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大政奉還の密書


「徳川幕府は政権を天皇にお返しする」

方谷がその密書を受け取ったのは冬の始まり、慶応3年10月12日の夜半だった。
「ついにこのときがきた」250年にも及ぶ徳川政権の終焉である。

幕府内では、坂本竜馬が後藤象二郎に示した「船中八策」が土佐藩主山内容堂によって進言され、倒幕に進む薩長同盟の先手を打って大政奉還建白書を老中板倉勝静を通して将軍慶喜に提出、将軍慶喜はこの方策をのみ政権を天皇に返上する動きが活発化していた。

(「船中八策」とは政権の実権を幕府から天皇をトップとする大名会議に移しこれを上院とする、また庶民から人材を登用し下院を組織、この上下院をもって統一国家を作るというものだった。)

方谷は矢継ぎ早に筆をとると歴史となる密書を密使に渡し超特急で京へ返した。

文書は「炎の陽明学−山田方谷伝−」矢吹邦彦著・明徳出版社からの転載である
慶喜の提出した「大政奉還上奏書」の文章は下記の様なものだった。

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「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考侯二、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門二移テヨリ・祖宗二至リ更二寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職奉スト筆、政刑当ヲ失フコト不少、今日之形勢二至侯モ・畢克薄徳之所致、不堪羅侯、況ヤ当今外風之交際日二盛ナル言リ、愈朝権一途二出不申侯而者・綱紀難立侯問、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷二奉帰、広ク天下之公議ヲ尽シ・聖断ヲ仰キ・思協力、共二皇国ヲ保護仕侯得ハ、必ス海外万国ト可並立侯、臣慶喜国家二所尽、是二不過ト奉存侯、乍去猶見込之儀モ有之侯得者可申聞旨、諸侯江相達置侯、依之此段読
テ聞仕侯、以上詞十月十四日慶喜。」

山田方谷から矢吹久次郎に送られた重大な密書には、決まって宛名も差出人の名前もない。そして「早々御火中」の指示がある。なぜか、灰とならずわずかに残された密書の存在によって歴史の暗部を知ることが出来る。



皇国時運の沿革を観るに、昔王綱紐を解きて相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、我が祖宗に更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受け、我は職を報ずると雖も、政刑当を失う少なからず、今日の形勢に至るも、畢克薄徳の致すところ椴に堪えず侯。

況んや当今外国の交際日・盛んなるにより、愈朝権一途に出ず候ては、綱紀立ちがたく候間、従来の因習を改め・政権を朝廷に帰し、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並び立っべくわが国家はつくす所これに過ぎず、去りながら尚見込みの儀も之れ有り候はば、些か忌諱らず申し聞かすべく候。

徳川慶喜から天皇に提出された上奏文は我で始まる方谷の原文を「臣慶喜謹テ」とかえてへり下り、あとは原文のままにそのまま写したものだが、後半、再度「臣慶喜」を文中に入れて十月十四日慶喜。で終わる。

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13日、備中松山の方谷から渡された原文はその日のうちに京へと運ばれ、翌日には慶喜の手により書き換えられ、10月14日、天皇に対して「大政奉還上奏書」として提出された。





  

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