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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力

【経済のV字回復】

藩財政の再建をする上で、借金の棚上げ・節約令と矢継ぎ早に政策を実行
次ぎに着手すべきは藩内の産業の振興策だった。

方谷は「撫育局(ぶいくきょく)」と名付けた役所を新設した。この撫育局、藩内で生産した米以外のすべての生産物の管理流通販売を手がけるというもので、藩内のすべての生産物の集中管理専売事業を目的とした。

中でも方谷が最も力を入れた産業振興品は「鉄」だった備中地方は古くから良質の砂鉄がとれることで有名で、方谷はまず鉱山の開墾を藩の直営事業とし、さらに周辺の鉱山を次々と買収していった。

さらに高梁川の対岸の近似地区に大製鉄工場を建設、鍬や鋤などの農耕道具を次々に生産した。

(このとき、方谷のバックにつき、莫大な資金を提供した矢吹久次郎という人物がいる、方谷の私塾牛麓社の門下生であり、天領新見上市の庄屋であるが、彼についてはのちに語ろう)

注目すべきは、地理的にも近く天下のまかないどころである大阪では荷は降ろさず、日本最大の人口を抱える江戸で事業を展開した事だろう。

当時の江戸は人口百万人を越える世界的にも最大級の都市であり、その人口の8割が百姓である、藩直営による製造販売で、中間マージンをカットし割安で品質の高い松山藩製の農耕器具は瞬く間に人気を博した、農機具の中には3本歯の「備中鍬」など、松山藩のオリジナル商品もあり、生産が追いつかないほど売れに売れた。

この鉄製品の販売利益は事業3年目にして3万両を突破、翌年には減価償却も終えさらにいっきに5万両をかせぎ出した。

さらに方谷は鉄製品だけではなく、従来からの特産物であった煙草や銅、ゆべし(お菓子)といったものも増産を奨励し次々と「撫育局」でさばいていった。

そして米、大阪の銀主から抵当を抜き、取引の自由となった米は方谷の手により相場に応じて売られていった、こちらも年により違いはあったがおおよそ3千両から6千両の利益を生み出してゆく、備中松山藩の経済状態は驚異的なスピードでV字型の回復を見せていった。





  

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