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山田方谷生誕200年記念事業 方谷さんを今に生かそうレポート

平成16年11月12日、高梁交流会館におきまして「 山田方谷生誕200年記念事業 方谷さんを今に生かそう」と題したシンポジュウムが開催されました。
 
このコーナーでは、当日の童門冬二氏の基調講演やパネルディスカッションのレポートをお送りします。

は当日一時より開催され、童門冬二氏により「誠は天の道なり−山田方谷と巡る人々」と題した基調講演の後、「師・友・門下を語る」と言うパネルディスカッションが行われました。

パネルディスカッションのパネリストは下記の方々

パネルディスカッション(師・友・門下を語る)
佐藤一斎研究会  鈴木隆一氏 岐阜県岩村町
高梁方谷会    児玉 享  岡山県高梁市
エコール・ド・まつしろ佐久間象山専科 八田真蔵氏 長野県長野市(松代)
河井継之助を偲ぶ会 小川和也氏 新潟県長岡市
コーディネーター 石井 保(実行委員会)




基調講演「誠は天の道なり−山田方谷と巡る人々」概要

(harehaは当日駐車場係をしていたため、頭一〇分くらい聞き逃しました、この概要はその後からのものです。)

山田方谷が奇跡的な藩政改革をしたことはよく知られている、方谷の考えは「和魂洋芸」と言うもので、日本のアイデンティティーを保ちながらも、外国の技術を推し進めると言う考え方を持っていた。この考え方は思想の違う佐久間象山にも共通している。

江戸時代の日本は今で言う10割自治を行っていた、藩の財政はすべて藩内で生み出したもので、地方自治という意味では当時の方が進んでいたと言える。さらに幕府というものは大名の合議制によって運営されており、幕府の運営に当たる大名は自藩の成功事例を今度は日本全体で実施するというボトムアップ方の政治が行われていた。

しかし、明治維新後の廃藩置県によりこの優れた地方自治制度は崩壊、新たに設置された「県」は単なる政府の出先機関となってしまった。このような大名の権力をすべて奪うような改革がすんなりとおったのは、当時の各藩の財政事情にポイントがあり、当時巨額の負債に悩む各藩は、新制度への移行により借金が棒引きされるという甘い汁につられ右にならえで簡単に実施されたという背景がある。

変わって備中松山藩、この藩は方谷の改革により借金はなくなっていたのであえて県になる必要はなかった。それではその改革をなしえた方谷は、それまでどのような人と交わり、自我を養ってきたのかを考察してみる。

山田方谷の最初の重要な出会いはやはり「両親」といえる

方谷の父は五郎吉、母は梶といった。山だけの家系は元々は武士であったが今は落ちぶれて百姓となっていた、そのため方谷に徹底的に厳しい教育をしお家の再興を掛けた。
母梶もまた超のつく教育ママで4才の方谷に書を教えた。
山田家の家訓は非常に厳しいものだったが、その内容をよく見ると自分には厳しく、他人には優しくと言う情愛に満ちたものであり、後の方谷の考えの基礎になったと思われる。

一.献上米二合を毎日なすべきこと。
一.ご神仏お初穂はこれまでどおりなすべきこと。
一.衣類は木綿に限るべきこと。
一.三度の食事は、一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯。もっとも母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約すること。
一.酒のたしなみは無用のこと。
一.客の饗応は一汁一菜かぎり。
一.労働は朝七つ(午前四時)より、夜は九つ(+二時)まで。召使いの人は世間なみ。
一.履物は、わらぞうり、引下駄、わら緒にかぎること。
一.からゆ、さかやきは月に三度。びんつけは倹約に致すべし。高銀の櫛、算は無用。
一.もろもろの勝負ごとはかたく無用。
一.芝居その他の見物ごとはかたく無用。
一.遊芸はいっさい無用。

方谷次の出会いは恩師丸川松隠との出会いである。
丸川は昌平黌の教師としてもスカウトされていたと言うほどの人物で幼い方谷はこの人物によってみっちりと儒学の基礎を習う。

次の出会いは熊沢蕃山である。熊沢を知った方谷はその教えに心酔する。

次の出会いは板倉勝職(かつつね)である、勝職とは松山藩の勝静の前の藩主で勝静の義父となる、一般に勝職は馬鹿殿で知られるが、百姓だった方谷を発掘し、藩侯有終館勤務として俸禄を与えるという偉業をなしえた。もし勝職との出会いがなければその後の方谷はなかった。

次の出会いは寺島白鹿である、寺島白鹿は京都在住の儒学者で恩師丸川松隠の知友であった。方谷は間をおいて何度か寺島白鹿に入門する、途中師匠との対立などもあったが方谷はここで「陽明学」との運命的な出会いをする。

そして、その後江戸に遊学した際、佐藤一斎の門をたたく、佐藤一斎とは昌平黌の総長で表向き朱子学の先生でいたが実は陽明学も教えていた。そのとき同じ門下生としてともに勉強したのが佐久間象山だった。

方谷と佐久間は全く織りがあわず毎夜のように激論を交わしていたという、さらに佐藤先生は毎夜繰り広げられる方谷と佐久間の激論を隣の部屋で聞きながら楽しんでいた。

ちなみに童門氏が思うに、山田方谷は陽明学者とは言い切れないのではないか?とのこと。
方谷は陽明学・朱子学ともに自分のものとし、「民のための学問であれば何でも良いのではないか?」というスタンスで陽明学にも望んでいたのではないか?とのこと。

そして、いよいよ次の出会いが板倉勝静となる。


童門氏曰くの山田方谷の人物評として、方谷は「風度」が高い。


風度(ふうど)とは人の性格や態度。風格。と言う意味。



「パネルディスカッション(師・友・門下を語る)」概要

(じつは、パネルディスカッション中はスタッフとして裾にいたのであまりメモがとれていません。なのでレポート募集中ですm(_ _)m  )
河井継之助を偲ぶ会 
小川和也氏 
新潟県長岡市
高梁方谷会
児玉 享  
岡山県高梁市
エコール・ド・まつしろ佐久間象山専科
八田真蔵氏 
長野県長野市(松代)
佐藤一斎研究会  
鈴木隆一氏 
岐阜県岩村町
コーディネーター 
石井 保
(実行委員会)
(すみません、まっすぐ向かれた写真が撮れませんでした。)

当日は新潟中越地震義援金の募集も行われ多くの方にご協力をいただきました。
本当にありがとうございました。ご協力頂いた義援金は、新潟復興に少しでもお役に立てればと当日参加頂いた「河井継之助を偲ぶ会」の方に託されました。一日も早い復興をお祈り致します。


当日夜は交流会が行われました。

 
交流会には秋岡高梁市長さんも参加されました。

高梁名物「国指定重要無形文化財」の備中神楽の一部、大国主命の舞も披露されました。






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