▲山田方谷マニアックストップページ

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@備中松山城
現存する山城としては日本一高い所にある城で、天守と二重櫓は17世紀後半に建築された当時のままの姿で残っており国の重要文化財にも指定されてる。堂々とした姿は現在でも備中高梁のシンボルとして雄志を誇る。

A中洲公園・虎口渓舎跡
虎口渓舎とは方谷の一番弟子である三島中洲の私塾の名で、昭和初期までこの場所に立っていた。中洲公園は中洲にちなんで名付けられた公園で、園内には三連水車、自然石を利用した滝「牛麓の滝」、展望台、休憩所などがあり、市民の憩いの場となっている。

B牛麓舎跡
牛麓舎とは方谷が有終館学頭時代に設立した私塾で、後に方谷改革を支えた三島中洲や進鴻渓、矢吹久次郎などはほとんどがこの私塾の門下生だった。備中松山城登城の玄関口にあたる場所にあったが現在建物はなく「方谷先生家塾 牛麓舎跡」を記す碑が立つ。

C御根小屋跡(県立高梁高校)
御根小屋とは松山藩主の住居と行政用の建物をかねたもので、1605年、備中国奉行・小堀遠州が頼久寺からココに移り住んだ。1681年には水谷勝宗が備中松山城と御根小屋を大改築した。現在は当時の建物は残っておらず、跡地には岡山県立高梁高校が建つ。

D中洲生歯の碑
中洲生歯の碑は秋葉山麓の北側に南面して建ち、その前右側に中洲の夫人二方と両夫人に一人づつの幼女がいずれも故人となってここに眠る。中洲は自分の生歯をこれら四人の墓の傍に埋めて、哀惜の真情を詠じた。

E八重籬神社
1793年、備中松山藩主板倉勝政公の創建で、祭神は板倉氏始祖勝重公、二代重宗公を祀る板倉氏の氏神である。境内には13基もの碑が林立しておりその数は他の場所に比べ群を抜いて多く、その多くは方谷関連の物となっている(格碑の位置関係は右上・八重籬神社配置図を参照)。また玉島で自刃し藩兵や玉島の民を救った熊田恰(玉島事件)を祀った熊田神社や藩主勝静の元お茶屋で取壊しをさけ方谷が移築した臥牛亭も境内にある。

F水車跡(舊藩御茶屋舊址)
方谷の藩政改革を学ぶため松山藩を訪れた長岡の雄・河井継之助が城下で寝泊まりした藩の宿(塵壺にも登場)。元は板倉家の御茶屋で住居を長瀬に移した方谷も半月はここを別荘として城下に勤務し、後半月は長瀬の本宅で開墾にあたっていた。

G頼久寺・山田方谷先生寓居址の碑
小堀遠州作の国の名勝のある寺、幕末期は参謀本部としても度々使用された。方谷先生寓居址の碑は頼久寺の車庫の南、第2駐車場のそばの民家の横にある。方谷先生が藩政の激務の身をここに於いて休養されたり詩などを作っていた家があった。

H藩校有終館跡
備中松山藩の学校として建校されたが、1832年の大火により、元有終館が類焼。ときの学頭奥田楽山が中之町に再興した。同10年にはまたまた焼失し山田方谷が再興した。現在敷地内には高梁幼稚園が建つ。方谷人身が植えたと言われる大松がある。

I武家宿 花屋跡
司馬遼太郎の小説「峠」にて河井継之助が松山藩で長いこと宿泊した武宿が「花屋」である。現在、花屋はなく跡地には高梁北郵便局が建っている。花屋のあった紺屋川筋には継之助のことを記した碑もある。(花屋は現在油屋と名前を変え本町にある。)

J安正寺
備中松山城主板倉家の菩捉寺で曹洞宗に属し、板倉公歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、大本山永平寺直轄別録所格式である。第七代勝澄公は1744年3月、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿とした。

K郷土資料館
明治37年に尋常小学校として建設された木造2階建ての洋風建築で、現在は高梁市の江戸時代から昭和初期にかけての生活道具や写真を展示している。施設前には山田方谷没後100年祭の時に設置された「山田方谷」の銅像と記念碑がある。

L道源寺
当山は目蓮大聖人の遺言により、西国布教をされた日像聖人の高弟大覚大僧正を開基とし、1352年頃に御津町に創建、1595年高梁に移建された。境内には、藩老熊田恰矩芳の墓所(玉島事件で自刃)や天諌組原田亀太郎、藩儒奥田楽山などの墓がある。

M薬師寺・松連寺
一見すると白と見間違いそうな石がけを持つこの建物は一国一城制度のもと、松山城防備のための出城として作られた。また薬師寺は映画「男はつらいよ・口笛を吹く寅次郎」のロケ地となったことでも有名。

N高梁市歴史美術館
高梁市には備中松山城をはじめ、頼久寺や武家屋敷など歴史的に貴重な文化財が数多く残っている。常設展示は高梁市にゆかりの歴史的文化遺産である資料・書画などを展示している。問:0866-21-0180 高梁市原田北町1203-1

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