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2度目の京遊学

文政12年、方谷は2度目の京遊学に臨んだ。2年前の遊学では何も得ることのできなかった方谷にとっては念願とも言えるものであり、この時も方谷は寺島白鹿の門をたたいた。
この時の期間は約7ヶ月間、相変わらず故郷の師丸川松隠に与えられた宿題「儒教の根元」の探求に悩む方谷がいた。

方谷は焦った、「治国平天下」あどけない頃、自分が語ったなすべき事、
「どうすればできる・・・私は何をなせばよい・・」
そんな鬱蒼な気分の方谷が何かをつかんだのは一人禅を組み瞑想していた時だった。
「儒教の根元を求めるには天神の理を極め、生命の源に達し、大賢君子の境地まで上り詰めなければ不可能である!」
方谷の目指すべき目標が定まった瞬間だった。
「自分のなすべき事は功名を願い、博識を連ねて名を売ることではない、重要なのは行動である。地に足をつけ、自分の信念を達成する事、これこそが我が目指す道である。」

ただ学問を学び、その知識をひけらかしてもそれは国を救う頃には成らない。
陽明学をまだ知らぬ方谷が、陽明学の心理である「知行合一」を悟った。

当時の日本の国学は「朱子学」と言った。
朱子学とは中国から伝わった儒教の一派で、人間としての正しい生活のあり方を教えた思想・学問である、武家の子は「読み・書き・そろばん」だけではなく身分や立場を教える行動規範として朱子学を推奨した。

また朱子学は君主に絶対的忠誠を誓わせると言う考え方が基本にあり世を支配する幕府にとっては非常に都合の良い学問だった。
朱子はその学問の中で、「聖賢になるには、万物の理をいちいち究明し、この努力を積み重ねていくと、万理は一つに貫かれることがわかるようになる、この境地に達して始めて聖人や賢人になれるのである」と説いた。
朱子学ではこの「理」により万物はすべて解き明かすことが出来、「理」が「気」を通じて万物を形成している。という。

方谷にとってこの朱子学の抽象的な考え方は、学べば学ぶほど合点できないものの変わった行った。
「朱子学は現実社会では役に立たない。」
そんな想いが方谷の心を支配していった。

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