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大石隼雄涙の直訴

家臣らに自らの死を宣告した方谷、その後の会議はまさに紛糾した。
謹慎恭順は変わらないのだから何も腹をかっさばなくとも・・
方谷が死ぬのであれば重臣すべてが切腹するべきだ・・などなど

最終的に出た結論は「大逆無道」の4文字を「軽挙暴動」にあらためる。これが受け入れられなければ方谷が腹を切る。という物であった。金子邸の密議の結果はすぐさま美袋の松山藩謝罪史へ伝えられた。そしてその内容を見た大石、三島ら3名は青ざめた。

「松山藩は今後いかなる場合も謹慎恭順の姿勢をとる、しかるに謝罪文草案内の「大逆無道」の文字を「軽挙暴動」に改めていただきたく願い出る、もしこれが聞き入れられない場合、方谷が藩侯に対するお詫びとして腹を切る」

「何という・・・・」3人は言葉を失った。
3名の背中に冷たい汗がはしる、
「この上はなんとしてもこの4文字を改めていただけなくば・・。」
3名の覚悟は決まった、なんとしてもあらためさせる、もしかなわぬならば翁一人刃にあらず、我ら3名も伏刃の覚悟、腹は決まった、後は交渉のみ。

大石は再び備前岡山藩は参謀河原源太夫の前に平伏し願い出た。
「松山藩は既に謹慎・恭順の姿勢に入っております、もはや藩内に帝の傷害になる物はございません。ただ一つ、ただ一つお願いがございます。草案の大逆無道の文字を軽挙暴動にあらためてはいただけんでしょうか・・・この願いが聞き入られない場合、我が藩翁・山田老が藩侯に忠義し腹を切る覚悟でございます。なにとぞ、なにとぞ・・・」

すでに大石の嘆願の声は号泣とかしていた。大男がぼろぼろと涙を流し、頭を地面にすりつけて嘆願している、ついで三島、横屋も大石同様涙ながらに嘆願した。

「まぁ、頭をあげられよ。」備前藩、河原の眼にも涙が浮かんでいる。
「あなた方の言われることは承知した、しかし、この件に関しては儂ではどうにも決めかねる、総監に伺った上で通達する、・・・願い、かなうといいのぉ」
そういうと河原は席を立った。

美袋談判の内容は、すぐさま松山藩討伐総監の備前岡山藩伊木若狭の耳に伝わった、そして、しばしその返答に悩み込んだ

備前岡山藩にはジレンマがあった。あまり知られていないが、岡山藩9代藩主、池田茂政は徳川慶喜の実弟である、表向きは討幕派を名乗ってはいたが、薩長にはその存在をあやしむ気配もある。岡山藩としてはここで佐幕の筆頭である備中松山藩を血祭りに上げ名実ともに新政府軍の一翼として名乗りを上げたい。

しかし、敵はあの山田方谷である・・・伊木自身、方谷の事に関しては十分に知っている。

「山田方谷・・勝てるか・・」
何度もそうつぶやいた。普通に考えると32万石の岡山藩と5万石の備中松山藩では大人とこどもの戦いである、しかし、備中松山藩には最新式の西洋銃で武装された1600名にも及ぶ農兵隊が存在する、幕府軍最強とうたわれながらその全貌を見た物はまだいない。不気味この上ない存在である。

この農兵隊は方谷が手塩に掛けて作り出した近代的軍隊でおそらく「隊」という名を付けた軍隊としてはこれが始めてであろう。安政五(1858)年、農兵隊を視察に来た長州の久坂玄瑞が「長州、備中松山に遠く及ばず」と書いた手紙が今に残る。

もう一つの気がかりが農民一揆である。山田方谷は百姓から「神」のごとく尊敬われている、もし方谷の身に何かが起こった場合、何かの拍子で松山藩5万の民百姓が怒号の津波のごとく討伐軍の元に押し寄せてくる可能性もないとは言い切れない。

「なにも、ここで意地を張らずとも、松山藩は既に謹慎恭順を申し出ている。」
備前一の切れ者は松山藩の申し出をあっさりと認めた。
伊木若狭の老獪さはさらに光る、明治元年1月17日、備中松山城無血開城を滞りなく進め、町民以外の藩士を一時期藩内から退去処分の命を出した、ただし方谷に関しては既に隠居しているものとして「藩内への出入り自由」という特別待遇を申し出た。そのうえ備前藩の門人を次々と方谷の長瀬塾に送り込んできた。

「伊木若狭、食えぬ奴じゃ」
さすがの方谷も苦笑いを浮かべた。

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