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1859年7月16日
原 文
   十六日 大雨 間々晴
前ニ云ことく、諭ヶ(由加)山を見物して、
下ツ井へ出、讃支へ渡らんため来れとも、
朝大雨ニて、悪気を一洗する
ならんと思、且、讃支ハ帰路
之図リ、殊ニ松山ハ山中故、返
彼方好からんと決定して、
瀬尾より、右ニ吉備之社見て、
板倉出、是ハ本道なり、板倉
より松山道別れて、城下迄
八里、弐里計リハ平らなれ共、
跡は皆山ニて、松山川とて玉島へ
出払川アリ、六里計り之所ハ
両岸山ニて、川岸行、
躰之所ナリ、休し処で札
之咄出、松山札ハ随一なる由、或時、
五匁之札、不通用之聞アル処、
不通用之物非道と、何日迄と
日を限り、触出、持参引替、
目前ニて火中アリ、皆感心
して信する由、其外文武
をも不励者ハ山上ケル抔之咄、
他領之者迄信して咄をす
る、遙るか来り、ハリあいニ思しナリ、
此辺、諸方之札アリテ、誠ニ難信
物ナリ、段々山入リテモ、山高モ
ナラス、其中ノ少ノ開ニハ家アリ、
松山モ其広き所ナリ、何れも
四方山ニて、方十町有るハ
覚束ナシ、地勢之替リ、奇妙
なる物ナリ、幾等山之中ニても、
稲も能出来、竹も諸々ニアリ、
夜少々遅ナレ共、盆之事故、
道中ニて宿を迷惑かる故、
松山迄来る、昼過ハ大雷雨
なれ共、夜ハ晴て、月もさへ、
左右絶碧故、前岸之山上ニ
月照り、此方之山之かげ、前山
之半ニウツリ、中ニ清川流
て好風景ナリ、更夜道ヲ
不厭、五ツ頃、松山着宿ス、其外
五年以後ノ売買之田地ハ、
皆本返ス抔之咄アレ共、不足
信、追此地ノ事ハ山田ニ尋て
可記、松山ハ本道より北西ニ入、
如案、流行更ナシ

16日 大雨 時々晴れ
倉敷市児島由加山(神社がある)(注1)を見物して
下津井(現瀬戸大橋の袂)へでた、讃岐(香川県)
へ言ってみようかときては見たが、この大雨で行く気
が失せた、讃岐には帰り道によってみようと思う。

備中松山はここからはさらにかなり山奥だ、瀬尾を
通って一宮の吉備津神社(神殿は現在国宝)を右手に見たところで、板倉(注2)という交差点に出た。中央に道しるべがあり「城下迄八里、弐里」とある。備中松山城まで48キロ、ここから12キロくらいは平坦な道が続くが後はずっと山道となっている。
国道180号線にはいる。備中松山に入る途中、休憩のため茶屋に入る、主人に「山田方谷氏」について訪ねてみると、

「乱発と偽札によって信用を失っていた藩発行の5匁札を、ある時方谷が全て正価と交換・回収し、これを皆が見ている前で全て焼き払ってしまったのだという、それ以後新しくなった5匁札の信用はこの地域随一なのだという。」
また、武士であっても文武に励まない物は開墾者として未開の土地へ派遣するという。にわかには信じがたいことだ。

備中松山に近ずくにつれて、周りには少しは家もある物の全体的には全くの山の中だ、備中松山そのものもその大きな物と言っていいだろう。

と、思っているうちに備中松山の領内に入った。松山に入ったとたん、それまでとがらりと風景が変わり、周りの山々は全てきれいに整備されており、畑が山頂に向かってのびている、山の中ながら稲もよく育っているようであり、所々に孟宗竹が茂っている。

夜も更けてきたが、ちょうど盆踊り期間だったらしくこの時間でも道中は随分とにぎやかだ(注3)。松山の手前で宿を取ろうかとも思ったが、盆踊りのため途中宿を取っては宿屋の迷惑かとお思い城下まで行くことにした。

さらに夜は更けてきた、昼過ぎには雷を伴う大雨だったが、夜には見事な月が出た、高梁川に沿って続くこの道は左右が絶壁になっているため、前の岸の山上を月明かりが照らし、その山の陰が前の山に映っている。その中央には高梁川の清流が流れており美しい光景だ。(注4)さらに夜道を進み、夜8時頃にようやく備中松山の市街地までやってきた。

そうそう、これも聞いたことだが、備中松山では5年以後に売買された田畑はすべて元の持ち主の元へ返却したという話だが、さすがにこれは信じられない、後日、山田方谷氏にあった折りにでも聞いてみよう。

備中松山は山陽道からは北西にはいったところにある。今のところコレラはまだこの地にはきていないようである。



(注1)諭ヶ山
安藤英男著の塵壺では「蕃山」を見学としているがこれは由加山の誤りであろう。
地理的にみても由加山と下津井は目と鼻のさきだが、蕃山まで戻るととても遠い。

(注2)板倉の交差点
現在の国道180号線、岡山市街地から10分程度の場所に板倉の交差点がある。
この場所には今も継之助がみたであろう、道しるべの日がたっている。
北向きには下の写真のように「右松山八里・・」他の面には「西 井山賓福寺 二里半」
「牛の鼻ぐり塚」「南 庭瀬」と書いてある。
 

(注3)盆踊り
高梁市では毎年お盆の14日〜16日にかけて「備中高梁松山踊り」が
開催される。県下三大盆踊りといわれるが、高梁人は「松山踊り」が唯一無二であり
岡山市に最近できた「うらじゃ踊り」(よさこい踊り系の新しい盆踊り)などは認めていない(笑)
板倉勝職も大好きだったといわれるこの盆踊り、高梁人ならばこの音頭が聞こえてくるだけで
じっとしていられなくなる。

盆踊りとしては古典的な輪になって踊るタイプのもので、特徴的なのは誰でも何の登録もなく
すぐに輪に入って参加できる、庶民が踊るのは「地踊り」と「やとさ」があり、やとさは今でも
若い子に絶大な人気がある。また武士に伝わる「仕組踊り」もあり、こちらも今でもイベント
として盆踊り期間中、市内の各所で披露される。→さらに詳しくはこちら

(注4)高梁川の光景
当時継之助が歩いたとおり、国道180号線に沿って高梁に向かっていると、総社市をすぎたあたりから
民家は少なくなり、しばらくゆくとまさに道と山と川だけの風景が広がる。
おそらく100年前ともそう変わっていないであろうその風景は今見ても、やはり美しいと思う。
 


  


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