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【桜田門外の変】

蔓延元年(1860年)3月3日大雪の降りしきる朝、江戸城桜田門外で大老井伊直弼の行列が水戸藩士17名、薩摩藩士1名の計18名によりおそわれた。井伊直弼はかごから引きずり出され首をはねられた。「桜田門外の変」である。

この事件はこの後の日本史の大きな転換点となる。事件後、井伊政権後の久世安藤政権下では失墜した幕府の威厳を取り戻すべく14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹、和宮の政略結婚を計画、朝廷と徳川幕府の融合戦略を進め、高まる尊皇攘夷の矛先をかわすのに躍起となった。また孝明天皇に
10年以内に欧米各国と結んだ条約をすべて保護として再び鎖国に戻ると公約するなどなりふり構わぬ態度で混沌とする政局を乗り切ろうとしていた。

そして文久元年二月、井伊大老に臆せず意見した勝静の見識が高く評価され、勝静は再び奏者番兼寺社奉行に返り咲くこととなった。


この年、方谷は勝静政治顧問として江戸へ出向いた。意気揚々と方谷を迎えたのは寺社奉行に返り咲き上機嫌で自信に満ちた顔のの勝静その人であった。
「はるばるご苦労、今日はゆっくりと休め。そういえば安五よ、おぬし、江戸城は初めてだったな、天下の江戸城じゃ、是非とも見てまいれ、」

勝静は部下に命じ江戸に付いた早々の方谷に江戸城の見学をさせた。

城内を一回りして戻ってきた方谷に勝静は意気揚々と語りかけた。
「安五、どうじゃ天下の大城は、さぞ驚いたことであろうな」

はしゃぐ勝静に対して方谷の表情はどこか重い。そしてひとことこう答えた。
「下は千尋の波でございます」

「どういう意味だ」勝静の顔から笑みが消えた。




3月、方谷は江戸愛宕山のふもとで吐血して倒れた。急報を聞きかけつけた松山藩士、三島中洲をみるや方谷は言った。

「一詩得た。筆を録ってくれ。」

次の詩は吐血しながらも三島に書き取らせた物という。


東従にこ従して、邸に留まること月余りなり。
たまたま咯血を患う。時に陽明先生の
心中の賊を討つの語を思うあり。


賊 心中に拠り勢い未だ衰えず
天君 令有り殺して遺(のこ)す無かれと
満胸迸出す鮮鮮の血
正に是れ一場鏖戦(おうせん)の時

(口語訳)

藩主のお供をして江戸にきて、藩邸に一ヶ月あまり滞在していた。
吐血して倒れた。その時、王陽明先生の「心中の賊を討つ」の語を思い出し一詩詠う。

私の心の中に巣食うている「賊」は未だに衰えを見せない。
天の神から、その賊どもを余すところ無く殺し尽くせとの命令があった。

胸一杯の鮮血が口からほとばしり出た、これこそが心中から流れ出た賊の血潮だ。
いままさに一歩も引けない戦いの中にある、賊どもを皆殺しの戦いだ。


この激しい詩はすぐに江戸従の評判となった、ここで詠った方谷の心中にいる「賊」とはいったい何だったのか。四月になると病状もやや回復、方谷は備中松山に帰国して療養に努めることにした。

帰国途中、方谷は駕籠に揺られながら多くの漢詩を作ったが、お供の三島中洲は疲れて一詩も作れなかったという。神戸湊川付近に通りかかるとかねて尊敬している楠木正成の碑に立ち寄った。


「正成公よ、私はなんと無力な男なのだろう、・・わたしは藩主を、藩民を守りきることが出来るだろうか・・」

  

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