山田方谷と地方自治体

「山田方谷と地方自治」
=藩財政の改革をめぐって=

山田方谷研究者  鳥 越 一 男

近年の都道府県財政をめぐる未曾有の危機の中で、近世幕藩時代の藩財政改革のあり方が注目されている。近世江戸時代の藩財政改革については、東北米澤藩上杉鷹山の名が知られており、関西では、備中松山藩の山田方谷が知られている。

本講では、今まであまり知られて来なかった藩財政改革の問題に焦点を当てて、論じたい。
その内容を大まかに記せば、「出ずるを制する」こと、自ら産業を振興させて「入るを制する」ことを主眼としたこと、産品や米の販売方法。幕末インフレ期の藩札の償却方法など経済思想家として優れていたことである。

一、方谷の生いたちと財政思想の特徴

山田方谷は備中阿賀郡西方村の農業と種油業を営む家に、一八〇五(文化二)年二月二十一日に生れた。母は同郡小坂部の人で西谷氏の娘であった。両親の意志により、五歳の時新見藩の藩儒丸川松隠に学んだ。松隠は浅口郡西阿知の人で、朱子学の信奉者(宋の朱子が大成した儒学。致知を眼目とし実践道徳をとなえ人格・学問の成就を図ることを説く。江戸幕府の官学)であった。
方谷は十四歳で母を、十五歳で父を失っている。十六歳で松隠の塾を去り、家業に従事している。

数年を経た二十一歳の時藩主板倉勝職に認められ二人扶持を賜わり、松山藩の藩校とのつながりが出来る。ついで二十三歳、二十五歳、二十七歳、と三度京に出て寺島白鹿の門下生となっている。自鹿も亦朱子学者であった。ここで春日潜庵をはじめとする多くの学友を得ている。また学問は次第に陽明学に向い「伝習録」を読んでいる。
禅の師蘭渓禅師と出会い参禅。この時期は彼の生涯の思想を完成させる重要な時期である。このあとさらに江戸へ遊学して佐藤一齊の門に入り陽明学の理解を深め思想を確固たるものにしたようである。

三十一歳のとき帰藩して藩校有終館の学頭となり教育に従事した。
山田方谷の財政改革の基底は確固たる思想が存在したことである。
領民の幸福を主目標とし財政改革のみを第一義としなかったことである。政治の執行者は「思想と道徳をもって理性概念とする。」を大きな要件と規定する考えは、方谷の人間形成の過程で得たもので、朱子学(儒学)ひいては陽明学、そして仏教の禅宗によるものである。第二は方谷の出自が農・商であったことである。このことが実態経済に明るい人をつくった。第三は貨幣政策・産業振興政策を積極的に実行するに際して、公債の発行や借金をしなかったことである。

方谷の経国済民に関する知識は、残された千数百首を超える漢詩文等を見る時、明らかに中国の史書によっているが、公債発行を戒めている考えは、いみじくも経済学の父といわれる古典経済学の創始者、アダム・スミスの著書「諸国民の富」第五編第三章「公債について」と軌を一にするものである。
財政改革の規範は、彼の自著「理財を論ず」上・下である。この論文を一言で表現すれば「事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しない。」となるであろう。
論調は経済財政論以前のむしろ財政思想理念である。「財の中に埋没しないでよく事態を掌握し、自主性をもって主体を客観的、大局的に見る識見こそ大事である。」
と解することができる。

方谷の思想はまた、儒教的教養と禅が潭然一体をなしたものであると思われる。「理財を論ず」下、の中に問答形式をとって「飢餓と死」という言葉が出てくる。経済財政論文に死という文字を見いだすことは、極めて稀である。また「ただ善を行う」とある。利に優るものとして義であり、善であるというのである。人の道、すなわち理財論としている。これこそが方谷の理財論の真髄である。藩財政の改革を成功させながら一人の犠牲者も出さず、農民から神の如く崇められた改革者は稀有のことであり、自らは赤貧洗うがごときありさまであったのである。

二、山田方谷の起用とその時代背景

方谷が松山藩の財政改革を成功させた大きな要因は藩主板倉勝静が彼の能力を存分に発揮させたことである。勝静は寛政の改革で有名な老中白河楽翁松平定信を祖父とし、その嫡子松平定永の八男として生れている。白河の城に生を受けて育ち、祖父の血筋を引いていると言っても不都合はあるまい。

板倉氏との養子縁組が決定すると間もなく、山田方谷を師として儒学を学び、史書、帝王学、君主論にも及んでいる。この師弟関係が後に藩主として襲封に際して方谷を大抜擢することにつながったのである。偉大な学者、入格者としての方谷に全幅の信頼を持ったことは、藩主として秀れた資質であったと言えよう。祖父松平定信は天明の飢謹において、領民に一人の餓死者も出さなかったことによって、幕府老中に登用されたとされているが、勝静は小藩といえども、短期間に見事な財政再建を成功させたことによって、幕府老中首座にまでも重用されるのである。

方谷が藩主に取りたてられて、財政再建に取り組んだのは、一八五〇(嘉永三)年から一八五七(安政四)年までとするのが妥当であろう。ここに物価を代表するものとして(図1)により米一俵の価格から米価を見ると文政(一八一八~一八二九)の頃までは多少の値上がりはあっても、概して三十%程度である。それが方谷の元締役兼吟味役就任時の少し前の一八二九(文政一二)年以後、急激に高騰している。天保の大飢謹、大早魅一八三二(天保三)年~一八三四(天保五)年。就任した年には大洪水があり一八五四(安政元)年には安政の大地震と天災が続く。他に一八五三(嘉永六)年にペリーが軍艦四隻を率いて来航し、翌年日米和親条約が締結されている。まさに藩にとっても、国にとっても、経済財政ともに内憂外患その極みとも言うべき時代であった。

この時期特筆すべきは、開港時における幕府貨幣の海外流出による物価高騰についてである。安政五年における金貨流出量は八五八万両を超え、同年の金貨流通量の三〇・三%に相当する。さらに三年後の万延二年には、一、〇九九万三千両が流出し、第一次および第二次流出による物価高騰は、それぞれ二・八倍、五倍にも及んでいることである。
開国による一種の国難に遭遇したのであったが、米を基軸とする財政が破綻しているにもかかわらず、幕府の経済政策、貨幣政策は政策転換されず明治にずれ込むのである。徳川時代末期の幕府財政、また多くの藩財政は破産状態であったと言ってよかろう。

三、節約と財政整理・藩札償却

世界史的にも稀な約三百年にも及ぶ鎖国と平和の時代。武士は政治行政を司り、文弱に流れていた。
方谷が藩財政を預かった時の財政状態は、財政規模の二倍を超える債務があり、利払いだけで収入の二〇%にも及ぶありさまであった。

方谷はただちに現況の調査にとりかかっている。結果は(表!)のとおりである。
この計算書によると、備中松山藩は表向き五万石であっても、実収は一万九千石余であった。大阪藩邸の倉役人はこの実態を債権者にかくして、借財の便宜をはかっていたのである。方谷はただちに勝静に文書で報告している。

「今のところでは藩財政の収支決算に過不足はないが、借金の利息を年間で八、九千両支払わなければならない。今年(嘉永三年)の財政改革によって、二、三千両は節約できてもなお六、七千両の不足が残る。来年も節約が計画通りに実施されるならば、過不足はない計算になる。しかし、借金の元金は厳として残る。これをそのままにしておいては、年間なお四、五千両の赤字である。そこでまず債権者達と話し合っている。

倉役人が債権者に話したことのなかった藩の秘密である財政の実情を、勇気をもって詳しく話し、借財の返済期限を一〇年ないし五〇年という長期の延長を申し入れ、以後借用しないことを約束して債権者の了解を得ている。一方藩主は倹約令を発している。その内容を見ると、実質的に中級武士、豪農、豪商が対象となったようである。「飲食は一汁一菜に限る」といった実に細かい指示がしてあって、方谷の幼い日の生活を思わせるものがある。藩主の「方谷の意見は殿の意見である」ということなしには到底実行不可能であったろう。当時、他の多くの藩でも財政改革を実施していて、松山藩への視察来藩者も多かったが、その中には、余りの厳しさと執行者が農、商の出自であることの故をもって、改革の成功を危ぶむ者さえあった。

藩士の禄の減額を求めているが、方谷は率先して自らの禄の減額を申し出ている。就任時に中級武士程度の禄を希望して許されていたので、さらに減額すれば下級武士程度の収入になる。しかも自らの家計は塩田仁兵衛にまかせて公開し、清貧に甘んじたのである。質素倹約については藩主も率先垂範実行している。

松山藩における最初の藩札発行は一七〇三(元禄一六)年藩主安藤重博の時であった。藩札の発行には当然発行額面に相当する免換貨幣の準備が必要である。はじめのうちは確実に用意されていたが、財政の悪化から「御勝手」に借用したり、その後の度重なる飢謹や水害、天災地変、その他による財政逼迫によって天保期にはことに多量の発行がなされ、準備していた貨幣を取り崩して使用したために、方谷就任の頃には藩札は見換能力を欠く状態に陥っていたのである。

松山藩札の信用不安は広く世間に伝わっていたばかりか贋札さえも出回っていた。当然ながら商品経済の発展に伴う通貨不足を生じていたことであろう。また藩内の産業経済の発達を阻害する悪要因ともなっていたことも考えられる。方谷はこのことに着目して藩札の信用回復を図った。嘉永五年九月藩士を総動員して藩札を回収。そして新たに永銭と呼ぶ藩札をもって交換藩札としたのである。

信用を失った藩札を償却したのである。近似川原における焼却は領民に対するデモンストレーション効果でもあったであろう。この手法を用いて通貨の信用を高めることに成功したのはひとり松山藩のみであった。なお永銭は三種類あって、従来通りの額面のものと、二倍、二〇倍の高額のものである。

永銭五匁(裏書き二百枚で金一両と替える)
永銭十文(裏書き百枚で一両と替える)
永銭百文(裏書き十枚で金一両と替える)
信用を得た松山藩札は、藩内はもとより周辺他領でも通用するようになったのである。

四、産業政策と行政改革

「量入制出」入るを量って出ずるを制する。この言葉は、財政再建の一つの基本である。方谷は節約と産業政策を車の両輪と位置づけていて殖産産業に力を注いでいる。
(,)産業政策について

①備中の鉱工業の振興
県北中国山地の砂鉄を用いて製鉄し更にこれを粗材として、近似村に数十の鍛炉を設けて、鉄工二次製品である鉄器、鎌、刃物、日本刀、釘、かすがい、備中鍬、稲こぎ等の農機具を大量に生産した。

また製銅についても吹屋の鉱山を買収して生産を盛んにし長崎貿易を通じて売上げを伸ばした。
②山野に杉、竹、漆、茶、麻、タバコを植えさせ増産した。
③城下伊賀町に窯を築いて杉谷焼を生産した。
④檀紙(大高檀紙i柳井氏による)の増産。
⑤柚餅子(菓子)の大量生産。
⑥薪炭の増産と牛馬の飼育奨励⑦ベンガラ(ローハ)の生産1吹屋鉱山。

これらは、今日の地場産業振興政策に相当するものである。
彼の総合的産業政策として注目すべきは、金融政策と生産物の販売政策であろう。「御勝手」に余裕金のある時は、永銭札を撫育方を通じて領民に貸し付け、これによって産業を奨励し、生産を盛んにすることに意を用いたことである。生産物は撫育方に納入させ、江戸木挽町屋敷の河岸に「江戸産物方」と倉庫を設けて藩士に販売に当たらせた。

会津藩士秋月梯次郎(葦軒)の松山藩視察記によれば、「松山藩の北方山中、松山川の上流には鉄を産し、当時釘等を造り江戸へ廻遭転売して利益があり、一カ年三千両程になる。この地での産物で名のあるのはこの一品である。」

また感心するのは、「布(きぬ)、吊(わた)、米は言うまでもなく、ナス、キュウリ等の値段までも口にして議論する。それは普通のことであった。」と下情にも通じていた方谷について記している。藩内で鉄を産したことよりも、加工して付加価値を与えることに着目したことは、現在の産業政策のあり方にも通じ、財政再建に大きく寄与している。また藩内生産品の販売拠点を大阪から江戸へ移したことは、経済人としても慧眼であったと言える。織豊時代から経済貿易の中心は大阪であったが、この頃には貨幣による経済がほぼ全国に行き渡っており、人口の江戸集中も進み、信用取引、活発な投機活動、変動相場制が生まれ、為替、手形も普通の商行為であった。しかも通貨は、関東は金貨中心であり、関西は銀貨中心であったことを考えれば、江戸においての収入を金貨で得ること、また江戸の経費を金貨で賄ったことは合理的であったと言える。

(二)行政改革について

彼の行政改革は、産業改革とも関連するが機構改革であった。
「撫育方」を設けているが、「撫育とはいつくしみ育てる意である。」
と説明している。役所の御収納米以外の一切の収益を管理し、産業振興を専門に設置して、「藩主の天職は藩士ならびに百姓町人たちを撫育することにあります。まずしなければならないことは、

①藩士の借り上げ米を元に戻すこと。
②百姓の年貢を減らすこと。
③町人には金融の便宜をはかり交易を盛んにすること。この三カ条であります。撫育を名付けるわけは、撫育を主として民の利益をはかり、そのうち自然にお上(かみ)の利益によって、お勝手もしのぎ易くなり、そうなれば領民の年貢米もかからぬこととなり、それがまた撫育になる。」

①士民撫育
城下、玉島、矢田部(現総社市総社)に教諭所。野山(現吉備中央町野山)に学問所を開設して農民、商人各種職人等およびその子弟に学問させた。

②郷倉の設置等
領内四十四カ所の貯倉を設け(郷倉と称す)水害、早越など
凶作に備え民心安定をはかった。
貧しい村には米や金を与え、三代以上続いた庄屋で困窮する者には、米七十俵を無利息で貸し、十年後に返納させた。嘉永六年の旱害に際して方谷は飢えた農民達の救済のために、郷倉を開いて米を分け与えている。

③道路整備と水利
狭い道路は拡巾し、川や溝のふさがっているところは底ざらえを行い、中でも種井村(現総社市種井)から松山に至る道路は松山往来の本道であるにもかかわらず狭かったので安政六年拡巾し、人馬の往来を便利にした。道路と水運を産業振興に結びつけている。

④農兵制の導入
領民の八十%は農民であったが、六十余の農村の庄屋、神主の子弟のうち身体壮健な者に銃を執らせ剣を習わせ、帯刀を許した。この里正を教育訓練担当者に仕立てて、農民、猟師のうち屈強な者に西洋式砲術と銃陣を教え、幕末動乱期の守備隊とした。

⑤文武奨励(武士に対して)基本を定め「三十歳」までに一通りの「学問と武術を身につける」「砲術を学ばせる」「神伝流泳法を習わせる」「六十歳をこえた者は学問所へ通わせる」こととした。

⑥屯田兵制度の導入
下級武士を松山城の裏山、野山地区に上げて住まわせ、農地を開墾させ、事変あれば藩境の守りに当らせる。

⑦人足寄場の創設
盗賊の取り締りを厳しくし、風俗を正し、奢修を禁ずるとともに「寄場」と称する懲役場を設けた。軽罪の者には更生の機会を与える施設であり、感化善導して改俊の情ある者は放免した。なお藩内は、無宿人、無職の者は少なかったと言われている。

⑧洋式軍艦快風丸の購入
文久二年約七、一五〇両を投じて米国製軍艦を買った。方谷が財政再建にかかわって約十年後のことである。

方谷の財政・経済に関する知識は、中国の歴史書から得ている。
有名な「衣食足りて礼節を知る」の管子の経済論をはじめとして、司馬遷の史記、唐、明、清の文献にも及んでいる。これは、彼の残した多くの漢詩等のうち、経済、財政、通貨に関するものを見れば明瞭である。中でも中国古代のアダム・スミスと言われる司馬遷の史記に多くを学んでいるようで、自由な経済市場を当然のこととしており「賎民思想」は全く持っていない。そのことが武士に物産販売をさせることに繋がったと見るべきであろう。古来からの「金儲けは卑しい者がする」という考えを大きく覆したのであった。

徳をもって仁を行うとする儒学を学んだ後、「学んで実際に役に立つ学問」を志して、京に上り陽明学と禅宗に出会っている。ここにおいて儒学、陽明学、禅宗の三つが潭然一体となり、方谷の思想が確固としたものとなったと考えられる。「理財を論ず」上・下はその集大成である。「政治の姿勢を正し、人心を引きしめ、風俗を厚くし、役人の汚職を取締り、人民の生活を豊かにし、文教を振興し、武備を整える」、このことが理財の道に通じ、政道を明らかにするというのである。

方谷が残した文の中に
「百姓が辛苦して一勺でも多く米を作っても国も儲からず役人も利益にならず、ただ富商のみが儲けている」というのがある。このことは米に基礎をおいた幕府の経済体制が破綻し、財政の実権が豪商の手に渡っていると明確に認識している一文と言い得る。
むすびにかえて政治、経済、財政のあり方を中国の史書に学び、心を仏教の禅宗に求めた方谷は、国内の政治機構、経済機構が崩れ去ろうとする時期、その上欧米列国による国家危急の時に臨んで、小藩といえども藩国を預かり、一〇年を経ずして一大改革を成し遂げたのである。

領内を見る視線は常に庶民の目であり、知識を現実の社会へ投入して大きな収穫を上げたのである。
時代が産業経済の興隆期にあって、物価騰貴にも大きく助けられたところもあるが、方谷の経済人としての寄与は大きい。

米澤藩の改革は鷹山以後三代を要しており、殖産振興のために一〇万両の資金を借用したのに対して、松山藩は無借金であった。方谷が時期に恵まれたとはいえ、この差異は後世代の負担の差異としても大きかったと言える。

方谷は日本の経済思想家の先達といわれる石田梅岩(商の存在理由と商の倫理を明らかにした人(一六八五~一七四四))、海保青陵(脱儒教倫理的考えによる世の中はすべて「利」のやりとり、重商主義的考えを唱えた人(一七五五~一八一七))にも優る思想家であり、自らの持てるもののすべてを実践した偉大な学者、行政官であった。

〈注〉主な参考文献
(1)山田方谷全集
(2)季刊現代経済
四七号西川俊作「わが国一九世紀の経済成長1ある展望1」
(3)「日本のマネーサプライ」
勤草書房藤野正三郎(4)「江戸の貨幣物語」
東洋経済新報社三上隆三

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