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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力

【方谷、大阪へ】

寛永三年、藩主板倉勝静の帰国と共に方谷の藩政改革が始まった。

方谷は藩の財政収支状態を詳細にわたり藩主勝静と松山藩の老中達に報告した。その内容は勝静をはじめ老中達の背筋を凍らせるものであった、そしてそれ以上に藩士達を驚かせたのが、10万両の借金に対する方谷の決意だった。

「藩の帳簿を債権者である両替商にすべて公開し、今までの粉飾決算を明らかにする。その上で話し合いをするほか解決の道はない。」

当時、大名に金を貸す両替商を江戸では金主、上方では銀主といった、松山藩の借金も鴻池や天王寺屋といった銀主からのものだった。方谷の決意とはこの銀主たちに松山藩の財政すべてを公開し、借金の一時棚上げを要請する、といまさに現在で言う「会社更生法」そのものと言っていい方法だった。

「そんなことをすれば、銀主達の怒りをかうだけだ、・・・もう、金も借りられなくなる・・藩も立ち行かなくなる・・」
家老達の心証はいかばかりのものだったであろうか。

「松山藩は今後一切借り入れをいたしません。この改革にはその覚悟が必要です。」方谷は淡々と語った。



大阪に向かった方谷は債権者である銀主を一斉に集めた。通常、債務者と銀主との交渉は密かに一対一で行われるのが定積である。
一斉に集められた銀主たちのまえで方谷は松山藩の帳簿すべてを公開、それまでの粉飾決算を明らかにした。

「備中松山藩は現在約2万石の収入しかございません。このままでは利子はおろか銀主の方々からお借りした元金すら返せる見込みはございません、どうか10万両の借金を一時期棚上げしていただきたい。」

方谷のとった行動はまさに異例づくしのショック療法とも言うべきものであったが、驚愕する銀主達をさらに唖然とさせたのが各銀主に示した詳細緻密な松山藩の再建計画と支払い計画だった。

銀主たちの認識では、武士とはそろばん経済に弱い儲けのための絶好のカモであった、そこに突然と現れた自分たちを遙かにしのぐ経済的感覚を持ってあらわれた方谷に銀主達は度肝を抜かれ言葉を失ったという。

方谷に話はまだまだ続く、
「現在担保となっている今年、そして来年とれる米の抵当を抜いていただきたい。年間1千両の管理経費のかかっている蔵屋敷も廃止いたします、米は藩で有利な時期に売り、負債は現金にて支払います。」

蔵屋敷とは各藩がとれた米をストックし、市場で現金化するための施設である、中でも大阪は日本最大の米市場であり各藩共に大阪に蔵屋敷を設置していた。
米相場は月々変化する。経済の原則では「高いときに売り、安いときに買う」である、しかし実際の当の蔵屋敷付きの藩士達は取引を銀主たちにまかせっきりにし、自分たちは藩の金で贅沢の限りを尽くす生活をしていた。

「この男の改革は本物だ・・・」鋭い経済感覚を持つ銀主達にとって、方谷の改革の内容は充分に説得力のあるものであり、この時点で山田方谷という人物のそこじからを感じ取っていたのであろう。銀主達はこの異例中の異例である方谷の提案を快く承諾した。




  

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