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河井継之助とは
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少年期〜遊学時代

越後長岡藩七万四千余石は越後のほぼ中央に位置し、城下の近くを信濃川が流れている。長岡藩主牧野氏は三河牛久保出身で元和四年(一六一八)入封以来、幕末まで十二代にわたり連綿と藩を支配した。藩是は質撲剛健を宗とし、「常在戦場」の精神を第一とする。このため長岡の藩風は実利・実学を重んじ、道理を貫く気位の高い風土が伝統的だった。

継之助は文政十年一月一日、暁七ツ時(午前四時)、越後長岡城下同心町に生まれた。
継之助の生まれた同心町は町人町に接し、おもに町同心が住んでいた。そのため世禄百二十石の藩士が住む所としては不適当であり、継之助が十六歳のとき長町へ移ることとなった。

父は河井代右衛門秋紀、長岡藩勘定頭などを務めた有能な藩士で火付改・吟味役・蟷座掛・入役掛・京都詰・武器頭などの主に勘定方諸役を務めた。また、他方で号を小雲・聴松庵などとも称し、茶道をたしなみ、刀剣の鑑定にも秀れ、僧良寛とも親交のあった文化人であった。

兄弟は姉三人、弟一人、妹二人。そのうち長女のいく子は異母姉で藩医武回庵に嫁し、二女ふさ子は公用人佐野与惣左衛門の妻、三女千代子は弓術師範根岸勝之助の妻、弟健吉は夫逝、四女安子は同藩士牧野金蔵の妻、五女は天逝。姉妹の夫たちは戦争中、小隊長になるなどして継之助を陰で支えた。

幼い頃の継之助は、はなかなかの腕白ものであったという。親の指図はきかないし、負けず嫌い。両親は、我慢強く膿のすわった継之助に期待していた。

嘉永二年頃までは、継之助は城下長町の少年を中心に「桶宗」という青年グループに属していた。首領は伊丹市之丞という神童で、藩儒山田愛之助の指導をうけていた。グループには市之丞の弟の川島鋭次郎(後の三島億二郎)、河井継之助、小林虎三郎らがいた。市之丞は天逝して世にでなかったが、このグループから、後に長岡藩を背負うものたちがでた。

子供の頃から継之助は読書好きで有名で、それも書物を丹念に写しとった。夜などは四角の行燈の三方を紙で囲んで、一方を明るくして、遅くまで勉強したり、読書していたという。古賀茶漢の久敬舎に入門した際、書庫に入り『李忠定公集』をみつけるや、以後、寝食を忘れて読み写し、大冊十二巻をまたたくまに筆写したと伝えられる。

長岡藩は文化五年(一八○八)に藩校崇徳館が開校、京都詰になった藩士が古義堂に入門した。寛政の頃撰抜された山田愛之助らが藩費で江戸遊学をしてからは江戸遊学が一種のブームとなったらしく、私費でも江戸遊学を果たすものが続々とでた。

継之助もまた江戸遊学を熱望し、再三遊学願いを出した。長岡藩では遊学には藩の許可が必要で、継之助も二十七歳の嘉永六年春に許可され、旅立ったというのが定説である。この際、多くの書生達はほぼ朱子学を志したが継之助が志したのは今後継之助の運命を大きく左右する「陽明学」という学問だった。

継之助は最初、斎藤拙堂の門に入り、ついで古賀謹一郎の久敬舎に移った。また同時に佐久間象山の門人となった。しかし、継之助はどうやら象山の世界観に批判的ではなかったかと云われる。後に腹心の望月忠之丞に「佐久間翁は、豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。しかし、象山は継之助が苦労して筆写した『李忠定公集』を激賞して、筆隷で標題を題簸に書いてやっている。

嘉永六年、在府の同輩とともに藩主へ建言を行ったが、その内容は伝わっていない。今泉鐸次郎著『河井継之助傳』によると、過激な内容であったが藩主忠雅に注目され、「いまの時局であるから、用うべき人材である」としたという。

安政1年、継之助は評定方随役に任命されて国元に帰ったが、就職を国家老山本勘右衛門らに拒まれた。理由は藩政を任せられている国家老に相談もなく、まして部屋住の若輩が重職に任命されるはずがないというものであった。
大目付三間安右衛門も同調したため、評定所へ出仕しても、任務を与えられなかった。このため、継之助は一カ月半かニカ月半程度で評定方随役を辞職。その際、藩政担当者を弾劾する改革書を藩主に提出。この件で二十九歳の継之助の心意気と剛腹な性格が藩内に知れることになった。

さらに、安政二年六月、養嗣子牧野忠恭の初入部の際、恒例により、文武に秀でた者が、御前において経史の講義をすることになった。継之助が選ばれたが、「自分は講釈をするために学問をしたのではない」と講義を拒んだ。このためお叱りをこうむった。

以後、山野を践渉し英気を養った。


十七天に誓って輔国に擬す
春秋二十九宿心賠る
千載此の機得べきこと難し
世味知り来った長大息
英雄事を為す宣縁無からんや
出処唯応に自然に付すべし
古自り天人定数存す
好し酪睡を将って残年を送らん

上の詩は不遇時代に継之助が詠んだ物である。
継之助の前半生が凝縮したかのようであり悲憤の詩といえる。


安政四年、父が隠居したので、河井家を継いだ。翌年の秋、外様吟味役にあげられ北組宮路村の紛擾を解決するなど継之助の腕前はこのときすでに「なかなかのもの」であった。

安政五年十二月二十七日、再度の遊学願いが許可されて、翌日出立。碓氷峠の氷雪を踏破して、翌安政六年一月六日、江戸藩邸に到着。宿願の遊学で、その時の詩に、

時に恩書を得て宿欝空し
多年の雌伏又雄と為る
名を避け世を避くるは真に倣し難し
始めて脱す奨籠困苦の中

とある。恩書は遊学許可証、宿欝とは謹慎中の四年間を指す。

安政六年、継之助はついに備中松山に旅立つ、四月二十四日付で両親に宛てた手紙では、「経済有用の学問を修めるため、備中松山藩の山田方谷のところへ行く」といっている。いままで継之助にとって師とは何かに一つ秀でた存在であってその何か一つさえ学び取ればよいとしていた、しかし方谷との出会いは継之助のそれまでの師匠感を全く変える、まさに運命の出会いであったといえる、後日「天下の英雄方谷先生に及ぶものなし」と評価している。

継之助は西国遊学の記を「塵壼」と名づけ、途中の見聞を両親への土産としようとした。安政五年暮れの長岡出立から翌年六月四日の久敬舎退塾までが前文。本文の紀行文は三つに大別でき、安政六年六月七日江戸出立から七月十六日松山到着までの各地の民情視察、山田方谷のもとで従学した日々の記録、そして方谷の留守中、四国・九州を見聞した紀行文にわかれる。そのほか遊学中に読んだ書籍、金銭出納の控、方谷の語録などが記載されている。継之助を知る基本資料のひとつ。長岡市立中央図書館所蔵。

備中松山に到着後、当初方谷は初め教授する暇はないと継之助の入門を断ったが、継之助は「われは先生の作用を学ばんと欲する者、区々経を質し、文を問わんとするにはあらず」といって、入門を許された。そのご約1年にわたる松山での生活中、継之助は王文成・李忠定などの文集、陸宣王の奏議類の読書のほか、方谷と談論することを好んだといわれる。朋輩三島毅、会津藩の土屋鉄之助・秋月悌次郎とつきあったのも備中松山時代である。


安政六年十月五日から十三日間方谷が京へ出仕していたあいだ、継之助は長崎まで足を伸ばした。その間、会津藩士の秋月悌次郎とともに唐館・蘭館などに外国人を訪ねた。幕府の船将矢田堀景蔵と知り合い、幕艦観光丸に搭乗した。この際、外国に関する知識を得た。後に、この時得た感想を義兄梛野嘉兵衛宛へ一書をしたためている。それによると天下の形勢はおそかれはやかれ大変動する。撰夷などと唱えるものは愚昧だ。隣国との交際は大切にしなければならない。我が長岡藩は小藩だが藩政をよく治めて実力を養うことが大切だと述べている。

継之助が方谷のもとを去ったのは四万延元年(一八六〇)三月のこと、その際、継之助は王陽明全集を四両で譲りうけた。方谷は全集の空白に千七百字の送辞を記している。

「公の書を読む者、その精神に通ぜず、その粗迩に泥まば害ありて利なし、生の来たる、その志は経済に鋭く、口は事功に絶たず、かの書を読み、利を求めて反って害を招かんこ
とをおそるる」

継之助はこの文集と一瓢酒を肩に振り分けにし、ほかは何物ももたず、川を渡り、対岸に立つ方谷に沙磧のうえに幾度も脆坐作礼して去ったという。後にも先にも継之助が土下座して感謝したのはこのときだけである。

方谷のもとを去ったのち、継之助は山陰をまわり、江戸に帰り三たび久敬舎に入塾した。その後、文久元年(一八六一)夏に帰国、以後、家老牧野市右衛門宛に何度か藩政改革の意見書を提出したが、応答がなかった。


ちなみに、継之助の号は「蒼能窟」という、この号の由来には諸説あり、長岡の郷土史家今泉鐸次郎は、文久三年(一八六三)の詩にはじめて「蒼龍窟」とでてきたので、これを説明して「邸内の松樹を愛し、喬松が高くそびえて屈曲していて、緑のきぬがさが地を掩うようになっている」のにちなんで「蒼龍窟」を号としたという。司馬遼太郎の小説「峠」でもこの説を採用している。

しかし同じ郷土史家、鷹藤龍馬と小林安治は、禅の『碧巖録』が典拠ではないかと主張している。なぜなら、王陽明が竜場の難の途中に作ったという「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」を継之助は愛諦している。王陽明も禅に熱中したことがあり、『碧巖録』の第十八則には蒼龍、第三則と第九十九則には蒼龍窟の語がでてくる。継之助が禅を学んだ際に選んだのではないかという。

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