はんこうゆうしゅうかんあと 備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により、 内山下にあった元有終館が類焼。時の学頭奥田楽山が中之町に再興した。 その後、同10年にはまたまた焼失し、嘉永4年に山田方谷が再興した。 現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建つ。
有終館跡、現在は高梁幼稚園 左手の建物は消防団の消防車倉庫兼公衆便所 方谷の大松 方谷人身が植えたと言われる大松