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新見藩、丸川義三の死

松山藩への討伐命令は岡山の各藩へ通達された、この命令は「帝」の命であり、これに背くことはすなわち賊軍になると言うことである。津山や新見藩と言った松山藩の親藩も勅諭であるからには従わざるをえなかった

そして、新見藩の松山藩追討部隊の隊長に抜擢されたのが丸川義三だった。祖父は丸川松隠、4歳の時方谷を引き取り、方谷の父母死亡後もまるで我が子のように方谷を育てあげた、方谷の育ての親その人である。方谷は死ぬまで丸川松隠を尊敬してやまなかった、その3代目である義三に白羽の矢が立てられた。

「まさか、松山藩を・・山田先生を討つというのですか!!」
義三が驚きを隠せなかった、鳥羽のこと、徳川のこと、それなりにはきいていた物の、まさか自分が方谷を討つなど、全く考えられない事だった。

「そっ、それは勅諭なのですか。」繰り返し確認する義三の耳に届くのはもっとも恐れておいた現実だった。

14日、いくさ姿の義三がそこにいた。
「出発!」
義三は腹の底から絞り出すようにそう叫ぶと、総勢15名の部隊は南に向かい前進した。
通常新見から高梁(松山)に向かうには新見往来(現在の国道180号線)を南下し40キロほどで高梁市外へと到着する。義三のめざす日羽へ行くには通常ルートだと備中松山を横切ってゆかねばならない。

「こんな小部隊が松山藩農兵隊とまともに戦って勝てるわけがない。」

義三は松山のこと方谷の事をよく知っていた。義三にとって方谷は尊敬する師であり、自分のおじさんのような存在だった。文久5年、方谷が17歳の時、丸川家の隣に住んでいた新見藩士若原家16才の娘「進」と結婚し、長女「瑳奇」が生まれた。同じ頃生まれたのが義三だった。義三が3歳の時「瑳奇」が病死、その2年後に方谷は進とも離縁してしまうが、その後も方谷は義三をまるで我が子のように深く愛した。

義三が選んだルートは新見から吹屋往来を通り、松山藩のお隣の小藩成羽藩へ抜け、そこから笠岡往来をぬけ矢掛から日羽に抜けるという物だった。

18日早朝、岡山藩参謀河原源太夫の指揮下に入り、松山藩程近くの槙谷口に待機していた義三の部隊に連絡が入った。

「松山藩、降伏する 官軍完全勝利なり」

義三の肩の力が抜けた、思わず握りしめていた太刀を地面に落とした。

「誠か!・・・上様、・・今回の出陣、成功に終わりました。」
義三はつぶやいた。

そして「ひけえぃぃぃぃ」
あらん限りの力で部隊に号令を掛けると新見往来を北に前進を始めた。


新見往来を、まっすぐに松山藩を抜けると、津川というところがある、全国的にも有名な木野山神社があり、そのすぐ隣には災厄を取り除くと伝わる木野山八幡宮がある

津川を少し言ったところで義三の部下弘之介は義三がいないことに気づいた。
弘之介はあわてて部下に訊ねた。
「おい、義三様はどうした!義三様を見なかったか!」
もしや、弘之介は木野山八幡宮に走った。

そこには、誰にも介錯を受けず自刃した義三の姿があった。

介錯を受けず、最期まで苦しみながら死ぬことで、義三は方谷にわびたのだろうか。


丸川義三 享年39才

方谷が義三の死を知ったのはそれからしばらくしてのことだった。

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