義外書」など。

(注2)繁山村
現在は岡山ブルーウエーの蕃山インターがあります。
蕃山蕃山は、岡山藩の職を辞した後、明暦3年(1657)、知行地であった寺口村に移り住みます。

つくば山 葉山蕃山しげけれど 思い入るには さはらざりけり (源 重之)

新古今のこの歌に因んで移り住んだ村の名前を蕃山村と改め、自らの名前も「蕃山」としてしまいました。
また、不思議な縁で、蕃山蕃山を崇拝していた方谷も、明治維新後、閑谷学校を再建するため備前に滞在した期間、この蕃山村に住居を構えていました。方谷の住宅跡は蕃山の住宅跡の30メートルほど離れた場所にあります。


右上赤の矢印が蕃山村、左下が備前片上

7月16日(平成塵壺紀行 備中松山に到着)


1859年7月16日
原 文
   十六日 大雨 間々晴
前ニ云ことく、諭ヶ(由加)山を見物して、
下ツ井へ出、讃支へ渡らんため来れとも、
朝大雨ニて、悪気を一洗する
ならんと思、且、讃支ハ帰路
之図リ、殊ニ松山ハ山中故、返
彼方好からんと決定して、
瀬尾より、右ニ吉備之社見て、
板倉出、是ハ本道なり、板倉
より松山道別れて、城下迄
八里、弐里計リハ平らなれ共、
跡は皆山ニて、松山川とて玉島へ
出払川アリ、六里計り之所ハ
両岸山ニて、川岸行、
躰之所ナリ、休し処で札
之咄出、松山札ハ随一なる由、或時、
五匁之札、不通用之聞アル処、
不通用之物非道と、何日迄と
日を限り、触出、持参引替、
目前ニて火中アリ、皆感心
して信する由、其外文武
をも不励者ハ山上ケル抔之咄、
他領之者迄信して咄をす
る、遙るか来り、ハリあいニ思しナリ、
此辺、諸方之札アリテ、誠ニ難信
物ナリ、段々山入リテモ、山高モ
ナラス、其中ノ少ノ開ニハ家アリ、
松山モ其広き所ナリ、何れも
四方山ニて、方十町有るハ
覚束ナシ、地勢之替リ、奇妙
なる物ナリ、幾等山之中ニても、
稲も能出来、竹も諸々ニアリ、
夜少々遅ナレ共、盆之事故、
道中ニて宿を迷惑かる故、
松山迄来る、昼過ハ大雷雨
なれ共、夜ハ晴て、月もさへ、
左右絶碧故、前岸之山上ニ
月照り、此方之山之かげ、前山
之半ニウツリ、中ニ清川流
て好風景ナリ、更夜道ヲ
不厭、五ツ頃、松山着宿ス、其外
五年以後ノ売買之田地ハ、
皆本返ス抔之咄アレ共、不足
信、追此地ノ事ハ山田ニ尋て
可記、松山ハ本道より北西ニ入、
如案、流行更ナシ
16日 大雨 時々晴れ
倉敷市児島由加山(神社がある)(注1)を見物して
下津井(現瀬戸大橋の袂)へでた、讃岐(香川県)
へ言ってみようかときては見たが、この大雨で行く気
が失せた、讃岐には帰り道によってみようと思う。備中松山はここからはさらにかなり山奥だ、瀬尾を
通って一宮の吉備津神社(神殿は現在国宝)を右手に見たところで、板倉(注2)という交差点に出た。中央に道しるべがあり「城下迄八里、弐里」とある。備中松山城まで48キロ、ここから12キロくらいは平坦な道が続くが後はずっと山道となっている。
国道180号線にはいる。備中松山に入る途中、休憩のため茶屋に入る、主人に「山田方谷氏」について訪ねてみると、

「乱発と偽札によって信用を失っていた藩発行の5匁札を、ある時方谷が全て正価と交換・回収し、これを皆が見ている前で全て焼き払ってしまったのだという、それ以後新しくなった5匁札の信用はこの地域随一なのだという。」
また、武士であっても文武に励まない物は開墾者として未開の土地へ派遣するという。にわかには信じがたいことだ。

備中松山に近ずくにつれて、周りには少しは家もある物の全体的には全くの山の中だ、備中松山そのものもその大きな物と言っていいだろう。

と、思っているうちに備中松山の領内に入った。松山に入ったとたん、それまでとがらりと風景が変わり、周りの山々は全てきれいに整備されており、畑が山頂に向かってのびている、山の中ながら稲もよく育っているようであり、所々に孟宗竹が茂っている。

夜も更けてきたが、ちょうど盆踊り期間だったらしくこの時間でも道中は随分とにぎやかだ(注3)。松山の手前で宿を取ろうかとも思ったが、盆踊りのため途中宿を取っては宿屋の迷惑かとお思い城下まで行くことにした。

さらに夜は更けてきた、昼過ぎには雷を伴う大雨だったが、夜には見事な月が出た、高梁川に沿って続くこの道は左右が絶壁になっているため、前の岸の山上を月明かりが照らし、その山の陰が前の山に映っている。その中央には高梁川の清流が流れており美しい光景だ。(注4)さらに夜道を進み、夜8時頃にようやく備中松山の市街地までやってきた。

そうそう、これも聞いたことだが、備中松山では5年以後に売買された田畑はすべて元の持ち主の元へ返却したという話だが、さすがにこれは信じられない、後日、山田方谷氏にあった折りにでも聞いてみよう。

備中松山は山陽道からは北西にはいったところにある。今のところコレラはまだこの地にはきていないようである。


(注1)諭ヶ山
安藤英男著の塵壺では「蕃山」を見学としているがこれは由加山の誤りであろう。
地理的にみても由加山と下津井は目と鼻のさきだが、蕃山まで戻るととても遠い。

(注2)板倉の交差点
現在の国道180号線、岡山市街地から10分程度の場所に板倉の交差点がある。
この場所には今も継之助がみたであろう、道しるべの日がたっている。
北向きには下の写真のように「右松山八里・・」他の面には「西 井山賓福寺 二里半」
「牛の鼻ぐり塚」「南 庭瀬」と書いてある。

(注3)盆踊り
高梁市では毎年お盆の14日~16日にかけて「備中高梁松山踊り」が
開催される。県下三大盆踊りといわれるが、高梁人は「松山踊り」が唯一無二であり
岡山市に最近できた「うらじゃ踊り」(よさこい踊り系の新しい盆踊り)などは認めていない(笑)
板倉勝職も大好きだったといわれるこの盆踊り、高梁人ならばこの音頭が聞こえてくるだけで
じっとしていられなくなる。

盆踊りとしては古典的な輪になって踊るタイプのもので、特徴的なのは誰でも何の登録もなく
すぐに輪に入って参加できる、庶民が踊るのは「地踊り」と「やとさ」があり、やとさは今でも
若い子に絶大な人気がある。また武士に伝わる「仕組踊り」もあり、こちらも今でもイベント
として盆踊り期間中、市内の各所で披露される。→さらに詳しくはこちら

(注4)高梁川の光景
当時継之助が歩いたとおり、国道180号線に沿って高梁に向かっていると、総社市をすぎたあたりから
民家は少なくなり、しばらくゆくとまさに道と山と川だけの風景が広がる。
おそらく100年前ともそう変わっていないであろうその風景は今見ても、やはり美しいと思う。
 

7月17日(平成塵壺紀行 方谷に弟子入り志願する)


1859年7月17日
原 文
   □十七日 晴 山田 一
松山を立て、ヤハリ川ニ添て、
三里計り奥入り、漸く山田
之宅へ昼頃到る、弥
陜キ所なれとも、
如前様子ハ不替、余程之能
家、昨年之引移り、未普
請も十分ナラヌト、面白所也、
道々新開之所も諸々見ユ、
行と、無程逢れて、
色々咄もあり、己之胸中
を開て頼し処、能聞受て、
与得御答可仕と被謂候、
既ニ受る之口上ナリ、随分
親切ニ被云、夜山田ニ宿ス、
昼夜大躰出居ラル、佐久間ニ、温良恭謙譲ノ
一字、何れあると論、
封建之世、人ニ使われる事
不出来ハ、ツマラヌ物と之

一村ニ壱丁ツ・之新開ヲ
申附ると云事、

公之水戸一条ニ付、
山田之御問ニ被答、
書之後ニ書之文
ヲ内々見る、
外、数々咄もあれとも、
追緩々可記と、一々不留

17日 晴れ 山田邸に宿泊

松山の市街地をでてやはり川に沿って
18キロばかり奥に入り、山田先生のお宅に
昼頃到着する。

山田邸のある場所は家一軒建つのがやっとくらいの
とても狭い場所にある、昨年移り住んできたばかりらしく
まだ完成していない部分もある家である。(注1)
山田邸にゆく道中、所々で新田の開拓をしているのをみる。

早速訪ねてみたところ、程なく山田方谷氏と面会
することが出来た。早速入門希望の旨を伝えたところ
「お話は承りました、ご返事に関しては、また後ほど」
とのこと。この感じだとすでに入門出来そうな様子である。
方谷氏は随分と親切に扱っていただき、その夜は方谷氏のお宅に宿泊することとなった。

方谷氏は大変忙しい身で、昼夜を問わず藩に出ておられる。

その夜、方谷氏に同門で私の師でもあった佐久間象山について聞いてみると、
「佐久間には孔子が大事なものとして解く、温(おだやかさ)、良(すなおさ)、恭(うやうやしさ)、謙(つつましさ)譲(けんそん)の5文字すべてがかけている」とのこと。

また、別の話として「この封建社会においては、いかに優れた才能があるとしても上司に使われることができなければその才能を発揮することができない、つまらないものである。」とのこと。

一つの村に付き、一丁の新田の開発のノルマを課したこと。
などを聞いた。
そして中でも驚いたのが「安政の大獄」の際、備中松山藩の藩主である板倉勝静公がその対応を方谷氏に問うた極秘文書の手紙を見せていただいた。

そのほか、様々な話をしたが、詳しくはまた追って記すこととしよう。


 この日、継之助はついに念願の山田方谷との対面を果たす。
このころ方谷の名は全国にとどろいており、全国から入門を求める書生が殺到していた、しかし方谷は継之助をのぞきほとんどの書生の入門を断っている。一番大きな理由は、方谷自身がまだ藩政改革のまっただ中であり書生にかまっている暇がなかったことがおおきい。

この日、ラッキーにも方谷が自宅におり、継之助が「塩谷宕陰」からの紹介状を持っていたことで門前払いされずにすんだ、その上で方谷が思ってもいなかった継之助の「己之胸中」である「先生の講義を机の上で受ける気は毛頭ありません。先生のそばに置いていただき、先生の日常をに接し、生き様を学ばしていただきたいのです。」というセリフに不意をつかれた方谷が思わず継之助に興味を持ってしまったことが幸いした。

しかし、継之助はその方谷の態度をみて「既ニ受る之口上ナリ」と書いているが、実際に門下となる許可が下りたのはその日から十数日後となる。その間方谷は自身や門下生を使い継之助を鋭く観察していた。

その夜、おそらく酒を飲みながら二人で佐久間象山の悪口をいうなどすでに息のあったところも見せているが、この時点で方谷本人も継之助にただ者ならぬものを感じていたのだろう。

また、直感的に継之助の本性を読み取ったのか、初日にして「 封建之世、人ニ使われる事不出来ハ、ツマラヌ物
」とその性格に釘を刺しているのもおもしろい。

驚くべきは、通常門外不出であるはずの「安政の大獄時の勝静の手紙」を初対面の継之助に見せたことだろう。
このときの方谷の意図は何だったのか、考えられることとして、安政の大獄の後、寺社奉行を罷免になった藩主勝静公の清廉潔白をこの将来の大物に伝えようとしたのか、(この時点ではまだ桜田門外の変は起こっていない。)それとも、高梁人によくあるサービス精神だったのか、・・惜しいことにこの手紙は現在は残っていない。

(注1)昨年之引移
長瀬の自宅には去年移り住んできたとあるが、実際に方谷たちがこの家に越してきたのはこの年の4月である、そのためまだ家ができていなかったのかというと、実は長瀬邸はもっと以前から建設は進んでいた、なのになぜまだ普請の途中だったのか。

方谷は厳しい改革の中、藩士の批判を押さえるため、自分の俸禄は下級武士並みに抑え、その上すべての収入を第三者によって管理させていた、江戸時代において今の言葉で言う「ディスクロージャー」を実践していた。

しかし、そんな財政の天才「方谷」も、私生活においては誰もが陥りやすいミスをおかした。方谷は自分の家を普請する際、もうちょっとあれもこれもとどんどん予定外の建設を進めてしまったたため途中で建設資金が底をついてしまった。方谷でもこんなミスをしてしまうのかと思うと本人は大変だろうがちょっとほほえましい。


長瀬の方谷邸後には現在JR伯備線の方谷駅が建つ。
この駅は日本初の人名駅としても有名ですが、その裏話には涙ぐましい努力があった。
当初当時の国鉄は駅名は地名でなければいけないということで、人名駅の案を却下した。
このため中井の人たちは、「このあたりは中井町の中心地、西方のしもの谷で方谷と呼んでいるんだ!」と主張しで押し切ってしまったという。


方谷駅のホームのおくには「方谷邸後」の碑が建つ

7月18日(平成塵壺紀行 花屋に宿泊、会津藩、土屋に出会う)


1859年7月18日
原 文
  十八日 晴 花屋
昼前中咄し、先一端、
城下引取り、廿日ニハ出故、
願始其節談すると
被云、昼後松山帰る、
山田より之書を持て、
進昌一郎行、文武宿花屋ニ宿を取る、予
より先ニ、会津藩土屋
鉄之助宿ス、無程松城
藩と云、ホラガイ・大鼓・采
配ヲ持、一人来る、此者ハ
兼長岡へ来る者なり、
昌一郎も宿来り居、
土屋と三人談ス
18日 晴れ 花屋に宿泊
昼前まで山田邸で話をしていたが、「一旦松山城下へ戻り待つように、二十日には方谷氏も公務で松山城下まで出るので、弟子入りの件についてはそのときに話す」と、云われた。
昼食をいただいた後、松山城下まで戻ることとした。城下の勝手がよくわからなかったのだが、山田氏より紹介状をいただき、氏の門下である進昌一郎(注1)を訪ねた。
進氏によると松山では文武宿という書生のみが利用する宿があり、遊学にきた書生はあらかたそこに泊まるらしい、よって進氏の紹介により、文武宿「花屋」(注2)に宿を取ることとなった。

花屋に入ると同じ北国の会津藩士・土屋鉄之助(注3)がすでにチェックインしており、さらにしばらくすると松代藩の稲葉隼人という男が入ってきた。

この稲葉という男はなんでもホラガイの修行をして全国を巡っているという変わった男で、昔長岡にもきたことがあるらしい。

しばらく3人で話をしていたが、そののち進氏も花屋に現れ土屋と進氏と3人で話が盛り上がった。


(注1)進昌一郎-進鴻渓(しんこうけい)
備中松山藩士。漢学者。名は漸。通称は昌一,郎。鴻渓は号。阿賀郡唐松村(現新見市唐松)に生まれる。一八歳の時、山田方谷に師事した。弘化四年(一八四七)に藩校有終館学頭となった。その後、撫育銀方総裁兼農兵頭など歴任した。慶応四年(一八六八)戊辰戦争の後には藩存続のため尽力した。明治維新後は世事砂ら離れ、教育に専心し多くの人物を育てた。
今では三島中洲が方谷の一番弟子といわれるが、この当時年齢的にも実績の上でも一番弟子はこの進鴻渓であった。

文武宿「花屋」(注2)
花屋は現在の高梁市の紺屋川沿いにあった、紺屋川とは松山城の外堀の役目も果たした小さな川で、現在は紺屋川美観地区として観光名所となっている。花屋の建物は既になく、その場所には今は郵便局が建つ(花屋の主人は飛脚業も営んでいたためその名残が建物に出ているといえる。)、よこにわずかに木の案内板がたっている。

現在花屋は「油屋」と名前を変え、元花屋後から歩いて1分ほどの場所にある。油屋は高梁でもとても人気のある旅館で明治には与謝野鉄幹・晶子夫妻、最近では寅さんも泊まった旅館である。

土屋鉄之助(注3)
戊辰戦争では新練隊長として白河口で奮戦した

7月19日・20日(平成塵壺紀行 松山藩校「有終館」を視察)


1859年7月19日 20日
原 文
   十九日 晴 花屋
朝、土屋・松城藩士(稲葉隼人)と三人
談ス、稲葉ハ不足取者なれ共
ホラガイハ余程巧、未聞処ナリ、
昼後案内ありて、学問
所土屋と供ニ出ル、大勢
列座、色々之談に及、夕刻帰宿、夜ハ同宿
三人と談ス
19日 晴れ 花屋に宿泊

朝、土屋、稲葉と3人で談笑した。
稲葉はとるに足らない男であるが、ことホラガイを吹かせたらなかなかすごい。このうまさは今までにも聞いたことがないくらいのものである。
昼過ぎ、松山藩の学問所の「有終館」(注1)に行ってみられたらという案内があったので会津の土屋とともに早速行ってみた。

有終館では大勢の学生が列座し、大変活気があった。
夕刻には花屋に帰り、夜は同室の2人と話をした。

   廿日 昼晴 夜雨 花屋
昼後、山田先生之出懸り
宅被招、土屋と共ニ行、進と
神戸と来り談ス、土屋ハ
諸藩ヲ尋、学校之様子始、
衆人ニ応接、数々珍敷咄も
あり、淡州之土兵」ヲロシャ
船乗りし咄」小浦惣内之咄」
姫路之学校」(水戸ノ咄)、面白談数々
アル、夜四ツ頃帰宿
20日 昼は晴れ、夜は雨 花屋に宿泊
昼過ぎより山田先生の松山城下での宿泊先となる宿「水車」(注2)に招かれたので土屋と2人で出かけた。水車につくと進と神戸(注3)が来たので皆で話をした。
中でも気を引いたのが土屋の話だ、会津の土屋は今までにも各地を旅で回っており、各藩の学校の様子や各地の人となりの違いなど様々な珍しい話を聞いた。

そのほか、淡路の士兵の話、ロシア船に乗った話、小浦惣内の話、安政の大獄の話、姫路にある仁寿山学問所の話などいろいろと聞いた。

夜10時頃に花屋に寄宿し就寝。


(注1)有終館
備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により、内山下にあった元有終館が類焼。時の学頭奥田楽山が中之町に再興した。
その後、同10年にはまたまた焼失し、嘉永4年に山田方谷が再興した。現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建つ。 園内には方谷手植えの松と云われる見事な松が数本あり、今も勇壮な姿を見せる。
継之助が泊まった花屋とは目と鼻の先で歩いて一分ほど。

   

(注2)水車
もともとは板倉勝職の別邸として使われていた建物で、継之助が松山藩を訪れた頃は方谷の城下の家として使われていた。建物の横に水車がついていたことから「水車」と呼ばれた。
現在水車のあった場所には碑のみが立っている。すぐ上には吉備国際大学が立つ。
   
水車跡地から川沿いにすこし登ると水車のついた小屋などを発見することもできる。

(注3)神戸謙二郎
松山藩士。山田方谷の門弟。諱は友諒、号は秋山。昌平黌に学び後に藩校有終館の会頭となった。

7月21日(平成塵壺紀行 松山藩での生活1)


1859年7月21日
原 文
  廿一日 晴 花屋
朝、土屋・稲葉ハ宿を立て
暇ヲ告、約束故、山田行し処
今日願を出さん、直ニも不済事故、夫迄ハ宿ニ逗留
之様被云、昼後亦行談ス、
右ハ、出懸リ宅と本宅と、
半分ニ居ル之事ニ依也、
頼母子之談出ツ、士ハ士、百姓
々々、町人々、夫々中間之外
堅停止、改格之一也と被云、
追改格を聞可記、猶
背法者、家老当リニ、一人、
下輩ニもアリ、夫々罰アル由、

夕刻より進昌一郎被招、
山田と行、色々談を聞」
ナタ之酒六十万石也と」
桑名之カジ景次郎、五両ヅヽ
之印三ツ拵て、始て切手
を大坂之者承知すると、
大坂之情態様々咄有之」
大坂屋敷ハ松山ニても引取」

秋田迄ハ大坂ニて喜、近くも
伊勢ハ嫌ふと、江戸順ナレハ也、
東ニて廻米之始、桑名ナラント、
仙台之事ハ、江戸出張りて
致ス仕事也、東国も段々
工夫して備ル由、彦根抔も
大坂廻す、大坂ニてハ
歳月之計と見込ハ、其
図りニ応、永久と見込ハ、
其図りニ応シ、全躰永久
ヲ喜之風俗ナリと、
桑名之印も、永久ヲ示
す為也、長も短も、
損ヲせぬ様ニ、如才なき物
なれ共、往々見込迦れて、
つぶれるも多しと、

当藩大坂之取扱、山田
之仕事少しハ聞ケれとも
委敷尋し上可記、
土着之談も追可記、
或諸侯、土着之儀ニ付、先
始ハ勤番、追々喜ふ様ニナリテ、
家内迄移ると、委敷尋
ねン、当町ニ教諭所とて
学問所アリ、町人是へ出、会読、
輪講(コウ)迄アル、第一山田ハ西方
之百姓、林富太郎ハ玉島之
商人、三島貞一郎ハ他領之
庄屋之子、林・三島之両人ハ
近頃之取立ナリ、進之所ニ、
百姓之子十二歳ニて、八大家
ヲ読居者アリ、教イク之法、
感心之物ナリ、数々咄も有レ共
追可記、夜四ツ頃帰宿
財と文武と富国強兵兼る之
勢、兎角財ノミニカヽルト、文武スタレルト、山田之咄、
倹約も能けれ共、文武
不振してハ残念ナリと、
上杉之振ふか不振か之事ニ
付、右之談有之、望、中々
高し、
進昌一郎も庄屋より、
酒屋養子ニ行し者

7月21日 晴れ 花屋泊
朝、同宿していた土屋、稲葉が宿をたった。私も今日、山田先生のところへ伺うと約束していたので先生の元へゆく。
先生に弟子入りのことを尋ねると「今日にも藩に、弟子入りの許可の願いを出す、結果はすぐにはわからないのでわかるまでは宿にとどまっておくように」とのこと。昼過ぎにまた先生のところにゆく、山田先生は城下では「水車」という出掛かりの宅に住み、本宅はここから数十キロ離れた長瀬というところにある、本宅と水車とで半分半分に暮らしておられる。昼の話では頼母子講(たのもしこう=注1)の話をした。

備中松山藩では「士は士、百姓は百姓、商人は商人、それら身分の物がほかの身分になることを堅く禁じる今までの身分制度」を廃止している。これも改革の一端であるという。
正確なことは、また詳しく先生に尋ねた上で記入することにする。

また、藩の法律を破った者が家老に一人、家来にも一人いるらしい。彼らにはそれぞれ厳罰が下ったらしい。

夕方より進昌一郎氏の家に招かれる。山田先生と一緒にゆき、いろいろな話を聞いた。話の一つに「灘の酒は60万石の価値がある」という話が出た。
また、桑名の鍛冶景次郎という男の話で、今大阪の関所を通ろうとすると5匁の印3つのついた通行証が必要だったという。
大阪の状態も日々悪化している。
備中松山藩も今まであった大阪屋敷は廃止したらしい。

大阪の米問屋も秋田の米は喜ぶが、近場でも伊勢の米は嫌うらしい。
秋田から大阪に向かうには江戸も通るが、江戸で廻米(注2)をしたのは桑名が初めてという。
東国も廻米においては徐々に工夫を凝らしている。
彦根もまた、大阪に米を回す。
大阪の米問屋は各藩の取引の長さによって相場を変えている。全体的には恒久的に取引する契約を望む傾向がある。
桑名藩はその契約をしている。

まぁ、各問屋も損をしないようあれこれと試行錯誤をしているようであるが、おうおうに見込みがはずれてつぶれる業者も多いと聞く。
備中松山藩の米も大阪に廻米している。
山田先生の仕事については少しは聞きかじったが、今度詳しく聞いた上で記入することとする。

山田先生の実施した改革に一つで「屯田兵制」があるが、当初へんぴな山奥に飛ばされた下級武士は単身赴任をして、非常に立腹していたらしいが、新田新畑の開墾により収穫による食料と金がはいると態度は一変し、嬉々と喜んで家族一同もその地に移り住んだという。

この松山藩には「教諭所」という学校がある。驚くべきことにこの学校には町人が通っており、読書や輪講(注3)をしている。
そもそも山田先生自身がもとは中井町西方というところの百姓であり、兄弟子の林富太郎(注4)は松山藩の飛び地・倉敷市玉島の商人の息子、三島貞一郎(注5)は他藩の庄屋の子である。

この林・三島の二人は最近藩に取り立てられて藩の要職についている。
そうそう、進氏のところに百姓の子が一人世話になっているが、なんと12歳にして中国の古典である「八大家文」を詠んでいる。

松山藩の教育方針は全く感心する以外何者でもない。
ほか、話はたくさんあるが、追って記すことにする。
この日は10時頃、帰宿した

山田先生の話では、財政改革と教育と軍事、これらを兼ねそろえなければ真の改革はできないとのこと、改革というと、とかく財政改革ばかりに目がいってしまい、文武が廃れてしまう、それでは真の改革はできない、と。

藩政改革で有名な上杉鷹山について訪ねてみると、「財政改革についてはあるていど成果を残すことができたが、文武が廃れてしまい米沢藩は「富国強兵」の目的を果たしてはいない、これでは中途半端な改革といわざるを得ず、残念なことだ」とのこと。
さすがは山田先生、なかなかに望みが高い。

あと、進昌一郎氏も庄屋より酒屋に養子に行った商人で元々の武士ではない。


(注1)頼母子講
金銭の融通を目的とする相互扶助組織。組合員が一定の期日に一定額の掛け金をし、くじや入札によって所定の金額の融通を受け、それが組合員全員にいき渡るまで行うもの。鎌倉時代に信仰集団としての講から発生したもの。頼母子。無尽講。(大辞林)

(注2)廻米
江戸時代、幕府・諸藩が年貢米を主に江戸・大坂に廻漕(かいそう)したこと。また、その米。(大辞林)

(注3)輪講
一つの書物を数人が分担をきめ、かわるがわる講義すること。
「源氏物語の―」

(注4)林富太郎(1813~1871)
玉島出身、名は保、字は定卿(ていけい)、方谷の高弟であり、牛麓舎門人の中でも年長組に属する。進よりも一つ年上で継之助来藩当時は「武育局」の総裁であった。
明治元年、松山城無血開城ののち、蝦夷地に逃亡したいた藩主「板倉勝静」に東京にて自主を説得した4人の一人、富太郎はその後「藩主を裏切った」という自責の念に駆られ、極度のノイローゼ状態に陥り誰にともなく許しを請いつつ狂死したという。
明治4年3月16日没 享年59歳

(注5)三島貞一郎=三島中洲
(1830-1919) 漢学者。備中の人。名は毅(つよし)。漢学塾二松学舎を創立。東京高師・東大教授、東宮侍講・宮中顧問官を歴任。著「詩書輯説」「古今人文集」など。
詳しくは松山藩の藩士達を参照

7月22日~8月1日(平成塵壺紀行 松山藩での生活2)


1859年7月22日~8月1日
原 文
  廿二日 晴 昼頃少雨 夜雨 花屋

廿三日 晴 夜雨 花屋
廿四日 晴 夕方雨 花屋
如何ニも道中之疲故か
頻りニ寝むく、あくまて
休、其暇ニ、兵庫より筆も不取
故、失忘も多けれとも
大略を記ス、此二日之
仕事なり

廿五日 朝曇 昼後より風強 雨降
廿六日 晴  四ツ時分霧雨 其又晴
廿七日 晴

22日 晴れ 花屋にて 昼頃に少し雨 夜にかけては雨

23日 晴れ 宵のうち雨 花屋にて
24日 晴れ 夕方雨 花屋にて
長旅の疲れが出たのだろうか、しきりに眠い。
しばらく休むこととする。その間に、兵庫あたりから
書いていなかったので、だいぶん忘れているだろうが大まかな日記を書こうとおもう。
この二日間の仕事はそれだ。

25日 朝の内曇り 午後より強風を伴う雨
26日 晴れ 午前10時頃より霧雨 その後晴れ
27日 晴れ

   廿八日 晴  是より後、八月七日附ル
会藩秋月悌次郎来ル、
土佐之政事、面白咄ヲ聞、
其一二事ハ、大晦日之夜、
士屋敷ニて懸取之済迄ハ、
夜四ツ迄提燈ヲ門前出置、
四過ニ猶出し置ハ、見廻り之
役人何故ニ出置と問、懸不払
と答れバ、其座ニて役人相払へ、
翌年之高ニて引取、其上叱ヲ
受」商売多分之利ヲ得ル
事不出来、大坂ニて、幾等ニて
買故、幾等ニて売ルト、書附ヲ出ス由、町人モ如前士分之厳重
対しても猥り之事ハ不出来
旨」足軽ハ高足(バ)之物不成由」、
少しヅヽ咄しもあれとも忘ル、
右悌次郎之談
28日 晴れ これより先の記録は8月7日に書いた物。

会津藩の秋月悌次郎(注1)という男が松山藩に遊学にきた。
その男より土佐藩の内政の事情など、いろいろと興味深い話を聞いた。その中の話を一つ二つ書くと、大晦日の夜、武家屋敷では借金の代金を取り立てが済むまで、午後10時頃まで提灯を門の前に出しておくという。
10時をすぎて、支払いがまだでためらって提灯を出したままにしておくと、市中の見回りの役人が「なぜ、まだ提灯を出している?」ととうという。
「借金をまだ払っていないのだ」というと、役人は「それでは私に払いなさい」という。
役人は債権者の商人に替わり借金をとりたて、年が明けてから債権者の商人にその金を支払う、その際、取り立ての手数料を徴収し、その上取り立てれなかった商人は叱りを受けるという。
結局年末までに売掛金を回収できなかった商人は利益を出すことができなかったという。

大阪でいくらで買うとかいくらで売るとかいっていると値札を見せられた話。などなど
ほかにもいろいろとはなしはあったが忘れた。
これまでの話は秋月悌次郎から聞いた物である。

   廿九日 晴
今治之人(名字忘ル)、秀之助来ル八月朔日 晴
秋月ハ帰ル、三嶌貞一郎来ル、
是ハ被召出ニ付、引移之ため也、
山田之咄ヲ色々致ス
29日 晴れ
今治の、名字は忘れたが秀之助という男が遊学にきた。8月1日 晴れ
秋月悌次郎は旅だった。 三島が来た。
三島君が藩に召し出されたため、引っ越しのためらしい。
その際、山田先生の話をいろいろと聞いた。

(注1)秋月悌次郎
(1824~1900)
会津藩士、能力のある武士として会津藩内で頭角を現し、藩より江戸遊学のを任命された。西国の遊学も藩命による物。藩主松平容保が京都守護職を拝命した際には、公用方として抜擢された。
しかし、藩内には敵も多く秋月を抜擢した家老横山主税が死去すると蝦夷地代官に左遷された。
享年77歳

8月2日~8月7日(平成塵壺紀行 「水車」へ引っ越しする)


1859年8月2日~8月7日
原 文
   二日 晴
三日 晴
夕方、水車移ル、是迄
花屋ニ逗留、夜昌一郎来ル
2日 晴れ

3日 晴れ
夕方「水車」へ移る。本日までは民間の宿「花屋」で寝泊まりしていたが、本日より方谷先生の城下での宿泊先となる「水車」で寝泊まりすることとなった。
その夜、進昌一郎氏が来た。

  四日 晴

○「花屋より蚊屋ヲ遣ス、
損金之図り三匁」
五日 晴
○花屋より机(ツクイ)・提燈(アントウ)を遣ス、
是ハ借り置図り、帰ル節、何そ礼」
「木綿一反遣し買けれ共、代ハ未
不払、富太郎ヲ尋」

4日 晴れ

それまで世話になっていた「花屋」に蚊帳を手配してもらった。料金は三匁

5日 晴れ
花屋より机と行燈を借りてきた、これはこのまま借りておいて、帰省する折りにでもなんぼか礼をすることにしよう。
木綿を一旦買ってきたのだが(注1)、代金をまだ払っていない、このことについてはまた林富太郎に聞いてみよう。

六日 終日小雨(時々晴) 雷時々鳴ル
此頃之暑、土用ニ勝と
思ル
8月6日 終日小雨 時々晴れ 時々雷が鳴った
このごろの暑さは全くかなわない、土用にも勝る暑さであると思う
   七日 晴
○「花屋よりぬかをけヲ送ル、遣ス」
乕兵衛ニ土井之書遣ス
「帷子 壱 洗濯ニ遣
羽織 壱 紋之手本ニ遣
右弐品帰ル」
△進昌一郎より味噌を送○「花屋壱分遣ス、木綿之

代、余りあれ共、追勘定、
右ハ中袋渡ス、書附ハ不取
ツリ返ル、
品ハ預置」
進、夕飯、進ニ

8月7日 晴れ
花屋よりぬか漬けをいただいた。
用兵衛に土居の書を送る。
「かたびら(注2)一組の洗濯を頼む
羽織の一枚を紋の手本として貸していたもの、
用が済んだのでこれら二品を持って変える」進昌一郎氏より味噌をいただく。一部を花屋に送る

新調している着物の代金だが、
代金を小袋の中に入れて渡した。書き付けはなかったが
つりは帰ってきた
品に関しては取り置きしておいてもらう。

夕飯は進氏とともにとった。

(注1)この木綿は七日にも出てくるが、どうやら継之助はこの木綿で着物(羽織?)を一着新調しようとしている。
二日後の七日に自分の家紋の見本として業者に貸していた羽織を持って帰る記述がある。
この一文は継之助の書いたオリジナルの「塵壺」の中で訂正線で消されているため、平凡社の「塵壺」ではカットされている。(注2)夏用の麻の小袖。薩摩上布・越後上布などが用いられた。

8月8日~8月14日(平成塵壺紀行 松山藩での生活3)


1859年8月8日~8月14日
原 文
□  八日 曇
山田行、其中之咄ニ、誠心
より出バ敢不用多言  答問
8月8日 曇り

長瀬の山田邸へゆく。
山田邸での話として、誠心(まごころ。偽りのない気持ち。)で出た言葉ならばそのことについてあえてあれこれということはなくとも通じる物である、とのこと

   九日 終日曇 夕雨 山田
十日 晴 山田
三晩宿ル ・・・・・・・・・三夜 九
十一日 晴 夕大雨
朝山田を立て供水車帰、
夜三島来、三人談話
酒壱 なす・玉子二出ス
○「右代ハ花屋弐朱遣置★★★★★返ル」十二日 朝大雨
昼後、山田先生帰
十三日 晴
(三島)進、外ニ両三輩と、三島へ
行、夜月明、蔵書
目録可見、夕飯酒
十四日 晴
袴地買、書附有之、
仕立之上遣図り、代ハ済
8月9日 終日曇り 夕方より雨 山田邸泊

8月10日 晴れ 山田邸泊
山田邸には3日間お世話になった

8月11日 晴れ 夕方に大雨
朝の内に山田邸を立って、進氏とともに「水車」へ帰ってきた。
その夜、三島中洲君が来たので3人でいろいろと話をした。
卵やなすをつまみに酒を飲んだ。

8月12日 朝大雨
昼過ぎ、城下に来られていた山田先生が長瀬に帰られた。

8月13日 晴れ
進昌一郎、ほか3人の先輩方と三島中洲宅へゆく。
その夜はとても月明かりが明るく、三島君の家にある蔵書の目録などを見た。夕方より食事と酒

8月14日 晴れ
袴地(注1)を購入した。書き付けは私が持っておく、仕上がり次第送ってもらうことにする、代金は精算済み。

(注1)8月14日にも継之助は袴を新調している。
旅で着ていた物が全体的に傷んでいたのか、もしくは継之助がとても身だしなみを気にする男がったのか、それとも方谷が身だしなみにうるさい男がったのか、想像するしかないが当時の風景が見えてほほえましい。

8月15日~8月18日(平成塵壺紀行 不動滝を観光)


1859年8月15日~8月18日
原 文
   十五日 晴 時々雲ある
夜五ツ頃より四過迄、殊ニ明月
□  十六日 晴 八過雨又晴 山田 三
暁七ツより藩士七八人と其他
豪賈壱両人と山田行、
夫よリ船を登せ不動瀧と云迄到、岸絶碧不可
名条、川ハ小なれとも、如何ニも
急流、舟師之心労、励きニハ感心
之物なり、懸る急流ハ始て
乗し也、又山田帰り、夜ニ到り、跡之人々ハ
船ニて松山帰ル、追礼か舟ノ」
十七日 晴 山田 二夜・・・・・・六
夜、明月、先生と月下ニ
咄を聞
8月15日 晴れ 時々曇り
夜8時頃から10時頃まで月明かりがとても明るい8月16日 晴れ 午後2時過ぎに通り雨 後またはれ
朝早く、午前4時頃より松山藩の藩士7~8人と豪商ひとりをつれて長瀬の山田邸にゆく。
途中、山田邸よりもさらに上流に船を進ませ不動滝(注1)というところまでいった。その風景は奇岩や絶壁に囲まれなかなかに圧巻である。川幅は小さいがとても急流で船頭の心労と働きには感心するばかりだ。このような急流で船に乗るのは初めてのことだ。その後、船にて長瀬の山田邸まで帰る。夜になって、私以外の人は船で城下まで帰った。船頭への礼は彼らがしたか・・・

8月17日 晴れ 山田邸泊
先生のお宅に2日間お世話になる、夜な夜な話を聞いた。

  十八日 晴 夕雨
朝飯を食て、四ツ頃、山田を
立、木野山参り、快晴ならハ
大山(ダイセン)も可見ニ、薄雲ありて
残念なり、近辺ハ一目ニて
相別り、風景面白し、七ツ頃
水車帰
18日 晴れ 夕立
朝飯を食った後、午前11時頃 山田先生の家を立つ、その後木野山神社(注2)に参る、この神社は高い場所にあり、快晴ならば大山(鳥取県にある西日本の富士といわれる山)も見ることが出来ると言うが残念ながらこの日は薄曇りで見ることは出来なかった。しかしながら周りの風景は一望できなかなかおもしろい体験をすることができた。午後4時頃、水車へ帰る

(注1)不動滝
継之助が方谷邸にゆくついでに皆で見物にいった不動滝は現在も存在し、今は「絹掛けの滝」の名で親しまれています。場所は継之助も書いたとおり、JR伯備線の方谷駅から高梁川沿いに4.5km上流に行った場所で、現在も不動明王がまつられており、地元の人は「不動滝」と呼んでいます。
「絹掛けの滝」にゆく途中、高梁川の風景は一気に変わり、大きくせり出した岩肌が至る所で見ることができます。


「絹掛けの滝」


絹掛けの滝では今も不動明王がまつられています。


継之助が目にした風景は今も変わらず広がっています。

写真・資料協力:守田正明様 ありがとうございました。

(注2)木野山神社
オオカミをまつる珍しい神社で「オオカミ=大神」ということから当時は全国から参拝者が訪れたという。本殿は継之助も本文中に記したとおり山のてっぺんにあり現在でも車で行くことさえできない。あまりに不便なので山の麓に拝殿があり、通常はこちらにお参りする。現在でも全国から参拝者がある。

8月19日~9月7日(平成塵壺紀行 野山を視察)


1859年8月19日~9月7日
原 文
十九日 曇 昼後雨

夜ニ到り、山田先生来ル
廿日 晴 先生留
廿一日 晴 同
廿二日 曇 夕方よる夜中
雨      同
廿三日 終日雨 同 此日先生江戸之命アル

19日 曇り 昼過ぎより雨

夜、暗くなってから山田先生が来られた。

20日 晴れ 先生が泊まった

21日 晴れ 昨日と同じ

22日 曇り 夕方より雨 昨日と同じ

23日 終日雨 昨日と同じ
この日、松山藩主板倉公より、山田先生に江戸出張の召命があった。(注1)

   廿四日 晴
先生帰、此間様々之談
ヲ聞、昼後先生帰後、
進・林・三島来ル、夜迄談、弐朱余り出、酒
廿五日 晴
朝、林来談
廿六日 晴廿七日 晴 曇勝
廿八日 晴
廿九日 晴 夕方雷 少雨
夜、進来ル
九月朔日 晴
□  二日 朝晴 昼時分少雨
山田行 四
三日 晴 山田
四日 晴 山田 三夜・・・・・・・・・九
五日 晴

水車帰

24日 晴れ
朝、山田先生が水車へやってこられた。昼過ぎに帰られるまでの間、いろいろな話を聞いた。先生が帰られた後、進、林、三島の三名が水車にやってこられた。酒2升ばかりを出した。25日 晴れ
あさ、林富太郎氏が来て話をした。
26日 晴れ

27日 晴れのち曇り
28日 晴れ
29日 晴れ 夕方雷を伴って少し雨
夜、進昌一郎氏が来た。

9月1日 晴れ

2日 朝晴れ 昼、時々雨
3日 晴れ 長瀬、山田邸に宿泊
4日 晴れ 山田邸
5日 晴れ
水車へ帰る

   六日 晴

七日 曇 昼大雨 晴
此日、城ノ東ニ当、二里
計リ在、野山ト云所
行、右ハ士ヲ一昨年より
遣と云事也、十間在所
稽古場所・学校在、七間之所
在、弐間ツヽ之所二ケ所、
合弐十壱間かと思る、
面白仕方、手之届クニハ
感心之事也、沢々之広ク
多きニハ案外也、野山三ヶ村
之一と云、更代之供送る、帰
ノ咄ヲ聞、夕方水車帰、
右之所行ニハ余程ノ山坂アリ、

坂之上より城を一目ニ見る、城、
臥牛之名アリ

6日 晴れ

7日 曇り 昼に大雨 のち晴れ
この日は城の東2里くらいのところにある「野山」というところに視察に行った。ここ野山では一年ほど前から松山藩の下級武士を屯田兵(注2)として駐留させているということである。
広さ約10間程度(約18m:一間=1.8m)程度の場所に武道の稽古場所や学校があった。
また、七間(12.6m)のところ、二間(3.6m)のところが二カ所、あわせて二一間程度の広さの場所であると思われる。
なかなか興味深い場所である。この場所に多くある谷川の広さは意外であった。
この「野山」という場所は三ヶ村の一つであるという。
帰りに聞いた話では最初いやがっていた下級武士達も、田を作り畑を耕し秋になり収穫を得ると、大いに家計の足しとなり、ついには妻子を始め、一家丸ごとをその地に招き生活したという。

夕方にやっとのこと水車に到着した。野山にゆく道中にはかなりの山坂がある。そうそう、帰り道の坂の上から松山城が見えた。城のある山の名を臥牛山(がぎゅうざん)という

(注1)江戸出張の召命
1858年9月の安政の大獄において、松山藩主・板倉勝静は罪人に対し温情ある措置を主張した、これが井伊大老の逆鱗に触れ、勝静は寺社奉行を罷免されてしまった、しかし、事態はそれだけにとどまらず、勝静は江戸での政治生命はおろか身の危険までも感ずる立場となってしまった。
この状態を打破するべく、勝静は誰よりも信頼の置ける方谷を江戸に召命した。
江戸での方谷のアドバイスは「この場は静かに、動きなさるな」という物であったという、実際にこの判断は的中、2年後の桜田門外の変によって井伊大老は暗殺され、幕府の勢力は一気に反井伊直弼側に傾いた、同時に井伊大老に意見した勝静の株は急上昇し、この後一気に老中へと駆け上ってゆく。

(注2)【屯田兵】
屯田兵とは、明治初期、北海道の開拓・警備と失業士族の救済の目的で政府により奨励され、家族的移住を行なった農兵。北海道開拓に重要な役割を果たした。継之助がきたこの時代には、まだ屯田兵という言葉は存在しないが、方谷の作ったこの制度は、まさに屯田兵そのものであった。

「野山について」
9月7日、継之助は野山という場所を視察に訪れる、この野山という地名は現在は残っていない、場所は岡山高速道賀陽インターの出口付近で、現在は吉備中央町宮地という地名となっている、跡地には「野山学問所址」の碑と解説の看板が立っている。この野山周辺は山の山頂づたいに高梁市街地を降りずに直接「備中松山城」に抜けることのできる唯一のルートで、方谷は早いうちからこの「野山」を天守防衛の戦略上の重要拠点としていた。

実際このルートを通ると、現在でも総社市の日羽(ひわ)口から山には入り、吉備中央町経由で臥牛山の裏口である大松山に抜けることができる。松山藩の仮想敵国である備前岡山藩から松山城を守るためにはここだけは絶対に押さえておかなければならない拠点だった。

しかし、こんな僻地に飛ばされた方にとっては「とんでもない」話だった、当然方谷に対する批判の声も高まる、方谷自身が松山城下から遙かに離れた長瀬に家を構えたのも、そんな声をかわす目的があったといわれる。(長瀬に行ったのはそれだけではないのですが・・・)

その後、田畑からの収穫によって下級武士達の生活が城下に暮らしていたときよりもよくなるというおまけまで方谷が見こしていたのかはわからないが、最終的にこの屯田兵制作は城の防備・収穫高の増収・下級武士の経済支援、と一粒で3度おいしい政策となった。


写真中央部が備中松山城、写真でもわかるように、山の中を中央から右下に伸びている白いラインが道となる。ここからさらに吉備中央町を経由して総社市日羽に抜けることができる。
方谷はこのルートを松山城防衛の最重要地点の一つとして防備を固めていた。
ちなみに、北の防備拠点は現方谷邸跡のJR方谷駅としていた。この場所は川沿いのつきだした立地にあり、対岸には新見往来がある。もし、北から攻めてきた場合にはこの方谷駅に鉄砲隊を据えて、北から来た隊を撃退しようと考えていた。

野山からの帰り、峠の山頂で継之助は松山城をみた。この場所はおそらく「大久保峠」といわれる場所で、現在でもこの峠から松山城を望むことができる、最近開通した高速岡山道の高梁の玄関口となる賀陽インターから高梁に向かうと、それまでの山の中の風景から突然高梁を一望する大眺望が出現する、ここが大久保峠で現在は展望台も設置されている。
大久保峠からの眺望はここをクリック

 

9月8日~9月15日(平成塵壺紀行 継之助、腹をこわす)


1859年9月8日~9月15日
原 文
  八日 曇
夜、山田先生来る
九日 雨 先生逗留
朝四ツ過、地震、夜明方、又
震、改革ハ古物ハ老て死、
若年之者ハ成長、十五年
位ニて始て立物、急ニすると
朋輩(トウ)之憂抔アリ、急ニハ不出来
事ナリ、乍去、始より心ヲ用ユルハ
無申迄事ト、右ハ君公、楽翁之
咄と云て山田ニ被咄候由、君公ハ
楽翁公之曽孫ナリ、桑名
より来ル人、先生又云、十ヶ条
アレバ段々易より始、追々可致
事と、総如此様子面白事
ナリ、此夜林ニて之咄
8日 曇り
夜になり、山田先生が水車に現れた。9日 雨 先生はまだ水車におられる。
朝、10時頃、地震があった。夜になり、また地震。

水車にて山田先生に話を伺う、今日の話としては、「改革とは、古い者が死に、新しい改革者が育ち、15年くらいたって初めて成果がわかってくる物だ。急いで執行していると、おもしろくない者や抵抗勢力が出てくる、なかなか急にできる物ではない。」と、はじめから焦ってする物ではない。

とのこと。この話は松平定信公が曾孫(注1)である板倉勝静公にした話という、山田先生は言っておられた。備中松山藩の藩主である板倉勝静公は松平定信公の曾孫に当たるお方で、桑名松平家から養子にこられた方である。

また、この日、林富太郎から聞いた先生のお話として「10個やらなくてはならないことがあれば、その中のもっともやり易いことからはじめ、だんだんと進めればよい、すべての物事はこのように進める物である。」とのこと、なかなか興味深い。

   十日 朝雨 曇
朝、先生帰
十一日 曇 時々雨
昼時分、度々地震、
昨十日、昼頃より腹瀉、夜
弥甚敷、今日ニ到り猶未
不止、松茸之慕(ホウ)食より
来る事、江戸ニて豕ヲ
貪り、中られてこりけるか、
江戸を出てよりハ、更ニ
心ヲ用しか、如何なる訳ニて、
如此事仕たるやと、跡ニて
考けるニ、不思右様之事ヲ
スるハ、竟油断、心之緩み
より之儀、他日之戒之ため記置
10日 朝のうち雨 のち曇り
朝、先生が水車から長瀬の自宅に帰られた。11日 曇り時々雨
お昼時、ときとき地震があった。
昨日、10日の昼頃より腹の調子が悪い、夜になるとどうにも我慢できないほど痛くなった。今日11日になっても腹の痛みはまだ治まっていない。松茸の食い過ぎが(注2)原因であろうか。
江戸にいた折、豚の食い過ぎにより腹をこわした、あのとき暴食を懲りたはずであったが、またやってしまった。
江戸を出てからは、さらにこのようなことがないよう用心していたつもりであったが・・、どういう訳かまたやってしまった、今になって考えてみるに、全く油断してしまっていた、心がたるんでいた。今後の戒めのために、ここに記述しておく。
   十二日 曇
人間之腹ハ弐十四時ニて
一回とか、奇妙なるかな、
一昨昼夜之腹痛、今日
ニ至り弥本快、是幸也、
必後日之戒、可懼る也、
此日花屋三匁、机・暗燈(アンドウ)之
礼ニ遣ス、夜又地震十三日 晴 風強
夜、天ニ無雲、風も
止、月可愛
十四日 晴

今朝、郷状ヲ封す、
七月廿八日(此書ハ飛脚)と今便(山田)と、
松山来り弐度出

12日 曇り
人間の腹という物は24時間で一回りする物らしい。
不思議なことにあれだけ痛かった腹が今日は全く何ともなく至って快調。全くよかった。今後こういったことのない様自らを戒めよう。
この日、世話になった「花屋」へ3匁、机と行燈の礼を遣わした。
夜になり、また地震があった。13日 晴れ 強風
この日の夜は空に全く雲が無く月が美しい。

14日 晴れ

今朝、長岡の父に当てた手紙を出した。
7月28日と今回で松山に着いてから2度手紙を出した事になるかな。

   十五日 晴
夕刻、乍暇乞進行、
山田先生来居り、始て
郷状を見、水変を聞、
夜不寝、夜更迄返書を
認、別封ニして頼、先生(セイ)、
妻君よりと云て、小手
被下、宵之中色々咄を聞、
世話すき、経済咄すき之筋と云言葉
あり、面白敷処ある様思わる、
他日戒之ため記置、乍嘘(タワムレ)
其中ニ心ヲ用居と、妙言
ある様思ワル、和文ヲ被送下
15日晴れ
夕方、先生がいよいよ江戸に出張されるというので、その間自分もさらに西国・九州方面に遊学に出てみようかと思い、藩の責任者である進氏に申し出るため進宅へ。その後、水車へ戻る、山田先生も来ておられた。そこで郷土から来た手紙を渡されたがそれを見て驚いた。長岡は大洪水に襲われていると言うではないか。夜になっても寝ることができず、返信を書いた。
寝れずにいると先生がいらして「これは私の妻からだ」といわれ、切手を下された。その夜は寝ることもできず、先生にいろいろな話を聞いた。先生は本当に世話好きで、かつ経済の話が好きである。

(注1)曾孫
継之助は塵壺の中で板倉公は松平定信の曾孫といっているがこれは間違いで、正確には孫に当たる。

(注2)松茸
高梁はつい10年くらい前までは松茸の一大産地であった。
最盛期には町中にいるだけでどこからともなく松茸のにおいが漂ってくるとまで言われ、あの寅さんも映画「口笛を吹く虎次郎」の最後のシーンでおみやげとして松茸をもらっている。ちなみに管理人のハレハも小さいときはよく食べた。
松茸は赤松の生えたよく整備された山に生えるキノコで、松茸の生息は方谷の山の整備計画の副産物といえる。当時の松山藩の山々は大変整備されていて、松茸が生えるのに好都合だった。
残念ながら近年は山が荒れたのと、松食い虫の大発生と気候の変化で松茸はほかと同様滅多に見ない物となってしまった。

この回の9日にも方谷が語っているが、方谷は継之助に会ってからこのとき、そして分かれるまで継之助を戒め続ける発言をしている。方谷は継之助の中に「功名心」に走る心を見たのだろうか、最後、継之助が松山を去る祭には、継之助に売った「王陽明全集」の末尾にもと戒めを書いている。方谷にとって、継之助のもっとも気になる部分がここであり、それこそが継之助の弱点と見ていた。

そんな二人だが、継之助が水車で方谷と過ごしたこの期間、お互いが人間性を確認しあうのにとても重要な期間となった。今まで誰に対しても心を開くことの無かった継之助だが、方谷に対して、当初「元来百姓にて・・」と書いていた頃と比べ、文章に明らかに尊敬の念が見えてくる。
また、塵壺には出てこないが、継之助が兄に送った手紙の中には、方谷の留守中、長瀬の本宅の留守番を頼まれ、「山の中で読書三昧もまたよし」と書いている。方谷が若い男に妻や娘のいる本宅の留守番を頼むというのは、この時点でよほど信頼していたといえる。
しかし、残念ながらこの留守番は実現せず、継之助は九州遊学に出かける。

9月16日・17日()平成塵壺紀行 西国への旅立ち)


1859年9月16日・17日
原 文
   十六日 晴 先生逗留
朝より人来、先生一寸
出来り、亦昼後より人来、
不絶、酒ありて、咄す暇も
なく、夕方三島来、此時抔ハ
先生も余程酒を呑み、
三島之言、不得正を極論ス、
傍ニありて、先生、三島之
趣ヲ見る処あり、三島
帰りて後、又々人来り、
終ニ夜七ツ前迄酒ある、
直ニ出ルと被謂けれとも、
留て寝る、此夜地震、此間毎日なり
16日 晴れ
今日は朝から人が出入りしており、先生もしばらく出かけていた。また、昼を過ぎても人がきては絶えず誰かが酒を飲んでいる。
全く話をする暇さえない。
夕方になって三島がきた、そのときなどは先生もよほど酒が回っていたか、三島の一言に対して、完膚無きまでに論破してしまった。それにしても、先生は三島に関してもとてもよく見ている。三島が帰った後も、また誰かが来た。結局この日は明朝4時頃まで酒の絶えることはなかった。

この日もまた地震があった。このところ毎日地震がある。

   十七日 晴
先生、朝五前、水車を立
帰る、北海之小鯛と云て、
大なるヲ被下、前夜之
松茸、彼是心配、忝事也、
先生を送て飛石迄
行、昼頃水車帰、
夫より掃除、誂物、終りて
花屋来る、誂物ハ大躰
覚ある故一々不記、夜、進
暇乞ニ来る、扇子ニ詩ヲ書て
被送、進帰りて、栄太郎
来、夜四頃迄談帰、
昼三島来、花屋ニ宿ス
17日 晴れ
先生は朝九時前に水車を立ち、一旦自宅の方へ帰られた。
その際、「北の海でとれた小鯛だ」といって、大きな魚を下さった。
前日の松茸の一件といい、そのほかかれこれと心配をかけた上にこんな物までいただき、全くかたじけない事だ。
その後、先生を送って飛石までゆき、昼頃に水車に帰ってきた。昼からはひたすら「水車」の掃除に専念する。
水車を立つ準備が完了した、荷物を整えていったん「花屋」へ移る。
その夜、進氏に九州方面への遊学の旨を伝えると、進氏は扇子に詩を書いて送ってくれた。その後、進氏が帰った後に栄太郎が別れの餞別にやってきた、栄太郎もその夜10時頃まで話をした後帰宅。
そうそう、昼に三島中洲もやってきた。

18日の朝、継之助は松山を発つと南に向かって歩き始めた。
この後、継之助は香川、福山、広島、山口、そして長崎、熊本と西国遊学の旅に出る。再び松山に帰ったのは2ヶ月後の11月3日だった。

継之助、方谷が旅立つ16日、17日には餞別にいろいろな人が次々と訪れる様子がわかる。このころになると継之助もすっかり回りとうち解けており、皆が本音で話している感じがする。
日記の中で三島中洲が方谷にとっちめられるシーンが出てくるが、継之助死後、まさか自分の碑文をこの三島中洲が選ずるとはユメにも思わなかったと思う。

12月3日~22日(平成塵壺紀行 塵壺終わる)


1859年12月3日~22日
原 文
   三日 晴又曇

風アリて、寒如昨日、朝、
七日市を立、夫より山ニ
カヽリ、一たん登り切し所ニ
奈須野与市之墓(是より壱丁とあり)、
七日市ヲ入りテ、松山迄ハ、皆
山ニて、間々ニ「谷沢山上供ニ
家モ」村モアリ、家も数々
アリケレ共、甚竒険之道
多、甚難儀ニ覚、併シ
其道屈曲縦横、絶碧多、
松山川へ出る、弐里計リノ所抔、
別し妙景也、松山川ヲ渡り、
先一案心して、七ツ半頃、
花屋着、荷物を預ケ、
若シ郷状ニても参居
かと、其侭進昌一郎へ行、
其夜ハ花屋ニ宿

3日
風があったが寒さは昨日と同じくらいだった。
朝になって七日市を発った。しばらく歩き山には入り登り切ったところに那須野与一の墓があった。(注1)
七日市から備中松山までは山ばかりで所々に谷や民家もあるがだいたいにして危険な道が多く覚悟してゆかなければならす難儀な道だ。高梁川をのぼり、午後5時頃なんとか松山の
花屋に着いた。一安心である。宿に荷物を預け、そのまま川面町にある進昌一郎氏のお宅へ伺う。
その夜は花屋に泊まる。
 四日 晴
水車移る
五日 晴
米壱斗買
柳ゴウリ壱
油紙包 壱
右ハ蘭画・鮫、入置
右弐品、本町濱野屋庄次郎へ誂置
六日 晴
七日 晴
八日 晴
夜風雪、始雪也
九日
朝雪、其後晴、風強
4日 晴れ
先日宿泊した花屋から「水車」へ移ってきた。5日 晴れ
米一斗、絵、置物などを購入。
この買い物は本町の浜屋庄次郎に頼んで取り置きしておいてもらった物。

6日 晴れ
7日 晴れ
8日 晴れ
夜になって雪を伴う風が吹いた。初雪である。

9日
朝のうち雪 その後ははれたが風が強い一日

   十日 晴 夜雨
十一日 晴 後雪
十二日 雪 後晴
両三日、西風強、尤覚寒
十三日 晴 夜雨
十四日 晴 風強 夕方雪
十五日 朝雪 昼晴 夕雨
十六日 晴 風アリ
十七日 晴
十八日 晴
十九日 晴
廿日  晴
10日 晴れ 夜に雨
11日 晴れのち雪
12日 雪のち晴れ
前三日間は西風が強く、ここに来てからはもっとも寒い日だった。
13日 晴れ 夜雨
14日 晴れ 風が強く 夕方雪
15日 朝は雪  昼は晴 夕に雨
16日 晴れ 風あり
17日 晴れ
18日 晴れ
19日 晴れ
20日 晴れ
  廿一日 朝雪、寒強、硯水氷
廿二日 晴
廿三日 晴
廿四日 朝雪 後晴 風強
廿五日 晴 始て雪ノ溜ヲ見
廿六日 晴 氷、寒強
廿七日 晴
廿八日
先生、水車着、
十二月五日迄逼留、
長瀬帰、先生
着ヨリ日記不記
21日 朝雪 とても寒い日で氷が張っていた。
22日 晴れ
23日 晴れ
24日 朝雪 その後 はれたが強風
25日 晴れ 今日、松山に来て初めて雪が積もるのを見た。
26日 晴れ 氷も張り寒さの強い一日
27日 晴れ
28日
先生が江戸から帰ってこられた。この後12月5日までここ「水車」で残務をこなされ、その後ご自宅の長瀬に帰られた。
先生も帰ってこられたので、そろそろこの日記も終わろうと思う。
   十二月六日

弐朱と十七匁、庄次郎へ
渡、右ハ米弐斗ノ代也、
外ニ弐匁、大根代遣ス
先生、十六日水車来り
十九日帰
此頃より、道中記行
考記し、漸ク終る、
何も用ノアル事ハ
ナケレ共、他日御両親へ
御咄之積と、思附し
事を記す、前後
紛乱、字モ不別、又
見れハ色々思附る事
出来らん、若入用之事
もあら、其節一二ヲ抜、
精書すへし

十二月廿二日 夜

12月6日
弐朱と十七匁を庄次郎に渡した、この金は米2斗ぶんの代金である。そのほか大根の代金として2匁を渡した。この「塵壺」という日記は私が長岡に帰った折、両親への土産話のための覚え書きとしてつけた物である、思いついたままに記しているため文章が前後していたり誤字脱字も多数あるが、思いつきでそのとき書いたことを見返してみると、そのときのことを思い出す。
もし、またこの文の中で必要な物が出てきたときは、必要な部分をあらためて清書することとしよう。

12月22日 夜
日記を終わる

(注1)那須野与一の墓
七日市(井原市)を立、夫より山ニかかり一たん登り切りし所ニ奈須野与市之墓(是より壱丁とアリ)があると記していますが、壱丁(壱町・約109m)ありとある為、おそらくお参りしたと思われ、実際に歩いてみても良かったのですが継之助が通った街道から墓まで狭いですが、車でも行くことが出来ます。

余談ですが、前記の方々が飲んだのは福山藩主から、認可を受けて最初の醸造を行った中村家の薬酒ですが、明治に入ってから専売権が無くなった為中村家に勤めていた、杜氏達が各々、保命酒を醸造し始め、現在に至っており、中でも、この鞆から出て全国向けに販売を目論んだ、あの「養命酒」が特に有名となっています。
(写真は明治19年創業時の入江豊三郎本店の保命酒)

(文・情報もと 新見空手道拳誠会 守田正明様 ありがとうございました)

※平成塵壺紀行の口語訳は「はれは」がつたない知識で制作しているため
訳が間違っている部分が間違いなく(笑)あります!発見された方は是非、
「ここが違っているよ!」と教えていただければ管理人が喜びます。