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備中松山平成塵坪紀行

1859年7月15日
原 文
十五日 晴
片上を立てインベヲ通り、
所謂備前焼を冷し、易直
之物なり、津山川ニ暫添て
岡山ニ達ス、片上よりハ追々
開ケ、岡山ハ余程之開ケなれ共、
山之多ニハ意外也、沢々無
限アリ、水之引方十分ニ
手之届、旱(カン)バツノ憂アルマシ、
先ニ淀川ニて田へ懸る水車
を見る、是ハ簀ニ水ノシトム
様スルシカケナレ共、夜故不分


明、今備前之川ニアルハ板ニて
水シトミマワル」
 重ケレハ不回故か、
 淀モ此モ
 至手薄之
 物なり
 輪ハ竹、
 中ハ、
 不傷様ニ
 色々アリ
川ハ大ニアラス、流レモ急ならス、
相応ニ深シ、我国ノ青山川
ヨリハ大なれ共、彼所ニて試
なれハ好からん、水勢似たる
様覚、水利之届しハ熊沢
遺意かと思ワル、稲ハ何も
能出来て、殊に其跡ヘナ種か
麦、先ニ伊勢て聞、一反テ
米ノ七俵も取り、其跡て
麦五六俵も出来ると、其割
なら下直なるへけれとも、
ハけ能故か、惣高直なり、
岡山迄来と中ニ、百姓家息へ
咄ヲ聞(米直段之事ニ付)、能筈ナレ共、ヤハリ表ヲ
張所ニて、何れも貧シト、殿様・家中
勝手不能由、四年トか前ニ札
一匁十分一ニナリ、当時ハ八文ニ
当ル、其前迄ハ讃支(岐)へ渡ると正銭
百五文迄ニハナルト、是ニテ金持も
長持ニ弐三杯も持しモアリ、此十分一ニテ
皆ヨワルト、可歎事ナリ、地震之
年之仕事か、熊沢之事を
聞ニ、繁山村ハ五里計リ跡ニ
ナルト、山ノ中ナリト、繁山之事ハ
能不知、其人ならん、白昼ニ
提燈ヲ附、立ノクト、其人、御城
之際ノ川山ノ木ヲ切ルト、後ニハ千石積
之不入様ナルト、要害も悪しと
云れし由、果して今ハアセタリト、
をそろしき人なリト云、繁山之
事ならん、石山多き故、
予問、炭・焚木如何ト、沢山
なる由、炭之直段六貫匁
俵、弐百四五十位ト、岡山ハ
さすか国主、大なる物ナリ、町
入て、小橋・中橋之二川ハ、皆
上リ川ニて、京橋ハ右云城之
外濠なる川ニて、京橋二(尤自国之船も)四国
高松ノ船数艘アリ、一六二ハ
是非大坂船出る、四国ハ毎日
便船アル由ナレ共、如何ニも
盆十五日之事なり、弥出ルトモ
不定、讃支渡らんため、暫
見合すれとも、思きりて
本道を不行、妹尾と云到、
是ハ已ニ備中なり(川アリ境)、子細ハ大坂
を始メ姫路・岡山・備中も倉
敷辺、昨年コロリ之病、又
流行して死人多、大坂
より之往来、兵庫、何れも
流行、道ニ六部ノ死するを見、
赤穂ヨリ片上出る山中ニテ
駕輿ニノセテ手拭ニて顔ヲ
蔽へ、生ける取扱ニして行
女アリ、命ハ天トハ乍云、
好て到るハ愚と思、讃支
渡んとするため也、瀬尾ニ宿、
大坂ヨリ備中迄、
痛神送るとか云て、馬鹿
等敷事、何れもあり

1859年(安政6年)7月15日晴れ
河井継之助は備前片上より伊部(いんべ)を通り、途中備前焼の工房などを見学しながら津山川に添って岡山に到着した。

岡山に近づくにつれ、徐々に町が開けてゆき、岡山市街地につく頃には広々とした平野となった。この土地は治水がしっかりとしており水路が十分に整っている、干ばつの心配はあまりないだろう。

岡山に入った道中、大きな水車を見かけた。
以前、淀川のあたりでも田にかけられた水車を見たが、そのときの物は竹を編んだような水車で水の中に沈めて使うような仕掛けの物だったが、夜は動いていないようであった。

明けて今、ここ備前で見た水車は板が張ってある物で水につかって回る。構造的に重いと回らないのか、淀川の物も、今回の物もとても薄手の物である。

車輪には竹を使っており、中の材質は色々の様である。


道に沿って流れる川はさほど大きい川でもなく、流れもさほど急な物ではない、深さはそれなりのようだ。長岡の青山川よりは若干大きいか、水の勢いは似たようなものだ。

治水が行き届いているのは、岡山の偉人熊沢蕃山(注1)の威徳による物とおもわれる。稲のできも良く、このあたりは稲の後、菜っ葉や麦などをつくる二毛作を行っているらしい。
地元の物に聞いてみたところ、この辺では田一反につき米7俵がとれ、その後麦も5〜6俵の収穫がある。それだけとれると、単価の下落を招きそうな物だが、はけるのがうまいのか高値で落ち着いている。

岡山まで来る途中、百姓の息子に話を聞いた。米の値段は結構よいはずなのだが、備前の殿様も、家来もみんな貧しいらしい。

どうやら激しいインフレが起こり、4年ほど前に一匁札の価値が十分の一に暴落し、現在では8文程度になっているという。

インフレの起こる前までは一匁札をもって讃岐に渡ると正価150文程度になっていたという。
このころは金持ちはこの差額のもうけをねらって長持ちに一匁札を満載して持ち出していたらしい。
今となってはインフレで皆一応に困っている、このようなことが起きるのも地震の年の災いだろうか。

熊沢蕃山のことを聞くと、蕃山はここから5里ほど東に戻った繁山村(注2 繁山=蕃山)というところに住んでいたらしい。繁山村はとても山の中で話を聞いた百姓は、繁山のことはよくは知らないという。
蕃山がいうには「お城の横の川の木を伐採してしまうと、その後には大きな船が入ってくられなくなる、交通の便も悪い。



炭の段は6貫匁俵、245文くらいらしい、さすが岡山、たいしたものだ。

いよいよ岡山の市街地に入ってきた。小橋・中橋の二つの川は、どちらとも上り用の川のようである、また、京橋は岡山城の外堀としても機能している川で、四国高松に向かう船が数隻止まっている。
1/6のつく日には大阪方面に向かう船も出るらしい。四国へ向かう便は毎日出向するようではあるが、なにぶんにも今日は盆の8月15日、四国行きの船が出るかどうか定かではない。

讃岐に渡りたかったため、しばらく様子をうかがっていたが、どうもわからない、ここは思い切って方向を変えて、妹尾というところへ出た。ここには川がありこの川が備中と備前の境となっているようだ。

大阪を始め、姫路、岡山、備中倉敷まで去年から流行しているコレラが蔓延して死人が多く、大阪から今までの道中にも多くの死体をみた。

赤穂から片上へあがる山中にてかごに乗せられて、手ぬぐいで顔を覆われ生きながらにして死んだように扱われている女がいた。命は天から与えられたものといいながら、好んで死のうとするのは愚かなことがと思う。

明日は、讃岐まで足を伸ばしてみようと思うので、本日は妹尾で宿を取る。
大阪から備中まで疫病神を持ってくるとかいって、どっちにしてもばからしいことだ。

前日の赤穂から備前片上と継之助は現在のJR赤穂線沿いに岡山入りした、道中、観光に興味津々の継之助だが、メモの端々に米の値段や炭の値段、インフレの記述など経済に関心が高かったことが見て取れる。

(注1)熊沢蕃山
くまざわばんざん
(1619-1691) 江戸前期の陽明学者。京都の人。字(あざな)は了介。中江藤樹に学び、岡山藩主池田光政に招かれ治績をあげた。「大学或問(わくもん)」などで政治を批判し、幕府に咎(とが)められて禁錮中に病死。著は他に「集義和書」「集義外書」など。

(注2)繁山村
現在は岡山ブルーウエーの蕃山インターがあります。
蕃山蕃山は、岡山藩の職を辞した後、明暦3年(1657)、知行地であった寺口村に移り住みます。

 つくば山 葉山蕃山しげけれど 思い入るには さはらざりけり (源 重之)

新古今のこの歌に因んで移り住んだ村の名前を蕃山村と改め、自らの名前も「蕃山」としてしまいました。
また、不思議な縁で、蕃山蕃山を崇拝していた方谷も、明治維新後、閑谷学校を再建するため備前に滞在した期間、この蕃山村に住居を構えていました。方谷の住宅跡は蕃山の住宅跡の30メートルほど離れた場所にあります。


右上赤の矢印が蕃山村、左下が備前片上





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