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TOPページ神童誕生母・梶の死人生の転機2度目の京遊学
阿燐の入門した丸川松隠という人物、あまり知られてはいないが非常に優秀な人物であったとして歴史に残っている。丸川は昌平黌で知られる佐藤一斎と同門で、時の老中松平定信が昌平黌の学官として登用しようと丸川をスカウトした、しかし丸川は「自分は新見藩の人間であるので他に禄をもらう気はない」と言い定信の誘いを断り新見で塾を開いたという強者である。そんな丸川にとっても阿燐は特別な存在だった。幼いながらりりしく一人超然と座し、小さな手で大きな筆をふるい竜の踊る字を書く、阿燐はまさに神童である。丸川は自分の認めた神童阿燐を時に厳しく、時には孫のように愛した。

有名な逸話がある、ある日丸川塾を訪ねた客が、塾生の中にあまりにも幼い子供が交じっているのに驚き、おもしろ半分に阿燐にこう訊ねた。

「坊や、何のために学問をするの?」

阿燐は迷いもなくきっぱり応えた。
「治国平天下」

客は腰がぬけるほど仰天し絶句した。あまりにも見事な回答だった。
治国平天下とは朱子学の教本「大学」の最重要部分である、普通朱子学を学ぶ際、まず初等教育の「小学」を学びその後四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」へと進む、阿燐は9才にして朱子学の必須4書を暗唱していた。

阿燐14才の冬、丸川松隠の元で順調に学問にいそしんでいた時、連絡がはいった、「母・梶の様態が悪い」という、阿燐は散る物もとらず母の元に駆けつけた。そこで阿燐が見た物は、やせ細り病でやつれ果てた母の姿だった。枕元に駆け寄った阿燐は思わず声を上げて泣いた。しかし、そんな阿燐を見た母は重い体をゆっくりと起こし毅然とした態度で阿燐に言った。

「阿燐、何しに帰った! 私のことは心配せんでええよろしい、おまえのやるべき事は学問です。ぐずぐずせんと、早よぉ丸川先生の所にお帰り!」

阿燐は言葉を失った、自分に残された道は病気の母の元を去り、丸川塾に帰ることだけだった。帰路を歩く阿燐の目前は常に涙で曇っていた。

そして10日後「母、危篤」の知らせが阿燐の元に届いた。胸のつぶれる思いで駆けつけたわが家で阿燐が見た物は愛する母の変わり果てた姿だった。

「そ、そんなっ、母さん、母さん・・・・」
幼い頃から塾に阿づけられていた阿燐にとって、最大の心のよりどころとなっていたのは、たまに届く母からの手紙だった。幼い阿燐は母からの手紙が届くたび、心から喜び、年に数回取れる休みに実家に帰ると、いつも門の前でわが子を待ちわびる母の姿を見つけていた。

「阿燐、ここに書いてごらん・・・阿燐・・阿燐・・」
厳しい教育ママだった母・梶だが、阿燐は母の奥に棲む「我が子を遠くに置く寂しさ」も十分に知っていた。阿燐の心の中にぽっかりと大きな穴が開いた、そして泣き崩れた。


数日後、母の死に打ちひしがれていた阿燐にさらに耳を疑いたくなるニュースが舞い込んだ。妻に先立たれた父五郎吉は、阿燐に学問の道を断念させ、家業を継がせる決断を下したというのだ。目の前が真っ黒とはまさにこのことである、阿燐は今まで信じてきたすべての物を見失い立ちつくした。

しかし、ここで父の前に立ちはだかった人物がいる、他でもない、阿燐を5才から引き取りほぼ10年間、子供・孫のように寵愛した恩師・丸川松隠その人である。

「五郎吉さん、あなたの気持ちは痛いほどわかる、妻なき今、二人の子供を抱え一人途方に暮れているのだろう、しかし、あなたの悲願は山田家の再興であろう、阿燐は神童じゃ、このまま阿燐に学問の道を歩ませてやれば、山田家は間違いなく再興できる。
これを見てくれませんか。」

丸川は五郎吉に阿燐の作った漢詩を見せた。

「これほどの天分に恵まれた子供を私は知らない。阿燐は学問をするべくこの世に生まれてきた子じゃ、梶さんもそれをよくわかっていた、だからこそ、自分の死期を悟っても阿燐を儂の所に帰らせた・・」

五郎吉は言葉を詰まらせた。
「わっ、わかりました・・・」
丸川松隠と言えばその名が江戸にもとどろく高名な儒学者である、その先生が自分の息子のことをここまで言うのでは父であってももまざる得ない、五郎吉はしぶしぶ承諾した。

阿燐がほっとしたのもつかの間、なんと五郎吉は母の喪が明けるのも待たずに再婚してしまった。いくら五才の弟がいるとはいえ・・父への感情は憎悪へと変化するには十分なののだった。

母が死に、阿燐の心の中は真っ白になった、自分がこれから何をしていいのか、何をするべきなのか、何をしても手に付かない、無気力状態である。
松陰は心配して言った
「阿燐、おまえは何のためにここにいる。母はおまえに何を望んだ? 父はおまえに何を託した?」

現在ならば中学1年の14歳の少年である、その少年に師は自分の人生を尋ねた。
阿燐は熟考の末こういった。

「父はたわしを生み、母は私を育て、天は私を育み、地は私を住まわせてくれた。私は何故生まれたのか、私は世を救うための仕事をなすために生まれたのでしょうか? 
しかしこの仕事をなすのは難しい、今の私は何もせずただ寂しく柱に身を寄せて物思いにふけって、なにも成しえずただ草木のごとく枯れ果ててゆくのみです。
人は私に「おまえは考えすぎる」と、よく言われますが・・
川の流れはとどまることが無く、人の一生も瞬く間に過ぎてしまう。だが、私はずっと孤独だった、苦しいとき、悩みを打ち明けられる友もいない、父母天地の想いは極まりない。
私がそのご恩に報いることはできるのでしょうか・・・」

愛する母を失い、心の壊れかけた少年に師はこういった。
「陽気の発するところ、石もまた徹る。精神一到何事か成らざらん」
少年はうなずいた。


その一年後、あっけなく父が死んだ。
方谷、15才、あとにはほとんど面識のない継母と6才の弟が残された。
父は遺言の中で家業は弟の辰蔵に継がせ、阿燐はそのまま丸川先生の元で学問に励むよう言った。さらに財産は継母と叔父の辰蔵、そして方谷の3等分として学業に支障の無いよう考慮した。父最期の優しさだった。
しかし、叔父の辰蔵は体が弱くとても製油業を営める状態ではなく、方谷は断腸の思いで丸川塾を辞し、実家の油製造の家業を継いだ。

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