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備中松山城無血開城の責任者、松山藩筆頭家老であり岡山藩への謝罪使の正使をつとめた大石隼雄は極度の自己嫌悪にあえいでいた。自分の責任で藩を明け渡してしまった・・・
この耐え難い事実は大石の心を押しつぶした。
松山城開城の事務処理に忙殺されるさなか、鬱蒼とした表情を浮かべた大石はふらふらと奥の部屋へと消えていった。
「大石様の顔には死相が出ておる」
心配になった家臣の一人が大石を追って奥の部屋へといった瞬間、大声が一同を驚かせた。
「大石様、早まってはいけません。大石様!・大石様!ここで、ここで死んでしまっては犬死にでございます。なにとぞ、なにとぞ思いとどまり下さい!
あなたが生きることが、藩の民すべてが生きることが山田様の思いでございます。」
「えーい、はなせぇい。」
家臣に脇差しをもぎ取られるや、大石は大声で泣き崩れた。
家臣達もまたすすり泣いていた。
そのとき、ものすごい形相をして情報方の家臣が大石の元に飛び込んできた。
息を切らしながら家臣は大石に慌てた表情で耳打ちした。
その知らせを聞いた大石の表情は再び凍り付いた・・・
「なっ!なんだと!玉島に熊田隊150名が現れただと!」
熊田恰が勝静護衛の任務を解かれ、14隻の船を雇い大阪を出発したのは1月7日、途中強風に妨げられ備中松山の飛び領土である玉島に着いたのは10日後の17日、奇しくも方谷が備中松山城の無血開城を決めた翌日だった。

【柚木亭】
敗戦と10日間の大しけの船旅で熊田ら150名は心身共に疲れ切っていた。ありったけの力で玉島港についた熊田は松山藩吟味役柚木廉平宅へ、そのほかの物は分家で玉島村庄屋の柚木正兵衛宅と清滝寺へ分宿した。
鳥羽伏見の惨敗より命からがら脱出してきた熊田隊はその前日に松山城が無血開城した事など知るよしもなかった。熊田は、柚木廉平から松山藩の美袋の談判のこと、無血開城のことなど鳥羽伏見後の故郷の事を事細かく聞いた。
「そうか、松山城は無血開城されましたか、山田様のこと、だいたいの想像はついておりました。」
さらに柚木は熊田に語った。
「熊田さん、松山では藩内民家、ただの一つも火が出たという話は聞いておりません、一人の戦死者、一人の負傷者も出ておりません。」
「そうか、よかった」
熊田は満足そうにほほえんだ。
玉島は天領倉敷を挟み岡山藩を目と鼻の距離に位置する。150名もの大部隊が玉島に上陸したというニュースはすぐに岡山藩の耳にも伝わった。玉島に上陸した熊田、川田らは上陸とともに岡山藩の大部隊に取り囲まれた。藩からの謹慎命令を厳守するため、熊田は武器類を倉庫に格納し、武力行使の意志のないことを伝えた。
この時既に本丸である備中松山城は岡山藩の手に落ちている、すでに玉島で戦をする積極的理由は岡山藩、松山藩ともに持ち合わせていなかった、しかし、鳥羽伏見の残党をみすみす取り逃がしたとなると、備前岡山藩のメンツは丸つぶれとなってしまう、岡山藩としても、松山城の開城後とはいえ、熊田部隊を黙認できる状態ではなかった、そういう時代であった。
「いくさじゃ!いくさが始まる!」
玉島の住人はこの地が戦場になることに恐れおののいた、玉島の町は不安と恐怖で大混乱になった。
岡山藩はこの敗残兵の処遇をめぐり責任者数名の首を求めてきた。これに対し挙藩恭順を誓った松山藩はひたすら寛容な処置を乞うほか打つ手を持たなかった。
20日には備中松山藩 井上源権兵衛は岡山藩応接方松本巳之介と対談し、ひたすら熊田らへの寛容な処置を乞うていた。しかし岡山藩の態度はひたすら強硬な物で全くとりつく島さえない。
「万策尽きた・・・」井上はがくりと肩を落とした。
安正寺と定林寺の住職二人が行脚僧に変装し密使として熊田の元を訪れたのは1月21日、行脚僧は柚木亭に笠をおき去っていった。
熊田は密使が残していった笠を拾い上げ、緒をちぎった、笠の緒には切断して捻り織り込んだ密書が仕込まれている、松山藩の密書伝達方法である。藩よりもたらされた密書を見た熊田の覚悟は決まった。
−150名の命にかえて死ね−
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